第二幕
昨夜の出来事は、ひとときの夢のようだったけれど。その余韻が抜けずにいた私は、にんまりと笑みを浮かべてしまっていた。
翌日の朝食後、午前の座学の時間が終わると、教育係にそれを半眼で咎められた。
「何を笑っているのですか、アーシェ。だらしないですよ」
「申し訳ありません。久々に楽しい夢を視たもので」
「……そうですか。気を抜かず、予習復習も怠らぬように」
「はい、先生」
私のにやけた表情は、教育係から見れば不愉快だろう。常にリノン様のような上品かつ可憐な笑顔を浮かべるように、と私を
彼女の退室後も、私は学習机に頬杖をつき、フィアに思いを馳せた。
――今夜も会えるかな。バレて処分とかされてないといいけど。
声音からして、互いの
日課とはいえ、いつも退屈な学習時間も、今日からはやる気が増していた。我ながら単純だ。今までにはなかった楽しい密会が待っていると思えば、自習も捗る。
そして、平常通りの一日を過ごした深夜。昨日と同じ時間帯に、フィアはやってきた。
「こんばんは、幽霊さん」
「こんばんは、フィア」
ベッドの端に座り、私も
――本当に来てくれた。
胸が躍り出す感覚も、何年振りだろうか。
「フィア。今宵は、私もあなたに質問させていただいてもよろしいでしょうか」
「はい、何なりと」
「ありがとうございます。昨夜も気になっていたのですが……」
二つ返事で了承してくれたフィアに、問いかける。
「隠し扉の鍵をお持ちの方も、本来ならばごく限られているはずです。あなたはなぜ、どのようにそれを入手されたのですか?」
怪談を真に受けて真相を確かめたかったからといって、その動機で教育係たちが安易に鍵を貸し出すとも思えない。
ためらいがちな返答が、地下室の扉越しに聞こえた。
「実は……とある方からお借りした合鍵を使ったのです」
「その方とは?」
「ご本人にご迷惑がかかってしまいますので、私の口からはお名前やお立場などは申し上げられません。どうかご容赦ください」
「なるほど。あなたのお気持ちに添ってくださる方がいらっしゃるのですね」
合鍵は複数造られているだろう。けれど、機密指定区域へ繋がるそれを、一介の侍女に貸し出せる者となると――王族か宰相の一部か。それほどの人物との関わりが、彼女にはあるのだろうか。疑問と好奇心が尽きない。
「その方は、こちらへはご一緒に来られないのですか? ぜひお話ししてみたいのですが」
「いいえ……私一人で地下室へ伺うことと、地下室や幽霊さんについて決して口外しないことを条件に、その方は合鍵をお貸しくださいました」
確かに、単独で訪問したほうが、目撃される確率や危険性も低くなる。フィアの口の堅さも、合鍵を貸した人物は熟知し、信頼しているのか。
「幽霊さんが仰った、『晶心病』を根絶するために魔女の子孫を滅ぼすというお話、とても考えさせられました。ほかによい方法はないものかと、自分なりに頭を捻りましたが……残念ながら、名案は思い浮かびませんでした」
「あなたは、本当に真面目な方なのですね。もしかして、身近に患者さんがいらっしゃるのですか?」
「はい。私の……妹が」
彼女は、切なげに打ち明けた。
「実家で療養中の妹は、自分を責めております。晶心病でさえなければ、家族にも周りにも負担や迷惑をかけずに済むのに、と。ですから、私は……」
「魔女の血を引く幽霊に訊けば、晶心病の詳細な手がかりもつかめるかもしれない。そうお考えになったのですね」
「はい」
「あなたと妹さんの助けになれればよいのですが、私も詳しいことは存じません。ごめんなさい」
「いいえ……幽霊さんにそのようなお優しいお言葉をいただけただけで幸いです。ありがとうございます」
医師にも侍女たちにも相談しづらいことを、フィアは意を決して私に打ち明けてくれたのだろう。彼女に隠し扉の合鍵を貸した人物も、彼女とその妹を案じているのかもしれない。
「ですが、晶心病の件を抜きにしても、私は幽霊さんともっと色々なお話がしたいです」
「ふふ、そうですね。せっかくこうしてお近づきになれたのですもの」
地下室の扉は、専用の鍵でしか開けられない仕組みだけれど。フィアがその向こうにいる事実と、私に語りかけてくれる透明な声が、分厚い扉の存在感さえ一時的に取り払ってくれるかのようだった。
「ご一緒に語らいましょう。どのようなことでも」
「ありがとうございます。お姿が拝見できないのは残念ですが。幽霊さんとお近づきになれて、心からうれしいです」
「ええ。私もですよ、フィア」
密やかな互いの笑い声が、
この時間が、ずっと続けばいいのに。
☆
それからも、フィアは毎晩地下室へ来てくれた。私は起床した瞬間から、彼女の再訪を待ち焦がれていた。ひとりきりのときは、頬の筋肉が弛みっ放しだ。さすがに、もうにやけ顔を教育係に晒さなくなったけれど。
本棚に並ぶ学習用の教本や歴史書、資料なども、以前より真面目に読むようになった。リノン様の『影』として教養を身に付ける必要が元々あったけれど、フィアとの雑談にも知識を活かしたかったのだ。
「こんばんは、幽霊さん」
「こんばんは、フィア」
すっかり定番になった挨拶から、私たちの密会は始まる。
地下室の外での出来事が知りたいと要望した私に応え、フィアは色々な話を都度聴かせてくれた。
侍女たちの間で流行っている、おいしい茶菓子のこと。
国王陛下が、城内をお通りの際には侍従や侍女にも毎度朗らかにご挨拶くださること。
廊下の窓から入ってきた鳥を追い出し、その糞を掃除するのが大変だったこと。
彼女の思い出一つ一つの風景を想像すると、私も自然と笑みがこぼれた。
やがて、国の平和記念式典開催前日が訪れた。私は例のごとく、リノン様に代わって式典に臨む。国王陛下や教育係も交えた打ち合わせの後、式典挨拶の原稿を何度も読み返しては、壁に飾られたリノン様の肖像画を見つめた。
――私の命で、リノン様やフィアの妹の『晶心病』も治ればいいのに。
魔女の血を引く者が滅べば、晶心病も消滅するかもしれない。仮説を告げたのは私だけれど、フィアの反応は痛ましげだった。ほんの十数日間言葉を交わしただけの間柄なのに、彼女は私の境遇を憂えて理解してくれている。私が彼女に返せる最大限の恩義は、それしか残されていない気がした。
式典に備え、普段よりも少し早めに
「こんばんは、幽霊さん」
「こんばんは、フィア。今宵はお早いのですね」
「はい。明日は、国を挙げた平和記念式典が催されるのです。私もその準備をしておりまして、通常業務も早めに終わりました」
「なるほど。きっと素晴らしい一日になるのでしょうね」
フィアも、私が演じるリノン様をまた見てくれるのなら、さらに胸を張って背筋を伸ばせる。どんな栄誉よりも、彼女と築いてきた関係が誇らしい。
「あの、幽霊さん……ひとつだけ、お願いがございます」
「あら、何でしょうか。魔法以外のことでしたら、お気軽に仰ってください」
フィアの声の硬さが気になったけれど、私は快く促した。
「一度だけでよいのです。幽霊さんのお顔を、見せていただけませんか?」
え、と驚く自分の声が、喉に引っかかる。それはできない、と即座に断れもしなかった。
フィアは、あくまで真剣に
「どうしても、今夜でなければだめなのです。地下室の合鍵も、とある方から特別にお貸しいただきました」
私がリノン様の『影』である事実やその存在を、他者に知られてはならない。アーシェという人間の個性は、必要ない。そのはずなのに。
私は、フィアを突き放せない。
彼女に拒まれるのが怖いのか。二人きりの楽しい夜を過ごせなくなってしまうのが惜しいのか。
「私がずっと幽霊さんにお会いしたかったのは、本当です。直接お伝えしたい感謝と謝罪があるのです。今も晶心病に苦しんでおられる、リノン様のためにも」
胸を鈍器で殴られたかのような衝撃が、その言葉にはこもっていた。
「……リノン様も、患者なのですか?」
「はい。私も、ご
――どうして……フィアがそれを知ってるの?
彼女のような新入りの侍女が、王女の世話役を早々に任されるとも思えない。彼女に合鍵を貸した人物が、情報を流したのか。
フィアは、何者なのか。
正体を知る覚悟を決め、寝間着姿のまま慎重に歩む。煌々と光る照明の下、私は重く冷たい扉に指先で触れた。
「わかりました。鍵を開けてください」
「ありがとうございます……!」
安堵した声の後、フィアがカード型の鍵を専用読み取り機に通す音がした。
扉が自動的に横へ開いていく。
薄暗い通路には、黒い
「申し訳ありません、幽霊さん。あなたにいくつか嘘をついておりました」
その下から現れた顔立ちを一目見て、私は絶句した。肖像画と彼女の容貌が、重なる。
「私は、フィアという名でも、侍女でもございません」
「リノン、姫様……?」
国の王女殿下は、私に凛然と向き合われた。
――どうして……?
確かに、一目だけでもお会いしたいと淡い希望を抱いていた。けれど、まさかフィアがご本人だったなんて。
リノン様は、私の真正面に立たれる。
「よいのです、どうかそのままで」
「リノン様、なぜ……」
「幽霊さん――いいえ、アーシェさん。私が、お父様にわがままを申し上げたのです。私の代役を務めてくださっているあなたに、一度だけでもお会いしたい、と」
腑に落ちた。
リノン様に合鍵を貸し出されたのは――国王陛下。昔、魔獣に襲われかけた私を偶然救い、この城に住まわせてくださった御方。
動揺が拭えない私の手を、リノン様はしなやかなてのひらでやわらかく包んでくださる。
「お父様は、魔獣が滅んだ暁には『影』に会わせると約束してくださいました。先日の演説も、中継放送を自室にて確認していたのですが……アーシェさんのお姿を見るたびに、私は泣きそうになるのです。私があなたの人生を奪ってしまったも同然なのに、こんなにもご立派に公務を成し遂げておられるなんて、と」
「リノン様……私が『影』として生きるのは、決してあなたのせいなどではございません。どうか、ご自分をお責めにならないでください」
確信した。フィアの妹の話も、リノン様ご自身のことを指していたのだ。
てのひらを伝うぬくもりが、互いの心も暖めていきそうで。不覚にも、目が潤みかける。
「あなたが魔女の血を引く者であること。灰色の髪も、脱色後に染毛剤で私と同じ色に染められていること。あなたに関する可能な限りの情報を、お父様から教えていただきました」
「そうだったのですね……」
「公務には代わりの者が出席すると侍女から聞くたびに、それがどのような方なのか、気になっておりました。本来はきっと、王女である私が知る必要はない、と隠されてしまう情報でしょうけれど。連日実際にお話しして、あなたがとても素敵なお人柄なのだとわかり、安心いたしました」
ふわり、と。リノン様の両腕が、翼にも似て私の背に回された。
「私にとっては、アーシェさんが輝かしくあたたかな『光』なのです。不甲斐ない私とお話をしてくださって、本当にありがとうございます……!」
抱きすくめられておずおずと、私もリノン様のお背中に両腕を添える。
不甲斐ないなんて、とんでもない。『影』である自分が、ご本人の御心の支えになれていたのなら、むしろ至上の喜びだ。
やっと、初めて報われた。私の存在と、リノン様のために続けてきた働きが。
星型の結晶体が、照明の光を浴びて清冽にきらめいた。
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