第30話 襲撃
三年前、突如現れた災厄の獣フェンリルが、風の大精霊ディアドラによって封印された。
全てが終わった後、傷ついたローザリンデは戦場跡を重い足取りで歩いていた。その腕の中には力を失ったディアドラ。
暗い闇に包まれた森の中を歩けば歩くほど、心の虚無感が増えていく。
美しかった森の木々はなぎ倒され、柔らかな大地には森の仲間たちの死体が並び、そこには自分の両親の姿さえあった。
故郷は蹂躙され、家族や仲間の多くはその命を散らし、もはや生きていることすら辛い。
『うっ……うっ……ひぐ』
ただそれでも足を止めるわけにはいかなかった。自分達のせいでこうなった彼女には、在るべきところにいて欲しかったから。
そう自分に言い聞かせ、涙の止まらない情けない顔のまま、血で濡れた大地を歩み続ける。
そうして辿り着いた祠の中で、ローザリンデはそっと腕の中のディアドラを地面に横たえた。
『……』
もはや力のほとんどを失った彼女は、声を出す事すら出来ずに瞳を閉じたままそっと自分の頬に触れる。
そこから流れ込んでくるのは、痛みや苦しみではなく、どこまでも深い慈愛の心。
『う、あああぁぁぁあぁぁ!』
その優しい心に触れ、せき止めていた感情の放流がまるで止まらずダムのように流れ出す。
思わず地面に蹲り、様々な感情が入り乱れては消えていき、自分でも今なにを感じているかがわからなかった。
そんな自分を、ディアドラはずっと見守ってくれていた。
『……』
そうして感情を出し切ったローザリンデは、まるで力尽きたかのように無感情でその場で座り込む。そうして横たわるディアドラを見て、ふと理解した。
この森全てを守ってくれた母なる存在は、月の光を纏ってそのまま天へと召されるのだ、と。
――ああ、これで私の使命は終わったのか。
ローザリンデは振り絞っていた力を使い切り、もはや何かが出来る気がしなかった。
ただ、最期の最期は彼女の傍に居ようと決めた。そして彼女の力が尽きれば、自分も後を追おうと、そう決めた。
どうせ、全てを失ったのだから。
――駄目よ。貴方にはまだお願いしたい事があるの。
そう決意した瞬間、まるで脳に直接訴えかけるような弱弱しい声が聞こえてくる。その声が誰の物なのかなど、考えるまでもなかった。
――フェンリルはいつか復活するわ。その時、生まれ変わったばかりの風の大精霊では絶対に勝てない。だから、私の力を……
ディアドラは最期の力を振り絞り、ローザリンデに後を託す。再び自分が復活を果たすために、力を集めて欲しいとローザリンデに願った。
だから、死んでは駄目だと彼女は言う。
――お願い。この森の未来を守って……
『待ってください! そんな、そんな大役をこの私なんかが!』
もはや全てを諦めて死のうとしている自分に、この森の全てを背負えるはずがない!
そう訴えかけるも、彼女は優し気に笑うだけで聞いてなどくれない。
――大丈夫。貴方はとっても、強い子だから。お願いね、私の愛しい子供たちを……
そうして黄金色の粒子となって消えゆくディアドラ。
『待って! 待ってください! お願いだ!』
消えゆくディアドラの存在はまるで幻のごとく、どれだけ手を伸ばしても空を切るのみ。どれだけ叫んでも、そこに意味はなかった。
そうして彼女は最期の最期まで笑顔のまま、その身を消してしまう。
『う、うぅぅ……こんな、こんな全てを無くした私に、立ち上がる気力すら失った私に、この森の全てを背負えと、貴方はそう言うのですか……』
そう力なく嘆いている時、ふとディアドラが消えた場所に小さな風の渦巻きが残っている事に気が付く。
そしてそれは月明りに満ちたこの場所から力を得ているかのように少しずつ大きくなり、徐々に形を変えていった。
その姿はまるでディアドラをそのまま小さくしたような存在で――
『あ……』
名もなき小さな彼女は目を見開くと、優しく微笑んで、そのまま気を失ったように地面に倒れ込む。
『っ――』
慌ててローザリンデが支えると、気絶している少女の軽さと小ささに驚いた。
『ああ、この子は――」
その存在の儚さに、まるで赤ん坊のような無垢な姿を見てふと思ってしまう。
――この子を守らないと。
一瞬とはいえ、全てを投げ出して死のうとしているこんな自分に向かって微笑んでくれた彼女を。
誰かが守らないとすぐに死んでしまいそうなこの少女を、ローザリンデは守りたいとそう思った。
大精霊の祠にて、突如襲い掛かってきた白狼族の面々にローザリンデの対応は早かった。
手に持った紅い槍を縦横無尽に振り回し、死角から攻撃してくる敵に対応しつつもイリスを守る
「くっ! 貴様ら! どういうつもりだ!」
祠に入ってきた白狼族は四人。だがその動きは間違いなくトップクラスの者達だろう。
外ではエルフ族の仲間たちが厳戒態勢で守っていたにもかかわらずここまで入ってきたのだ。何か異常事態があったとみて間違いない。
「くそ、ようやくこれで終わるという時に!」
苛立ちと焦りが感情を支配する中、襲い来る刺客たちは感情を見せずにただ自身の命を狙ってくる。
それを的確に捌きながら反撃を試みるが、四人のコンビネーションによって防戦一方となり始める。
とはいえ、ローザリンデも一流の戦士。わずかなほころびを見逃さず、白狼族の一人を紅い槍の一撃でなぎ倒す。
「これで――」
一人倒せば相手のバランスも崩れる。そう思った瞬間、残りの三人から一斉に距離を詰められ、三方向から攻められる。
「ぐっ!?」
致命傷になりかねない二人はなんとか攻撃を防ぐも、最後の一人は間に合わず蹴り飛ばされてしまう。
痛む腹を押えながら襲撃者を見ると、誰も彼もが感情を殺した暗殺者のような瞳をしていた。
しばらく起きてこないだろうと予想していた敵もすでに立ち上がっていて、まるで何事もなかったかのように構えている姿は不気味にすら映る。
彼らには見覚えがあった。それはつい先日、ホムラと共にバカ騒ぎをしていた者達。
そしてそんな彼らの背後から、一人の老人がゆっくりと歩いてくる。
「ほっほっほ。流石じゃなローザリンデよ。我が種族の中でも選りすぐりの者達を四人も相手にして互角とは。
「長老……これはどういうことだ?」
白狼族の長老は昨夜と変わらず穏やかな表情で笑いながらこちらを見る。
「なに、我らは我らで引けぬ思いがあるという事よ」
「風の大精霊ディアドラの復活はこの森に住む者全ての悲願! それを邪魔するというのか!」
「邪魔……そうじゃな。その通りだ。我らにとって、風の大精霊ディアドラは邪魔なんじゃよ」
「なに?」
フォルセティア大森林にエルフ族として生まれ、ずっと彼女の恩恵を受け続けてきたローザリンデには理解出来ない言葉だ。
風の大精霊ディアドラはこの森に棲むあらゆる者にとって愛おしく見守ってくれている母であり、守ってくれる存在。
彼女のおかげで自分達はこの厳しい環境の中、森の支配者として生活出来ているというのに、それが邪魔になる理由がわからなかった。
「分からんか。分からんだろうなぁ……きっとエルフとして生まれたお主には一生わからんよ」
長老の瞳はどこまでも真摯で真っ直ぐだ。決して何かに憑りつかれたわけでも、狂気に暴走しているわけでもない。
ただ己の使命に向けて覚悟を決めた、そんな強い瞳だった。
「我々だけではない。第一層で生きているオークも、第二層で生きている他の獣人族もきっと、あれを見たらそう感じるさ」
「……あれ?」
――神。
長老がそう言った瞬間、傍で控えている他の四人が動き出す。
その俊敏な動きはローザリンデですら対応が後手に回るほどに早い。
一人、いや二人なら間違いなく勝てるが、このレベルが四人揃うとかなり厳しい戦いを強いられる。
「くっ! 神というのは我らが守護者であるディアドラ様のことではないのか!?」
「貴様らにとってはそうかもしれんな……我らも実際に神を見るまではそう思っていたさ。だが違ったのだ!」
感情を高ぶらせた長老は、すでに紅く染まっていた空にうっすら見える満月を見上げながら高々と吠える。
「ディアドラは我らの神ではない! 我らの神は――」
そこまで言った瞬間、ローザリンデの隙をついた一人の獣人が彼女を通り抜き、そのまま奥で佇むイリスの方へと向かう。
「しまった!?」
彼らの狙いがイリスであることは途中から理解していた。だからこそ絶対に通さないつもりで戦っていたのだ。
だがついに、その堅牢な壁に穴が開き、白狼族の突破を許してしまったのだ。
「くっ!」
追いつこうにも、他の三人が邪魔をする。
『っ――』
イリスから驚愕した様子が背中から伝わってきた。もう追いつけない。このままではイリスが!
そう思った瞬間、一筋の雷光がローザリンデの傍を通りそのまま背後へと駆け抜けた。
「ぎゃっ!」
雷光が人の姿をしていると認識するよりも早く、イリスに襲い掛かろうとした白狼族の一人から、苦痛の声が聞こえてきた。
新手の敵に警戒したのか、ローザリンデを襲っていた三人は同時に距離を取り、猛攻が一度止まる。
「……お、お前は」
「イリス、ごめんね。遅くなった」
『っ――』
「そっか。とりあえず無事で良かった」
その優し気な声はこの一か月で何度も聞いた。だが彼が今この場にいるはずがない。
「悪いね。状況はわからなかったから、イリスを優先的に助けさせてもらったよ」
だというのに、ローザリンデが振り向くと、そこにはイリスを守るように雷の槍を構えて立ちふさがる、一人の男。
「一人で勝手に行動したリーダーには後で説教だね。ああそういえば、いつも俺と兄上は説教される側だったから、ちょっと楽しみだ」
――シズル・フォルブレイズ。
その才能はローザリンデですら底が見えず、敵対することを恐れた男は今、穏やかな笑顔を見せながら自分の守るべき者を背に立っていた。
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