タバコの煙にのせて
おじん
第1話 高校生の私
「桜子も進路とか考えた方が良いよ」
私くらいの年になれば珍しくないと思われる言葉をクラスメイトから言われる。否定も肯定もしないような曖昧な返事を返す。
先週に教師の進路に関する説明があったからだろうか、それとも単純に文化祭が終わって気温が下がったのが肌で感じられる季節に移ったからか。
同級生はそれまでの学生生活を生きるという視点では無くてその先のものを見始めた。今まではどれだけ楽に勉学をしないで過ごせるかを考えていた周りも今はたった一度の試験のために余白さえあればペンを走らしている。
私は学生生活という単位では考えていなかったから関係ない。いや、それはただ目の前の好きなことを優先してやらないといけないことを放り投げていただけなのかも知れない。
思わず深いため息が漏れだす。ため息が出し切っても胸の奥に固執した不快感のようなものは少しも胸から出て行ってはくれないのだ。
放課後の教室では真ん中の席だけを向かい合わせにして三者面談が開かれる。嫌だ嫌だと思っていたが今日は私の日。
「桜子さんは成績も悪くないですし、頑張り次第で大体の大学には行けると思います」
私の担任は何故か大学に進学をする前提で話を進めていく。公立の中堅進学校。当然と言えば当然。この教師はまだ大学入試から十年も経過していないから苦労した記憶があるのだろう。私の成績ならばぜひ難関大学を受験して欲しいのだ。
「桜子、あなた聞いてるの?あなたはどこに行きたいの?」
だから何で大学に決まってるのよ。しかしこの状況で言い出す訳にもいかない。
「美術が出来る学校。具体的には絵を書きたい」
ふんわり答える。それを聞いた教師は言葉には出さないが口元が歪んで母親は呆れる。
「あなたが美術が好きなのは知ってるけど進路はちゃんと考えなさい!先生すいません」
母親は教師に小さく頭を下げる。美術か音楽をやりなさいって言ってきたのは10年以上前の母親なのに。
最終的には来週までに行きたい大学を決めて報告することになった。
胸の奥の不快感は増すばかり。一体私の胸の奥の容量はどれだけあるのか分からない。ホコリっぽい空気と絵具の匂いが扉から漏れだしている美術準備室に入る。
使い道の分からない道具の間から描きかけのキャンバスを抜き出す。古くてネジが緩んでいるのか軋み音が酷いパイプ椅子に座って絵を描く準備を進める。
何度も何度も色を重ねる。いつもなら重ねていくうちに胸の奥の不快感は薄れる、ではなく気にならなくなるはずなのだが今日はその限りではない。
筆をカラフルに色を吸ってしまった雑巾の上に置く。落ち着かない、手を擦ってみる。
そろそろあの人が来る時間なのではないかな。この気持ちを紛らわせてくれる最後の希望はあの人しかないかもしれない。
乱暴に扉が開かれる。
「あー、まじで怠い…」
ずかずかと入ってきた人は生徒ではない。10代でも無い。20代。そう教師。私は教師には敬意を持っているのでどんな人でも”あの人”なんて思ったりしないがこの人は例外。
机の上に腰をかけるとポケットから原色の箱に入ったタバコを取り出す。そういう人なのだ。
「先生、この教室…いやここ学校ですよ…」
何回目の注意だろうか、注意って下の人間がするものだろうか。
「おう今日も真面目で暗いな、桜子はさぁ…」
私の警告なんて無視する。そのまま同じ原色のカラフルなライターを使って火を付ける。
「今日も会議でバリアフリーに関する学校施設の整備について離してて疲れたんだよタバコくらいゆるしてくれよ。それにタバコ吸う場所も無いのにバリアフリーってねぇ…」
遠くを見てタバコをふかす。
「先生クビなりますよいつか絶対に…」
この人に気持ちを悟られたくないように筆をとりあえず握る。
「天下の地方公務員にそんなものは無縁だよ、まったく」
灰皿代わりの小瓶でタバコの火を消す。
この人はタバコ休憩に放課後この教室にやってくるのだ。この美術準備室を使っていたのは私以外にはいなくて見てしまったのだ。放課後の夕日が差し込む美術準備室。
「黙っておいてね、私の秘密の息抜き…」
その時のことは今でも覚えている。綺麗な女性だと思った。その時だけ。実際にはガサツでやる気が無いただの地方公務員だった。
「今日は何を描いているんだ、なんだこの前と一緒か…」
この人は本当に美術の教員免許を持っているのか、そんな短時間で絵が一枚完成するわけがない。そんな単純なことも忘れてしまっているのか。そういう人なのに灰皿にしていた瓶が無いときに陶器パレッドを差し出したときは断ってきた。
「うるさいですよ…」
静かだった美術準備室はこの人の登場で賑やかになる。反対に私の胸の奥は落ち着いていく。
「まあ、いいけど、お前まだ部活続けてるんだな。もう出すコンクールもないだろ」
パンプスを脱いでくつろいでいる。イメージと相違ない無神経な発言。
「いいんです、進路も美術にしようと思ってるんですよ」
不思議とこの人に進路のことについて聞かれても不快感は生まれない。私にそういったことを考えさせない力がこの人にはあるのかと錯覚する。
「へーそうなんだ…じゃあ私は仕事に戻るから」
机にはカラーチャートが置かれている。とある色が見えるようになっている。
「その色、合わせてみなよ」
キリっとした表情を作って、その後にニヤッとして美術準備室を出ていく。カラーチャートを私の絵の前に持って行って見てみると見事に私のイメージが出ていた。
・ ・ ・
「あのな、先生もちょっと美術系の大学を探してみたから参考にしてな」
教師は私の言葉をしっかり覚えていてくれて美術コースがある大学のパンフレットを集めておいてくれたのだ。流石、先生と呼ばれるだけの人間である。
「ありがとうございます…」
母親を説得できる妥協点が私の手の上にあるパンフレットだろう。誰かに見られたくないから美術準備室で眺める。
ここかな…
ひとつの大学に目が止まる。偏差値的にはそこまで高くないが美術系としては歴史があるようだ。元々コースは多くなかったが少子化の影響で生徒が集められなかったのか就職を一番に考えたデザインコースも設置されている。
絵の勉強に専念出来るコースか就職に強いコース。どっちにするべきなのか。
思慮を巡らす。そうしていたからか扉が開く音に対応できない。
「あれ、今日は絵描いてないんか?」
30手前の女性とは思えない言い方でこちらに向かってくる。私はパンフレットを閉じて隠そうとするが今日はキャンパスも設置していない。机の上に広がったパンフレットを隠しきることが出来ない。
「あ、大学選んでるのか。ふーん」
パンフレットは広げられていく。
「あ、この大学、私の母校じゃん。私の年は新しいコースが設置された年でね私一期生」
そのことを聞いてから私の視線は何故かその大学にしか向かわなくなっていた。
「まあ…私、この大学良いなって思ってて、先生みたいにはなりたくないですけどコースどうしようかなって…」
恥ずかしさを隠すように意見を求める。返す前にタバコに火を付けるようだ。煙が充満して嫌だが我慢する。
「まあ、そうだな。私みたいになりたくないなら歴史あるコースに進んだ方が良いんじゃない?」
遠い目をしている。何故だろう。
結局、私の第一志望はそこになった。コースはあの人と違うけど。
母親には反対されたけど何故か大丈夫、間違っていないという心の支えがあるような気がして私はもう心の中に不快感を貯めることは無かった。
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