第一章

旅の始まりは

 この世界に来て、一月程が経った。…いや、俺の中では一月というだけであって、この世界の一月が三十と周辺なのかはわからない。

 レイナの怪我も完治し、俺達は草原を後にする事にした。

 レイナは優しい女だった。

 勝手に連れて来てしまった俺に、激昴する事なく、面倒を見てくれた礼だと、毎日食事を作ってくれた。

 …昔、助けた女はどうだったかな

 …昔、助けた男はどうだったかな

 そんな事をふと思ってしまった。いや、思った所で思い出せる筈も無いのだが。

 俺が草原を立つと言うと、レイナはついて行くと言った。

 ついて来なくても良いと言ったのだが、そこで初めて、責任を取ってくれと言われた。

 激昴するでもなく、負の感情をぶつけるでもなく、彼女はそう言った。

 それに、エリューシアが微妙な顔をした。

 エリューシアとは幾千年の付き合いである。やっと、元の世界の呪縛から離れ、俺から名を得て受肉をしたのに、俺との恋仲を楽しもうとしたのに、横入りで新しい女が入ってきたのだ。

 当然、俺は言った。恋仲になろうと言う事では無いだろう?と。

 エリューシアには女心がわかってないと言われ、レイナにも苦笑された。

 女心なんて、いつから触れて来なかったのだろうか。

 嬉しい限りではあるが、まるでその身欲しさに攫ってしまった様では無いかとも思った。

 責任を取ってくれと言われれば、否とは言えない。エリューシアを何とか説得して、レイナを恋仲として迎え入れる事にした。

 いやはや、元妖精王を説得するのは骨が折れる所の話ではなかった。

 だからか、今の俺の両隣に彼女達が居る。両手に花は嬉しい限りだが、ここは森の中だ。

 エリューシアは永遠と俺の腕にくっ付いている。流石にそこまでするつもりは無いようで、レイナは少し離れて歩いていた。

「何か居るな」

「愚かな人の様ですね」

 エリューシアは指を向ける。気配のする方に。

「…私にはわからないわね」

 レイナは苦笑した。

「出て来なさい」

 エリューシアは命じる。すると、茂みの中から現れたのはエルフだった。以前に捕まえたエルフの一族だろうか。

 以前捕まえたエルフは、捕まえたは良かったが、拘束具を無くした次の日には命を絶っていた。

 身体を好きにされるくらいなら死んでやる…と言った所だろうか?

 俺の前ではその様な素振りを見せなかったから、完全に油断していた。

 自決する為に隙を伺っていたとなると、とんでもないエルフだったなと思う。

 死ぬも生きるも自由にすれば良いとは思うが、俺の損は得に変わらなかったな。

「エリューシア、そんな物は捨てておけ」

「旦那様、こやつは旦那様の首を狙って来たのですよ?」

 エリューシアは蔓で腕を拘束して、握られていた刃物を晒させて、俺に我慢ならないと言いたげに告げる。

「相手をするのが面倒くさいんだが…

 それらを相手にするのは時間の無駄じゃないか?」

 面倒くさいんだ。ただ、それだけなんだ。

「では、私が好きにしても?」

「まあ、止めはしないが…手荒な真似はしてやるな?」

 一応ではあるが、念の為に釘を刺しておく。このままだとエルフを晒し首にする気がした。

「むう…晒し首にしてやろうと思いましたのに」

「だと思ったよ」

 …釘を刺しておいて良かったな。

「…大人しく諦める事にします」

 エリューシアはエルフを蔓で拘束して、地面に転がすだけに留めた。

 晒し首が、拘束されるだけになったのだから感謝して欲しい。

「行こう」

 俺がそう言うと、エリューシアも興味を無くしたようにエルフから視線を外した。

 そう言えばレイナはどの様な顔をしているのだろう?

 そう思い、視線をそちらに向ける。

 何も考えていない様だった。単純に考えが読めないだけかもしれないが。

 また一歩、また一歩と森を歩いた。

 道途中で幾度かエルフと遭遇したが、エリューシアによって全て無力化された。

 やがて森を抜ける。抜ける頃には夕方になっていた。

「いっつ!?」

 レイナがしゃがみ込んでしまった。足を痛めたらしい。

「…見せてみろ」

 靴を脱がせ足を見る。立派に腫れていた。

 朝から夕方まで永遠と歩いていたからな。痛めてしまっても仕方の無い事だ。

「ごめんなさいね…」

「長く歩いていたからな

 森を抜けて気が抜ければこうもなるか」

 レイナを抱きかかえる事にした。

「え、ちょっ」

「恥ずかしいかもしれないが、幸い見られる事も無いから我慢してくれ」

 エルフの一件もある。もう少し森から離れたかった。

「…わかったわ」

「羨ましい…」

 ぎりりっと歯噛みする様な顔で、エリューシアが俺を見上げる。

「今は仕方が無いだろう?」

「エルフを全員殺せば良かったのでは?」

 確かに、エルフを全て殺す事は大して難しくない。単にそれをやる意味合いを俺が感じないだけであって。それに、難しくないからと言って、時間が掛からない訳ではない。

 生き残りが居るのならば、例え、こちらが後手だったとしても、勝手に恨み命を狙う者は居るだろう。

 殺し合いの終幕は一か百しか無い。

 一が残らない様に全てを殺して回るのは、とても面倒なのだ。

 そんな事を考えていると、新たな森林に出会った。先程までの木々とは、生えている植生も違う様に見受けられる。

 何処まで歩いても、エルフの追手を振り切れている確証を持てる訳ではない。

 もう少し歩いたら、そこで一晩を過ごす事にしよう。

 レイナの足の事もあるし、何よりずっと歩き詰めだった。俺も軽く身体を休めたい。

「これから先のどこかで、落ち着ける良い場所は無いか?」

 エリューシアに聞いてみる。エリューシアは妖精王であっただけあって、大地の声や水の流れから、様々な情報を得る事が出来る。

「旦那様のお好みに合わせますと…

 少し歩いた先に池がありますね」

 …池か。

 この世界に来てから今まで、魔法で作り出した水以外に触れる機会が無かった。

 この世界の水に触れる良い機会だ、とでも思えば良いのだろうか?

 …いや、池は野獣が住まう場所でもある。

 この世界の野獣がどうなのかはわからないが、水のある場所に野獣が集まるのは至極真っ当だろう。

 そうなると、池の周りに陣取る事にすれば、食料に事欠かないかもしれない。遠出せずとも狩る事が出来るかもしれない。

 …逆に、自身らの野営地に野獣が紛れ込む可能性が大きくなるのだが、私もはるか昔に竜を片手間に狩っていたし、エリューシアは妖精王だった者だ。突然に出会した程度の野獣に遅れを取るはずもなかった。

「そこにしよう」

 となると、池に野営地を設けない理由が無いな。自然とそう言う結論に至る事になった。

「それが宜しいかと」

 エリューシアはころころと笑った。

 レイナを両手に抱え、俺はエリューシアに先導されて池を目指した。

 途中、猫科の野獣に出会った。ライオンや虎、その類を彷彿させる様な見た目をしていて、大きな牙を剥き出しにして俺達を威嚇した。

「跪きなさい」

 相手をしなければならないかと、レイナを下ろそうとした矢先、エリューシアが告げた。

 それは、絶対強者の言葉。

 意味がわからずとも問題は無い。猫科の野獣は地面に顔を伏せた。

「行きましょう、旦那様?」

「ああ」

 彼女の言葉に首を縦に振り、俺達は先に進んだ。辿り着いた先に池が見えた。

 池はとても大きく、深いだろう事が伺える。あまり綺麗な水ではなかった。若干ではあるが、緑色に濁っていた。

 少しがっかりしながらも、周りを見回して野獣が存在しないか確かめる。

「案外、居ないんだな」

 池を挟んだ向かい側にも、周囲にも、動物の気配が無かった。

 心地好い風が吹いて、池の水を濡らす。それがより一層に、野獣達が存在しない事を証明している様だった。

 先程まで夕方だったのに、その僅かな光を木々が閉ざしてしまったのか、大分暗くなってしまっていた。

「レイナは見えるか?」

「え、ええ…

 本当にぎりぎりね」

 陰陽道の術者であっても、人の枠を外れはしていないのだろう。

 俺は夜目が効くが、やはりレイナは効かない様だ。護ってやらなければ、たちまちに獣の餌食となるだろう。

「怪我の事もある

 レイナは先に眠った方が良いだろう」

 土の妖精に建物を作ってもらう。建物と言ってもタダの土箱だが、それでも雨風が凌げるので助かっている。

「…わかったわ」

 少し思案して、彼女はこくりと頷く。彼女を土箱の中にゆっくりと下ろした。

「ありがとう」

 彼女はそれだけ言って、壁伝いに歩き、腕輪からベッドを取り出した。

「何かあったら呼んでくれ」

 それだけ言い残して、俺は土箱の外に出た。

 とは言え、やる事も多くはない。…というか、やるべき事は無い。

 獲物の一つや二つ存在していれば、時間を持て余す事も無いのだろうと思うが、残念ながら池の周りには恐ろしい程に気配が無い。

 理由は二つほど考えられる。

 一つは俺達の存在を嗅ぎとって身を隠している。

 もう一つは、絶対強者がこの池に存在している。

 魔法の世界だと言うのだから、それこそ竜がこの池を縄張りにしていたって驚かない。

 エリューシアが何かで象った椅子を二つ用意した。二人で座ろうと、小さな胸を俺に当てて促す。

「ありがとう」

 どんな理由があろうとも、明日には理解出来るだろう。そう言い聞かせ、俺は思考を放棄した。

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