ルクスにて ちよ編
第8話 彼女の異世界。ちよの思い
――4日前――
「ねー!おにいちゃん起きてー!起きろー!」
あのヘンテコな化け物を倒したその後のこと、わたしはおにいちゃんと寝るのに丁度いいサイズのベッドの上で目を覚ました。
今が何時か分からないけど、いつもならわたしより先に起きているはずのおにいちゃんが、どれだけ揺すっても叩いても全然起きてくれない。
「……どうしよ、ほんと」
目が覚めた瞬間にトイレに行きたくなって、一生懸命おにいちゃんを起こそうと頑張って、どのくらい経ったんだろう。
「……うぅ」
入れれるだけ力を入れて出口を閉じる。
2年前なら足をモジモジして、もっと尿意をガマンできたけれど、今のわたしにはそれができない。
今のわたしは、感じることはできても、それを動かすことができないから。
けどそれすら、ほんのちょっとだけ。
わたしは2年前の事故で、下半身の殆どが動かせなくなった。
むしろ尿道と肛門の筋肉以外、動かせないって言っていい。けどその2つでさえ、ちょっと力を入れれる程度。
下半身の感覚もある。これもほんのちょっとだけ。足に挟んだカイロの暖かさをほんのちょっと感じる程度。
不全麻痺ってゆうらしい。
けど聞いたら、それでも良い方なんだってお医者さんが言ってた。
完全麻痺ってゆうのがあって、そっちだと本当に何も感じないらしい。何も動かせないらしい。だからわたしより大変なんだって。
そう聞いて、良かったーなんてその時は全然思えなかった。
けど、今はそう思うよ。
だって、きっとおにいちゃんから絶対に離れられなくなってたから。
「誰かいませんかー!!」
全然起きないおにいちゃんを諦めて、大声で叫んでみたけれど反応はなし。
……ああ。もうダメだ。……イヤだな。
「……ぅ」
這うようにしてベッドの隅まで行くと、覚悟を決めて床に落ちる。
「ッ……」
うまいこと背中から落ちることができてホッとしたのも束の間、下半身に生暖かい物がジワリと広がるのを微かに感じて、久しぶりに失禁してしまったと理解する。
あぁ、いつぶりだろう。
1年くらい前だったっけ?
たしかあの時はまだ食事の管理が上手いことできなくて、排泄のリズムが作れなくて。
「……ぅあ」
そう、おにいちゃんがわたしの後始末を何も言わずにやってくれたっけ。
足が動いてた時と同じように過ごしたいなんてムリ言って、意地でもおマルなんて使わなかったんだ。
あの頃のわたしは、そんなおにいちゃんの優しさにも気付かずにワガママばっか言って。
……いや、気付いてたのかも。
気付いてて、甘えてたんだ、きっと。
「うっヒグ……」
ほんと、よく愛想尽かされなかったよ、わたし。
――もうこれ以上、甘えちゃだめだよね。
「うぇっ、グッ」
泣き出しそうになる口に、袖をまくって出した生腕を噛ませてグッとこらえる。これなら、もしおにいちゃんが起きてもわたしが泣いたとは分からないだろう。
もうホントの泣き顔は見せたくない。
わたしはもう、おにいちゃんに迷惑かけたくない。
わたしの為に、おにいちゃんばっかり損することないよ。
わたしは、おにいちゃん離れするんだ。
「おー。起きたか兄妹……っておいちよ!?」
「――静かにして。おにいちゃんが起きちゃう」
この世界でなら、きっとそれが叶う気がしてる。
******
「あっ……え、え、うち、どうすりゃいいの?」
思いもよらぬ状況に、わたわたオロオロと落ち着きのない動きでウーはちよに近付いていく。
早朝に再び襲来した邪神を軽くひねり、流石にそろそろ起きたかなと二人の様子を見に来てみれば、ちよは床で足を死体のように変に交差させた状態で失禁しており、孝太郎は抜けた顔で未だに深い眠りの中にいた。
魔人は大ケガを負っても魔法で治してしまうため、こうした障害を持つ人に対する接し方が分からない。
ウーにとってこの状況は正に未知で、異世界であった。
「……魔王様はちよさんを浴場に連れて行って上げてください」
数歩遅れてイングリットが部屋に入ってきていた。
彼女はポケットからハンカチを取り出して、部屋に置いてあったペンを掴む。そしてそれに立入禁止という意味を持つ文字を書くと、部屋の前の廊下に見える様にして置いた。
「私は床の汚れを片付けますので」
「……お、おう!わかった!」
イングリットの動きを目で追うだけだったウーが、やっと自分の役目を与えられ行動を始める。
ちよを両腕に抱きかかえ浴場に向かおうとするのを、しかしイングリットに肩を掴まれて止められた。
「待ってください、ダメですよ」
「えっえっ?」
ウーはわけが分からず狼狽する。今の自分の行動の、何がダメなのか全く思い至らない。
イングリットはベッドの上にあった毛布をウーの腕の中のちよに被せた。
「これでちよさんを包んで、他の方に気付かれぬようにしてください。あと、廊下も走らないでくださいね」
それはイングリットの細やかな気遣いだった。
「お、おう!分かった!行ってくる」
そしてウーは言われた通りに、ちよを毛布で包んで首から下が周りから見えないようにすると、早歩きで浴場へ向かった。
ルクス城館の浴場は広い。しかしそれを利用できる者は少ない。この大浴場は王族の為の憩いの場であり、余人の立ち入れる場ではなかった。
今ではイングリットと、お付きのアンナ以外に使われる事のない浴場である。
他の者は皆、城館に併設されている宿舎の浴場で入浴する事になっている。
そして今、そこでは早朝からの邪神襲来に対処した兵士たちが、各々貼り付いた汗を流し、疲れを癒やしているだろう。
ウーはそれを理解して、人目の無いルクス城館の大浴場へと足を運んだ。
「……くっそ、鍵かけてやがる」
大浴場へと繋がる扉にはハート型の大きい錠前が付いており、これを開けてもらうには引き返してイングリットに鍵をもらうか、アンナを見つけて鍵をもらうかしかないだろう。
「……」
ちよはウーの腕の中で一言も発さず身じろぎもしない。
「許せイングリット」
ウーはちよを両腕に抱いたまま、錠前を蹴り上げた。音を立てて錠前は弾け飛び、空中を舞ってウーの背後に落ちる。
そのまま上げた足をゆっくりドアノブまで持っていくと、足先で器用に回して扉を開いた。
脱衣所でちよを包んだ毛布を剥がし、ちよの汚れた服も脱がしていく。
次第に明らかになっていくちよの痛々しい肢体に、ウーはその動揺を悟られないように努めた。
――見えない所は傷だらけじゃないか。
ちよの全身、特に腰周りに大きな傷痕が見られた。事故の凄惨さを如実に物語るその傷痕は、ちよの一生に付いて消えることはないだろう。
そして、これはちよを両腕で抱いた時には分かっていた事だが、下半身の筋肉が低下した事でちよの両足は両腕のそれに比べ異様に細い。
むしろ両腕含む上半身は、他の12歳の女の子と比べて筋肉量があるだろう。
その壊れそうな、偏りのある傷だらけの小さな身体を慈しむように持ち上げる。
そうすると、床に向けてちよの長い黒髪が大きく垂れて、たまたま頭部の傷が目に入ってしまった。
「っ……よし!んっ、お風呂入ろうねー」
幼き少女の一部剥げ上がった頭部に動揺を隠しきれず、小さく声が出てしまったのをウーはその上から被せるように発言して誤魔化す。
ウーはこれまで、ちよの頭部の傷に全く気が付かなかった。風が強く吹き付ける空を飛んでいる時は、いつもウーの手前に彼女はいて、それでいてその傷はウーから見えない場所にあった。
「……ウーちゃん脱がないの?」
「うぇっ?」
不意に聞こえたちよの台詞に、ウーは声にならない声で答えた。
「濡れちゃうよ?」
「あ、確かに。――なー。ちょっと待っててねー」
ウーはちよをそっと降ろすと、愛用のパジャマをスポッと脱いで勢い良く裸になる。
足元に落ちたそれを適当に隅に払いのけると、再びちよを抱えて浴場へと向かった。
イングリットがマッサージを受ける時に使うのであろう縦長のマットレスを見つけ、その上にちよを仰向けに寝かせた。
浴場には石鹸が備え付けられていたが、泡立てる物が無く、仕方なくウーはその手を使ってちよの身体を洗う事にした。
ちよの腰の隣に座り込んで、その肌に手を近づける。
しかし、ちよの傷痕の上に自らの手を這わせる事に、ウーは怖気づいた。
ちよの身体を洗うウーの手が、その傷痕の手前で、触れてはならない物を避けるかのように、ぎこち無く止まってしまう。
「……ね、ウーちゃん気にしないで」
「あ、……ごめん」
言われ、決心して傷痕にそっと指を沿わす。ザラザラと波打つ感覚が伝わり、ウーは緊張に息が浅くなる。
胸が詰まる。呼吸が苦しい。
元は歩ける少女だったのだ、と改めて理解してしまう。足を始めて触った時に、魔力の波動で理解した事を、より深く身近に想像してしまう。
この傷がどんな悲惨な運命をもたらしたか。
これが元で、どんな思いをしただろうか。
ちよへの思いが心を巡り、ウーは胸が張り裂けそうだった。
ウーは自分が今どんな顔をしているか分からないほど、全神経を指先に集中していた。
いつも意識している、けだるげな口調や余裕の態度など微塵も作れない。
ただ込み上げそうな何かを、堪える。
ただただ、ちよの身体を洗って。その行為に意識を投じていく。
――泣いちゃだめだ、きっとちよが傷つく。
「……ウーちゃん、キレイだね」
「へ?」
――なんで、今そんなこと……。
ウーはちよの発言の意図が分からず困惑する。
「ウーちゃんのお肌はツルツルでとってもキレイだね。触っていい?」
返事が形にならず、しかし拒否する事もできず、ウーはただ頭を縦に降った。
拒否する事で、ちよを傷つけてしまうのではないかと恐れた。
ちよの腕がウーのお腹に伸びてきて、そのの柔らかな指が雪の肌に優しく沈み込む。
そしてプニプニと手の中で弄ばれ、ウーはますます困惑した。
「ち、ちよ?」
「すっご……。ツルツルプニプニ赤ちゃん肌……。ホントに30才なの?」
「あっ、ちょっと、……やっ」
ちよはウーを弄ぶ。お腹から胸、脇を通って、自身を洗うウーの指先まで。
肢体を羽のように優しくなぞられ弄られて、ウーの雪肌に火照るように赤みが指した。
「ち、ちよ……。その、もういいだろ?」
「んー、もうちょっと。ツルスベだなぁ……」
そう言って、ちよはウーの指先を愛撫する。細く小さく美しい指の骨の形をなぞり、爪先から手のひらに潜り込んで手首まで、その手を這わせた。
「っ……んっ」
先程までちよを洗うことに集中していた意識が、自身を弄ぶその指先に向いている。
他人にここまで触られる経験などウーには無かった。
「はい。ウーちゃんの番」
「ひゃっ!あっ……」
ちよはウーを弄ぶのを止め、その手首を掴んで自身に引き寄せた。
ウーの手はちよのお腹にペタリとくっつく。手のひらから傷痕の感触を覚えウーはたじろいだ。
「どう?」
「ど、どうって?」
「わたしね、ウーちゃんの手、好き。柔らかくて小さくて、触られると気持ちいいよ。肌も好き。真っ白で、赤ちゃんみたいにツルツルスベスベだから。羨ましいよ」
――羨ましい、って、そんな。
返答できずに黙っているウーの手を、ちよは無理やり動かして傷の付いた自身の肌に触れさせていく。
「ね、どう?」
「……あ、えっと」
「すごいでしょ」
ちよはニッコリと笑った。
「これがわたし。ウーちゃんね、わたしが傷付くと思って遠慮しすぎ。……わたしはこの肌、そりゃキレイになりたいって思うけど、もう別に悲しくはないんだ」
それは強がりではない。ちよの本当の気持ち。
「この足もね。退院したての頃は動くつもりで、動かなくて。何てゆうんだろ?頭の中では、まだ足が動いてる自分が生きてる感じ?それが強くて……。ケガしてすぐね、もう戻らないって聞いちゃった時も、けど全然、他人事?そうなのかぁって感じで。いやいや、戻るでしょって頭は思ってるの――」
「――あっ、けどだんだんね、動かないなぁって落ち込んでた時にね、おにいちゃんがわたしにヒドイこと言ったの!あの時は、すっごい悲しくて大声で泣いちゃったりした。ふふっ、あれはおにいちゃんが悪いよね……」
「ち、ちよ?」
まとまりの付かない話に、ウーは混乱する。
ウーは未だ、ちよに手首を掴まれ、しかし、ただそれだけなのに身動きができない。
「うん。わたしね。最近になってやっと、これがわたしだって、やっと、思えるようになったの」
ちよは自分の思いに納得するように頷いた。
「一人じゃできないことは増えたけど、おにいちゃんがいたら、二人なら何でも出来るんじゃないかって――」
「――わたしは、わたしを受け容れたの」
――でもね。
と、ちよは続ける。
「思いっきりおにいちゃんに甘えるだけのわたしはイヤだなって。おにいちゃんはわたしの為に、たくさん諦めてるから。だからせめて……おにいちゃんの負担が少なくなるように、自分でやれることを増やそう。そう考えてたら、ウーちゃんが来てくれた」
「……うち?」
「うん。異世界なら、わたしがやれる事が増えるかもって思った。……そしたら、足が治るって言ってくれたよね。すごい嬉しかった」
「あっ、けどそれは、まだ……」
それはまだ、可能性の話。確固たる根拠もなく、希望を与えてしまった事にウーは気付く。
「うん。分かってる。もし、結局治らないなら、今までと変わらないしそれでもいいやって思ってた」
そう、ちよは不確かな希望に心が浮ついたが、たとえ治療が出来なかったとしても、足の動かない自分は受け容れる事ができた。
そしてそのままで、自分で出来る事を増やしていっただろう。
しかし、
「……でも、やっぱりね、今のわたし、このままじゃダメみたい」
そう言ってウーの手を、失禁し汚れた自分の両足の間に持っていく。
「あっ……」
「ほんと、久しぶりにやらかしちゃった。ほんと、最悪。……ね、足、治るよね?」
「え……」
「治るよね?治さなきゃ。やっぱりこの足じゃ、わたし、また迷惑かけちゃって、甘えるしかなくて。もう、心配かけさせたくない、おにいちゃんに、ムリさせたくない、だから――」
「――足を治して、わたしはおにいちゃん離れするんだ」
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