第5話アスクレー司祭

ドアノブの回る音でリマは竦みあがったが、小柄な少女が姿を見せたのでひとまず安心した。

ちょっとくすんだ金の髪の少女。

それでも十分に可憐だ。瞳がキラキラだから。


「おっじゃましまーす」


場違いに能天気な声をあげてマアリが扉をくぐる、サービスワゴンをガラガラ押して。


可憐なつもりのウインク付き


驚いているリマには目もくれずにたちまちテーブルの上を衣替えする

冷めた御馳走が見る間に撤収して、温かな朝食がびっしり並ぶ


「食べましょ」

「えっ……」

「ああ、マトー様なら暫く戻らないと思うわ。なんだか様子がおかしかったもの。とってもおかしかったわ。うん」


勝手に一しきり頷くマアリ


「あっ、忘れてた。私マアリっていうの。メイドのマアリ。ネズミ退治なら一家言あるわ。よろしく」

勝手に手を掴まれてぶんぶんふられる。小さくて温かな手。


「あ、あの、私はリマと申します……奴隷、の。」

「知ってる」


好奇心満載の無遠慮な瞳がまじまじリマを覗きこむ


「んー、貴方がリマ。リマちゃん。マトー様の奴隷ねえ。奴隷。奴隷ってこの城には居ないのよ。意外でしょう。それにこのお部屋に入れる女の人もとっても少ないのよ。」

「は、はあ……」


どう取っていいのかわからないのでリマは曖昧に返事した。お構いなしにマアリがにっこりほほ笑んで手を鳴らす


「ねっ、お腹すかない? とにもかくにもなんか食べましょうよ。御飯って誰かと一緒に食べたほうが美味しいわ。あっ、私が御馳走を盗み食いしたことは内緒ね」

矢継ぎ早にまくしたてるとたちまちパンを頬張りだす


可愛らしい人。悪い人にはとっても見えない。


気が緩んだとたんお腹がぐうとなった

恐ろしいマトーの前で無ければ、こんなにも胃は正直だ。

ほかほかのバケットに手を伸ばす

焼き立てのバケットの上でバターがするりと溶ける


***


満腹になれば人は嫌でも多少幸せを感じる生き物なのかもしれない

たとえ、死の直前でも


マアリが食後のお紅茶を煎れる

見事な金彩で百合があしらわれたティーポッド

琥珀色の液が金縁のカップに注がれて、甘く香り立つ。


幾分余裕を取り戻して打ち解けたリマが、マアリに問いかける


「ねえマアリ、この城にとらわれた人は三月の命だと聞いたわ」

「それはあながち嘘じゃないわねえ」

「どうしたら生き延びられる?」


「生き延びたいの?」


マアリが金の縁から唇を離す


「あたりまえよ!」


「死より惨めな目に遭っても?」

「私はバールの信徒だわ。どんな目に遭っても生きなければならないの。バールの神様は自殺を許してくれないもの」


「神さまを信じているのね。大事な事よ。私はもう忘れてしまったわ」

マアリはそっとリマの手を取ってほほ笑んだ。


「そうねえ。いろいろ忠告があるわ。まず、逃げないことね。脱走者はみんな森の狼に食べられちゃうわ。あの狼ったらマトー様の言うことを何でも聞くのよ!」


がおーっ! っとマアリは大げさに手をひろげてリマを脅かす


「それからマトー様の怒りを買わない事ね」

それは随分難しいぞとリマは思った。もう何度も買ってしまっている。私の顔を見るだけで、怒りが湧くのではないだろうか


「それから何より大事で難しいことは……」

マアリが人差し指を立てて声を落とす


「あのお方を愛さない事!」


「愛?」


思わずリマは聞き返してしまう


「そう、愛よ。この世で一番尊いもの。そしてマトー様が大嫌いなもの。」

「どうして?」


「知らないわ。でもとにかくマトー様は恋愛沙汰が大嫌いなのよ。愛とか恋とか、そういったものが全部! 恋人のおられるスライ様には随分と辛く当たられるわ。まあ、スライ様もめげないんだけど」


ぐうっと、拳を握りしめるマアリ


「もし! マトー様に惚れても! 愛しているなんて絶対に言わない事ね。殺されてしまうわ。最初から愛さない方が賢明ね。想いは伝えたくなってしまうもの。」


「あの恐ろしい人を愛すことなんて絶対にないわ!」


リマはふるふるかぶりを振ってきっぱりと言い切った。


「そう、何度か抱かれても同じことを言えたら立派だわ。とりあえずこれ渡しとくわ。忘れないうちに」

マアリがポンと小瓶を渡す

小さな桃色の丸薬がさらさら詰まったガラス瓶

「これなあに?」

「避妊薬よ」

「まあ!」

リマの心臓がぎゅっと跳ね上がる


避妊!

なんという大それたこと。神をも恐れぬ行為。

教会が厳しく戒め、それ故に秘密裏に求められる


金より高値で取引される薬


「ここでは傷薬より手軽なものよ。もしマトー様のご寵愛をいただいたら、一粒飲むのよ。必ず三日以内にね。飲み忘れたら翌月には首が飛ぶわよ。それだって立派な愛の証なんだから。どんな想いをしたって生き延びたいのでしょう?」


***


食後のお紅茶はすっかり冷めて濁ってしまった

「行きましょう。アスクレー様の所へ案内するわ」


マアリがふわりと立ってリマの腕をひく


二輪の可憐な花が真っ赤な回廊に咲く


最奥の扉の前でマアリは立ち止った

ちょんと壁の小さな突起を押す


暫くするとチンと可愛らしい音が響いて扉がゴウンと開いた


リマの部屋程の小部屋。


手を引かれて入ると、またひとりでに扉は閉じた。


ひゅごうん……


小さく音が響いて耳が鳴る


かすかにふわっと感じる浮遊感


落下している


「な、なあにこれ?」


「エレベーターよ」

「えーれべーたー?」


「エレベーター。54階も階段を上りおりするのは大変でしょう?」


リマが地下牢までの階段をすべて降りたと言うとマアリはケラケラ笑った。


「あの階段を地下牢まで下りたの!? よく目が回らなかったわね」

「必死だったの!」


扉の上にあしらわれた銀の針がゆっくりと回る


「ねえ、この城っていったい何なの? 人の手で作れるとは思えない。神様が作ったの? 夜でも真昼の様に明るかったわ。」

「恐ろしいマトーの城よ。誰が作ったのかは知らない。マトー様に聞くといいわ。城中の設備を整えて、灯りに火をともしたのはマトー様だもの。あのお方はこの城の秘密を知り尽くしているみたい。あなた信じる? 星を二つ持っているという話よ」


星?


聞き返そうとしたリマの唇は遮られた

そこでまたチンと鐘が鳴って扉が開いたから



***


そのフロアは何もかもが真っ白だった。

壁、天井、床、窓の縁、カーテン。


潔癖なまでの白


連綿と続く戸棚に整然と薬品が並んでいる


「アスクレー様、リマちゃんを連れてきましたよう」


真っ白の部屋にひと際輝く銀が揺れる

腰まで丁寧に編み込まれた銀の髪の男


何か不思議な機械の前で頭をひねっている


「うーん。さすがにちゃんと検査した数値が出ないと確信できないなあ。でもマトーは滅多に血を採らせてくれないし……いっそあのお楽しみ薬に自白剤を混ぜて……効くのかなあ。んっ? お客さん? それとも患者さんかな」



男が振り向いてにっこりほほ笑む

美しい銀の瞳。優しいまなざし


だがなぜだろう、瞳の底は読めない

細い目元がさらに糸のように引き伸ばされる。満面の笑顔。バンッと分厚い本を叩き閉じて腕を広げる


「リマちゃん! 待っていたよ! 本当に長い間君を待っていたのさ! まあ、城中君の話でもちきりなんだけど」


一方リマの方も、眼を見開いてアスクレーを見返した

正確にはそのいでたちを


ゆるりと着流した純白の衣。よもや、この城でその聖衣を拝めるとは。そう、信じていいのかしら。


その胸にあしらわれた二対の銀の蛇を。

それは教会の……

「司祭様なのですか!?」

「うん」


へらりとアスクレーが笑う

「なぜ司祭様がこのような恐ろしい城に?」

「捕まっちゃったから」


実もふたもない理由だ


だが司祭がいる!

なんという僥倖だろう。リマはアスクレーに駆け寄って、もう膝まづかんばかりに衣を手繰った


「司祭様がおられるなんて……! 私、私、どんなに励まされるでしょう。もう神に祈る事など出来ないと諦めておりました。」

一気に張りつめた糸が緩んでぽろぽろと涙があふれる。アスクレーが若干戸惑う


「あ……っ、うん。まあ、ぼくで良かったら色々悩みとか、訊くから……。命惜しさに生臭稼業に身を染めた、はぐれ司祭だけど。」


ぽんぽんと、アスクレーの長い指がリマの頭を撫でる。


「何か、かんどーてきな感じっすねえ。アスクレー様が聖職者っぽいなんて」

「うるさいよマアリ」

アスクレーがマアリをねめつける。


「可愛い女の子に抱きつかれたからって、鼻の下のばして診察を手抜きしないでくださいよ。いっとう長く持つように言われたんすから」

「あのマトーが本当にそんな事言ったの? 今までそんな事言った事あったっけ」


「はじめてですよ」


「うーむ、興味深い。やっぱりこれは……。まあ、考えるのは後にしてとりあえず一本打っとこう!」

アスクレーが景気よく指を鳴らす。鼻歌まじりにカチャカチャ器具を引っ張り出す。キラキラ輝く銀食器のような不思議な器具。


「なにをなさるのですか?」


「注射を打つのさ。予防接種と採血」

歌うようにアスクレーが答える


「ヨボーセッシュ?」


「小さな針を血管に刺して薬を流し込むのさ。どんな病気にだってかからなくなる。高い高いお薬。お貴族様は喉から手が出るほど欲しがるよ。この城では誰もが受けられる」

アスクレーが注射針を天にかざす。針の先からとろとろと液が零れる。


「リマちゃん。腕をまくってくれるかな。ちょーっとちくっとするけど、我慢できるよね?」

「はい。司祭様のおっしゃられることならば、私怖くありません。信じます」

少し、信心深過ぎるが……賢明な娘だなとアスクレーは感心した。


リマが細い腕をむき出しにしてきゅっと目をつむる。

アスクレーが手を伸ばして


「ちょっ、痛い痛い痛い!」


真黒なマトーに腕をひねりあげられた。


「俺のリマに触れるな」


低い声が計器を震わす


「さ、触らないと注射が打てないよ」

「俺が打つ」

それは若干、無理ってもんじゃないかなあ。


患者が蒼白だもの。


アスクレーは喉元まで出かかった言葉を飲んだ。

かわりにごめんね、と小さくリマを拝んで逃げる。

マトーの太い指が取りこぼした注射器を拾い上げる。ほんのわずかにためらって……リマの腕をつかんだ。


切っ先が皮膚にあてがわれる


……っ!


鋭い痛み。


だが恐ろしすぎて何とも感じない。


心臓を抉りだされる。怖い。

手首をボキッと簡単にやられるのでは? 

なんとか意識を手放さないようにぐっと唇を噛む


実際には、細心の注意を払って、優しく扱われていたのだが……。


それすら気付けない


けれどもマアリとアスクレーはしっかり気づいた


素早くたがいに目配せする


あのマトーが! 

女の手一つ握るのにびっしり汗をかいている!


これは前代未聞だ


一刻も早く城中に広めなければ!


背丈も髪の色も違う二人の共通点……



二人ともゴシップ大好きのキラッキラの瞳である





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