腹ペコ天使のキューピッド日和

あきらっち

第1話


 雲の峰の向こう。白く白く霞んでいく空――。


 ようこそ! ここはオイラたちが暮らす国。オイラたちは『天使』と呼ばれる存在さ。

 ほら、オイラの頭の上に光る輪っかが浮かんでいるだろ? これが証拠さ。え? 他の天使の背中には羽がついているのに、なんでオイラにはついていないのかって? まあ、天使にもいろいろいるんだよ……。


 天使と一口で言っても、いろんな仲間がいるんだ。男女の仲を取り持つ奴もいるし、人間以外の動物の仲を取り持つ奴。キューピッドって呼ばれる存在だな。あとは、いたずら好きで災いを引き起こす奴ら。デビルとも呼ばれているらしいけど。ま、つまり、オイラの国にはいろんな天使がいるってことだよ。


 で、オイラは男同士の仲を取り持つキューピッドさ。恋愛に悩めるゲイたちを救い出すのが、神様から命じられたオイラの仕事なんだ。えっへん!

 え? オイラの名前? さあ? 偉大なる大先輩クラスになると人間から名前をもらうことはあるけれど、オイラみたいな下っ端天使には名前なんてないんだよ。でも、オイラはいつもお腹を空かせて、お腹をグーグー鳴らせているから、仲間たちからは「腹ぺこくん」って呼ばれているけどな。だからきみも、オイラのことはそう呼んでくれていいからな。


 グーッ!

 おっと、おしゃべりしてたらお腹空いちゃったよ。今日もつまみ食いしに……じゃなくて、お仕事お仕事。恋に迷えるゲイを救い出しに行きますか。ん? その手に持ってるペロペロキャンデーは何かって? 分かってないなぁ。これはオイラの魔法の杖だよ。おやつじゃないんだよ。……ここだけの話、実はなめると甘いんだよ。


 ……本当はさ、天使のお仕事は人間に見られちゃいけないんだけど、きみだけには特別にオイラの仕事ぶりを見せてあげるよ。

 じゃあ、行こうか。きみたちが暮らす地上へ――。



 腹ぺこくんは、地上に向かって羊雲をかき分けていく。


 雲を抜けると、マンションと一軒家が無造作に立ち並ぶ街の上空に出た。空の上を漂うように、のんびりとフワフワ飛び回る。羽はないのに空を飛べるようだ。

 時刻は夜の九時を過ぎたころ。街の明かりが銀河のように密集している。街明かりを見下ろしながら、腹ぺこくんがつぶやく。

「ここ辺りにSOSを感じたんだけどなぁ……」

 ふと腹ぺこくんの鼻がひくっと動く。醤油の焦げる香り、それを追うようにニンニクの刺激的な香りを感じたからだ。

「うわー。美味しそうな匂いだなー」

 腹ぺこくんのお腹が豪快に鳴る。

「どこだどこだ?」

 腹ぺこくんがキャンデーを振りかざすと、光の筋が街明かりの一つに向かって伸びていく。

「よーし、あそこだ!」

 腹ぺこくんは、光跡に導かれるように飛んでいく。

 

 キャンデーには、ぼんやりと文字が浮かび上がっている。

 mission 新谷広志(25) 大島直正(31)




「よしっ。今日のは良くできたな」

 広志は、立ちこめる匂いに顔をほころばせる。テーブルの上には湯気が立つ焦げ茶色の鳥の唐揚げ。醤油とニンニクたっぷりの濃いめの味付け。それが広志の彼氏でもある直正の好みだ。

 根菜たっぷりのコンソメスープに、薄切りにした大根に昆布茶を揉み込んだ箸休め。どれも直正の好物だ。今日は二人が出会って三周年記念日だから、腕によりをかけて作ったのだ。

「直正、早く帰ってこないかな」

 ここ数週間は、すれ違いの生活が続いていて、なかなか一緒に食事ができなかった。せめて、記念日くらいは一緒に晩ご飯を食べられたらいいなと思っていた。その密かな願い事が通じたかのように、

『今日は早く帰れそうだから、久しぶりに一緒にご飯食べるか』

 今朝、直正が玄関で靴を履きながら、言った。今日が三周年記念日だってこと覚えてくれていたんだ。広志は、胸がじんわりと温かくなった。だから、今夜は直正が好きなものをいっぱい作ろうと。


 時計を見ると九時をとうに回っている。残業だったとしても遅い。広志はため息をついて椅子に座る。うつむきがちに湯気の立つ唐揚げをぼんやりと眺める。

 天井の片隅の空気が揺らめく。揺らめきの中から、腹ぺこくんが音もなく姿を現した。寂しそうにうなだれる広志の後ろ姿をじっと見つめている。美味しそうな匂いが立ちこめる部屋に、不自然なほどの静寂に包まれている。腹ぺこくんはペロリとキャンデーをなめる。

 その時だった。

 カチャリ……。

 玄関のドアが開く音がした。

 広志は一瞬で輝きを取り戻して、反射的に立ち上がって玄関に向かった。

「お帰り。遅かったね」

 壁に手を突いて靴を脱いでいる直正に声をかける。

「ん……」

 ふと広志は、直正の吐息に違和感を感じて、尋ねた。

「なんかお酒臭くない?」

「ああ、急な接待が入ったからな」

「接待って?」

「参ったよ。いきなり食事に連れ出されるんだからな」

「……ご飯作って待っていたんだけど」

「はあ? もう食えるわけないだろ? 腹一杯だっての」

 直正はイライラした口調で答える。

「今日は何の日だったか覚えてる?」

 独り言のような抑揚のない声で広志が訊く。

「覚えてるわけないだろ。それより、もう疲れてるんだ……」

 そう言いながら、直正は寝室に入ろうとする。まだかすかに湯気を立てる、ダイニングテーブルに置かれたごちそうにも目をくれずに。

「ふ…」

 広志は絞り出すように、のどの奥から吐息ともつかない囁きをあげる。

「ん?」

 直正が振り向いた瞬間、広志の拳がスローモーションのように迫ってくるのが視界に入った。

「ふざけるな!」

 堰を切ったような鋭い叫び。拳が視界から消えた瞬間、頬に重い衝撃を感じた。

 一瞬、何が起こったか分からなかった。呆然と立ちすくむ直正。そして、肩で息をしながら、幾筋もの涙を流す広志。どれだけの時間が経ったのだろう。それはほんの数秒なのに、二人には永遠のような時間だった。

 腹ぺこくんだけが、この二人のやりとりを無表情で眺めていた。もう一度キャンデーをぺろっとなめる。この二人には腹ぺこくんの姿は見えていないのだろう。

「……ちっ」

 ようやく重々しい沈黙を破るように、直正が憎々しげに声を発する。

「勝手にしろ」

 直正はそれだけ言うと、きびすを返して、何も持たずに再び玄関を出ていった。

 広志は、握りしめた拳をだらりとぶら下げて、ただ立ち尽くしていた。


 やれやれ、仕方ない二人だな。

 腹ぺこくんは、心の中でつぶやいた。さて、どうするかな。腹ぺこくんは、ぐーっとお腹を鳴らした。



 生暖かい風が直正の頬をさする。そのたびに、頬はジンジンと痛む。まるで傷口を無理矢理にこじ開けられていくかのように。

「ったく、広志の奴、思い切り殴りやがって……」

 直正は憎々しげに舌打ちする。

 その粘つくような音は、夜の帳に反響したかと思ったら、角砂糖が崩れるように消えていく。

 残ったものは、切なさと悲しさだけ。

 何で俺が殴られなきゃいけないんだ?

 何のために、広志と暮らしてきたのだろうか。

 舌打ちしたい気持ちはいつの間にか消えて、代わりにでてきたのは深いため息。

 遠くに見えるマンションの明かりがぼやけてきた。

 何で……。何のために……。

 そんなあてもないことを考えながら、ぼんやり歩いていると、公園の入り口が、直正の目に入った。

 退屈な休日の昼下がりに、暇つぶしで二人で散歩している公園だ。なにかに誘われるように、直正は公園の入り口をくぐった。

 夜の公園は初めてだった。弱々しい街灯の光が、幻想的に公園の木々を照らしている。足下には、風が吹けば消えてしまいそうな淡く薄っぺらい影が伸びている。

 知らなかったな。夜の公園がこんなに暗くて静かだったなんて。直正は、そっと広志の手をつなごうとして、空気をつかんだ。ここには広志がいない、そんなことも忘れてしまうような静寂があたりを包んでいた。

 広志……。

 愛しい人の名前を心の中で呼びかけると、頬がズキズキと痛んだ。こんなにも愛しているのに。

 「何で俺が殴られなきゃいけないんだ?」

 絞り出すように、ぽつりと直正の口から漏れた。耳打ちするようなささやき声なのに、その声は増幅しながら夜の公園にこだました。思いの外に響いた声に、誰かに聞かれはしなかっただろうかと、直正ははっと顔を上げた。見渡した先には誰もいなかった。

 けれど、次の瞬間、直正は飛び上がるほどに驚いた。背後から、闇夜をそっと切るような透き通った声がしたからだ。

 「オイラが教えてあげるよ!」

 直正が振り返ると、五歳ほどの背丈をした少年が、直正の目線より少し高いところでふわふわと浮かんでいた。少年の頭上には、淡く黄金色に光る輪っか。その手には、少年ほどの顔ほどもある大きなキャンデー。

 直正は、自分の目を疑うかのように、何度も瞬きをしては、手の甲で目元を拭った。



「へへっ。オイラは天使さ。腹ぺこくんって呼んでくれよな!」

 直正は信じられないものを見たという表情で、その場に立ち尽くしたまま。

「オイラに任せなよ!」

 腹ぺこくんは、頭上にキャンデーを掲げた。

 キャンデーの渦巻き模様が回転し始めた。

 そして……、

「うわっ。なんだ? 吸い込まれ……」

 直正は地面に踏ん張ろうとするけれど、

「うわぁっ!」

 直正の身体はキャンデーの中に消えていった。


「うわわわわっ」

 正直は闇の中を真っ逆様に落ちていた。これ以上落ちないようにもがくけれど、水の中に沈んでいくような感覚。

「いてっ」

 水底に尻餅をついたようだ。正直は立ち上がって、ぶつけた尻をさする。

「……ここ、どこだよ?」

 自分の手すらも見えないほどに、真っ暗な闇の中。

 闇に飲み込まれて同化してしまいそうな圧迫感。

 こんなにも光が恋しいと思ったことがない。

 直正は闇をかき分けるように、光が差す場所を探して走り出した。

「助けてくれよ。広志」

 愛しい人の名前を口にした瞬間に、ぽうっと小さな明かりが遠くに浮かんだ。

 直正は、助けを求めるように、明かりに向かってひた走った。

 息を切らしながら、たどり着いた明かりの中には、二人の人影があった。紛れもない、直正と広志の姿だ。


「今日は早く帰れそうだから、久しぶりに一緒にご飯食べるか」

 明かりの中の直正が言った。今朝、直正が無責任に広志に口にした言葉だ。

 その言葉を聞いた広志の顔が輝いた。二人を包む明かりなど、かすんでしまいそうな笑顔だった。

 大げさなやつ。明かりの中の直正は少しあきれていた。

 

 突然二人を包んでいた明かりが消えて、再び辺りは闇に包まれた。直正は慌てて左右に首を振った。見渡した先に、また小さな明かりが浮かび上がった。直正はそれに向かって走り出した。


 直正を見送った後だろうか、玄関で広志が一人立っていた。

「直正も、僕たちが出会って、今日が三周年記念日だって覚えていてくれたんだ」

 光の中の広志が嬉しそうにつぶやいていた。

 三周年記念日だって? そんなの全く覚えていなかった。それどころか、考えもしていなかった。直正は目を見開いた。


 また明かりが消えて、辺りは闇に包まれた。またどこかで明かりが灯るはず。直正は四方を振り返った。背後に明かりが浮かび上がった。直正は迷わずに向かった。


 仕事帰りだろうか、広志のスーツ姿。どうやらスーパーで悩んでいる様子だった。

「直正。なにが喜ぶかな? ……やっぱり唐揚げかな」

 まるで宝物を手にした表情で、広志はかごに鶏肉を入れる。

 そうだよ。俺は広志の作る唐揚げが好きなんだ。こんな何気ないことなのに、広志は俺の好みを覚えていてくれたんだ……。直正は拳を握りしめた。


 またもや明かりが消える。そして、すぐ隣で明かりが灯る。直正はおずおずと明かりの中を覗き込む。

 そこには、台所で唐揚げを作っている広志の姿。

 その表情は、紛れもなく大切な人が喜ぶ顔を楽しみにしている、そんな希望にあふれていた。

 こんなにも、広志は俺のことを思ってくれていたのに、俺は適当な発言で広志を傷つけてしまっていたんだ。直正は握りしめた拳で自分の胸を叩いた。


 ついに明かりが消えた。押しつぶされそうな暗闇が直正に襲いかかる。ようやく、これは広志の絶望なんだと気づいた。

 俺が広志を絶望に突き落としてしまったんだ。直正はその場にへたりこんだ。

「ごめん……。広志」

 直正は頭を抱えて、絞り出すように、自分が傷つけてしまった大切な人の名前を呼んだ。


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