振り返れば
サヨナキドリ
麻衣と由希子
「なんだよケイ素水って!電解還元水に水素水に酸素水にケイ素水って、一体どんだけ水にこだわれば気が済むんだ!」
「わ、わたしのお金なんだからいいでしょ!健康が買えるんなら安いもんなんだから」
深夜のアパートに女性二人の言い争いの声が響く。
「買えるわけねえだろこんな単純なエセ科学を信じこんでんじゃねえよ!」
「そんな言い方しなくてもいいでしょ!何を信じるかなんて自分で決めるよ!」
「もういいっ!勝手にしろっ!!」
玄関を飛び出し、乱雑に愛車のエンジンをかける。追ってくる気配はない。
「ちぃっ!」
“追ってくる気配はない”、そう思考した自分が腹立たしく、麻衣は舌打ちした。アクセルを強く踏み、急発進させる。
深夜の街道にエンジン音が響く。日中は賑わう繁華街も、この時間では人通りもない。コンビニエンスストアの明かりが点々と続いている。交差点に灯った赤信号を見て、麻衣はさらに強くアクセルを踏んだ。どうせ他に車もいないのに、なぜ信号を守る必要があるのか。運転席で路面の凹凸を感じながら、麻衣は取り止めもない思考を走らせた。
ひとりで生きるのには慣れている。これまでもずっとそうしてきたはずだ。帰る家がなくとも、夜を越す方法を私はいくつも知っている。だから由希子と離れることくらい、私にとってなんでもないはずだった。
由希子と初めて会ったのは、私が出演したライブハウスでだった。いつもどおりまばらな客席で場違いに座っていたのが由希子だった。
(ギター、持って出るんだったな)
思い出してハンドルを握る指に力が篭る。まあいい、どうせ中古で買った安物だ。
私の演奏をいいと言ってくれる人間は少なかった。由希子はその1人だった。主催者の締らない挨拶でライブが終わった後、真っ先に私の前に来て、メールアドレスの交換を求めてきた。当時、私は恋人を頼って上京してきたばかりだった。その恋人と別れた時、“寝る場所がないので泊めてくれない?”と私はそのアドレスにメールしたのだ。それから私たちの生活は始まった。
『わたしね、麻衣が絶対に成功するって信じてるから』
由希子はいつもそう言っていた。私だって信じちゃいないのに。もっとまともなモノを信じるべきだった。
「ちぃっ!!」
アクセルを思い切り踏み、ハンドルを大きく切る。即座にブレーキ。後輪タイヤが抗議の悲鳴を上げながら路面を滑った。対向車線に移った愛車に再びアクセルをかける。今まで走った真逆の道を、まだ深い夜の中走っていく。
アパートの階段を上がり、出た時と同じくくらい乱雑に玄関のドアを開いた。目の前に立っていた由希子がビクッと跳び上がる。
「由希子!!」
「な、なに?」
麻衣はひとつ強くブレスをいれて叫んだ。
「あんたがアタシをどれだけ嫌いになろうが、アタシはあんたが大好きだ!ざまぁみろ!」
そう言って麻衣は踵を返す。その裾を由希子が掴んだ。
「麻衣」
「あん?」
麻衣が振り返る。そこに言葉はなかった。ただキスだけがあった。
振り返れば サヨナキドリ @sayonaki
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