第2話 黒龍と落雷
「あだぁ……」
シズルは母の愛情を感じながら、震える瞳でドラゴンを見据える。
蝙蝠にも似た黒い翼が羽ばたく度に突風が吹き、十キロにも満たないシズルが耐えられるはずもない。もしここで母がシズルを置いて逃げれば、このドラゴンに触れられる事無く第二の人生が終わってしまう。
だがそれでも良かった。このドラゴンが何をもって自分を狙っているのかは分からないが、狙いが自分だけなのであれば母は関係ない。
自分さえ死ねば、このドラゴンはどこかへ行く。それは直感のようなものだが、何故か間違いないと確信出来た。
――この人を、死なせちゃダメだ。
ほんのわずかな時間であるが、この愛情に溢れた母を死なせたくない。この人を死なせるくらいなら、自分一人が死んだ方がマシだとさえ、思ってしまった。
セミよりも短い人生であったが、そもそもオマケみたいなモノなのだ。二度目の人生、目標を高く持とうと思ったが、流石にこれは仕方がない。
――さあ名も知らないお母さん。俺を置いて逃げてくれ。
「ほら、大丈夫だからね。怖くないからね。おっきーねぇ。ドラゴンさん格好いいねー」
だが、母親は一向にシズルの事を離そうとしない。この人だってわかっているはずだ。このドラゴンがシズルから一切目を離さないことを。このドラゴンが何を思ってこの場にやってきたのかを。
逃げればいい。自分を置いて逃げればいい。そうすれば助かる。そうすれば生き延びられるのだ。
なのに、彼女は逃げない。
黄金の瞳を持つドラゴンによって見下されながらも、気丈に笑顔を絶やさずシズルが泣かないようにあやし続ける。
最初は恐怖に震えていた身体も今は普通だ。声だってそう。彼女は今、己の恐怖が決してシズルに伝わらないよう、必死に感情を押し殺していた。
「あだぅ……」
――強い人だと、そう思った。
この世界にとってドラゴンがどんな立ち位置なのかは知らないが、周りの反応を見る限り恐ろしい存在なのは間違いない。
シズルから見ても母はまだ二十歳かそこらだろう。転生する己よりも一回りは若い。それでもこうしてドラゴンを前に気丈に振る舞う姿は、あまりにも貴く、そして美しいものに思えた。
この人は――母なのだ。
人生経験は自分の方が長いかもしれない。しかし彼女の強さは自分とは比べ物にならない。
空からドラゴンが急降下してくる。凄まじい速度だ。周囲の人間もシズルと母を守るべく固まるが焼石に水に違いない。
その圧倒的巨体で押しつぶされれば、人間が何人集まっても止める事など出来ないだろう。
「ひっ! あ、大丈夫、大丈夫だからねー。こんなの、グレン様が来たら倒してくれるからねー」
こんな時でも母は優しい声を出す。その声は死を間近に迫ったこの瞬間でさえ、安心感を与えてくれる。それが、ずっと聞いて言いたいほど心地良いのだ。
「だ、大丈夫……ひっ、大丈夫だからっ」
それでも迫りくる巨体を前に、母の顔と声はだんだんと涙で歪み始める。それでも必死にシズルを抱きしめる。
「ドラゴンさんはすぐにどっか行きますからねー。だから、だから――」
「グオオオオオォォォォォォ!」
――うるさい。
「大丈夫、大丈夫!」
「グオオオオオォォォォォォ!」
――うるさい!
「だいじょう……シズル……?」
シズルの変化に母が困惑の声を上げるが、今は気にしている余裕などなかった。ドラゴンが迫る。その距離が縮まるにつれて、シズルは身体の奥が熱くなるのを感じていた。
ドラゴンが大きな口を開き、その喉の奥から紅い炎が見える。どうやら押しつぶすだけでは飽き足らず、炎で燃やし尽くすつもりらしい。
だがそんなことはどうでもよかった。そんなことより、このドラゴンは母を泣かしている。この強く心優しい女性を、泣かしているのだ!
――許せない!
まるでシズルの怒りに反応するかのように、一度はドラゴンによって裂かれた雷雲が轟音を鳴らしながら収束し、魔法陣を描くように雷が空を奔り始めた。
その魔法陣はどんどん大きく、そして巨大に広がっていき、輝きを増していく。
天空を支配するほど強大な魔力を感じたドラゴンが、焦ったように落下速度を上げながら、炎のブレスを吐いた。
「グオオオオオォォォォォォ!」
「オギャ、オギャァァァァァァァァァ!! オギャァァァァァァァァァ!!」
――うる……せぇぇぇぇぇぇェェ!! たかが火吹くだけのトカゲがこの人泣かしてんじゃねぇぇぇぇ!!!
瞬間、まるで神の怒りのごとく遥か天空から閃光が奔り、大地を穿って世界が震動する。その後世界から音が消え、そして――
――生きてる。俺、生きてるよ。
意識を失っていたシズルは、自分が温かい血だまりの中にいることに気が付いた。
静かだ。あれほど騒がしかった周囲の人間達は全員気絶しているらしく、立ち上がっている者は一人もいない。
あれほど恐怖をまき散らしていたドラゴンを見ると、突然発生した巨大な雷の直撃を受け、その強靭な肉体は焼き千切られていた。血は蒸発し周囲を覆う。
もはやドラゴンはピクリとも動かない。あまりに巨大な身体は、それ以上に巨大な天の裁きによってその生命を燃やしきったのだ。
それでいて、雷が間近に落ちて激しい衝撃を受けたはずなのに自分も、そして守りたいと思った母も無傷である。
不意に、唐突に凄まじい脱力感を感じる。
――あ、やばい。安心したら凄い眠気が……
一体何が起きたのか、ただただ運が良かったのか、それは分からない。ただ薄れゆく視界の中、ドラゴンの血だまりの中でシズルは改めて異世界に転生したことを実感する。
――もしかしたら自分は、この世界ではとんでもない存在なのではないだろうか?
今回のドラゴン騒動も、そしてこの落雷も含めて、偶然とは思えなかった。明らかにドラゴンは自分を狙っていたうえ、そのドラゴンに対して落雷が落ちる確率など、天文学的な数字だろう。
この二度目の人生、とにかく目標を大きく持ちたかった。
前世のように『あれをやっておけば良かった』とか、『もっと子供の頃から目標を持てばよかった』とか、そんな『後悔』をしたくなかった。ただそれだけのはずだった。
誰だってもう一度人生をやり直せば、もっといい人生を歩んでるはずだと思うだろう。そして、自分は奇跡的にもそんなチャンスが巡ってきた。ここで頑張らなくていつ頑張る。そう思っていた。
だが、何の代償もなく人生をやり直せるはずなど、ないのかもしれない。神という超常の存在によって『特別に』得られたこの人生。普通の人のようには生きられないのかもしれない。
今回の出来事を思い返し、シズルは強くそう思うようになった。
――だったら、なおさら強くならないとだよな。
せっかく剣と魔法のファンタジー世界に転生したのだ。だったら世界最強を目指したい。最初はそう思うだけだった。
だがもし、この異世界へ転生をした事に対して試練があるというなら、しっかり受け止めようと思う。そして、その全てを乗り越えて、誰もが認める『最強の魔術師』になってみせる。
それを、この『特別』な機会を得られた自分の、人生の目標にしよう。
そう決意しながら、シズルは力尽きたようにゆっくりと眠るのであった。
この日、王国を恐怖に陥れていた【災厄】の一つ、黒龍ディグゼリアが討伐された。王国はこの黒龍を倒した者を調査すると、まさかまだ加護も受けていない一人の赤ん坊だと判明する。
しかし、赤ん坊が王国の指定した【災厄】を倒せるはずがない。
偶然黒龍ディグゼリアに雷が当たった、寿命が突然尽きた。雷の大精霊が現れた。そんな風に情報は錯綜し、真実は曖昧に伝えられ、何が本当のことか判断できた者は一人もいない。
ただ一つ、この赤ん坊は世界中の誰も見たことのない【雷の加護】を受け、そしてその近くで黒龍ディグゼリアが落雷で死んだということだけが真実として伝わった。
この情報を元に、王国はこの【奇跡の赤ん坊】を世界最年少のドラゴンスレイヤーとして認定。
世界で唯一【雷の加護】を受けた赤ん坊として大切に育てることを決意するが、それをシズルが知るのはまだ先の話であった。
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