終章 コキュトスでも涙は凍らない
終章(1)
悲鳴と怒声が響き渡っていた。黒い煙は天を染めようとするかのごとく、立ち昇っていた。
塔は一本、また一本と燃えて崩れていった。
エンパーロは死につつあった。
しかしそれらを気にせず、ルチフは一人、風の吹き荒ぶ広大な雪原へ歩き出していた。
久しぶりの雪に足が取られる。身体を引きずるようにして、泣きながら進んでいた。
――一人になってしまった。本当に一人になってしまった。
村人達は死んだ。ベアタも死んだ。カイナも死んだ。
自分だけを残して、死んでいった。
……重々しい雲から、ついに雪が降り始めた。雪は風に吹かれ、吹雪となる。
辺りは白色に染まり、何も見えなくなってしまった。そして身を縛るかのように空気は凍てついていて、風は鞭を打つように体温を奪っていく。
それでもルチフは、長いマフラーをなびかせ、進んで。
……そうできたのも、少しの間だけだった。
一歩踏み出したところで、ルチフは倒れた。雪に身体が沈む。吹雪が身体にまとわりつく。
――全員が、いなくなった。
目を瞑れば、そのまま雪になれる気がした。
もう動きたくなかった――もう誰もいない。意味もないのだから。
目を瞑った先は、暗闇。そこに雪の白さは、ない。
* * *
――ふと、ネサの顔が浮かんだ。ネサに抱きしめられたのを思い出した。狼に襲われ死にかけたネサを背負い、村に帰っていた時のことを思い出した。そして葬式の時に食べたシチューの温かさを、思い出す。
――続いてケイの顔が思い浮かんだ。ネサの葬式の時に、心配してくれた。昔泣きじゃくっていた時に、優しく声をかけてもらった。村の一員でいいのか、苦しんでいる自分にいつも気を遣ってくれて、受け入れてくれた。
――チャーロの顔も思い浮かぶ。白い帽子を被り、いつも笑っていたチャーロ。一緒にいると、楽しかった。時にいたずらをされたり、からかわれたりすることもあったが、幸せだった。一緒にいると、嫌なことも忘れられた。
――それからベアタ。初めて出会った、自分以外の銀髪に青い目の人間。そのことに、温かさを感じた。自分は自分でいていいのだと教えてくれた。そして愛し、守りたいと思った。飲んだ血の温もりを思い出す。その唇の柔らかさと、最期の笑顔も。
――最後にカイナのことが脳裏をよぎった。やっと出会えた、同じ血の流れる家族。抱きしめられた時の温もりは、ネサとはまた違っていた。自分と同じ、一人だった男。魂を受け継がないでくれと言い、その手の温もりだけを焼きつけた。
……全員がいなくなった。全員が死んだのだ。
もう帰る場所も、ない。待っている人も、いない。
静かに、冷えていく。魂が、凍りついていく。
……それでも。
――それでも、ルチフは、まだ生きていた。
* * *
……重い身体を、ゆっくりと起こした。吹雪かれながらも、しっかりと立つ。
このまま凍るのだと思った。
しかし――気がついた。
自分の身体が、燃えているかのように熱いことに。
それはまるで――魂が燃え上がっているかのようだった。
吹雪く世界の先は見えない。しかしこれからさらに吹雪は強くなり、冷え込むことだけは予想できた。全てを凍らせようとしている。
それでもルチフはまた一歩、歩き出した。ベアタからもらったマフラーをしっかりと巻いて。
――こんなところで、死ぬわけにはいかないことを、思い出したから。
頬を伝う涙は熱く、凍ることを知らなかった。
魂を受け継いだといっても、ここにはもう、自分一人しかいなかった。
それでも、共に生きていくと、ネサをはじめとする死んだ村人の肉を食い、魂を受け継いだのだ。その力を得て、残されても生きていくと。
ベアタももういないけれども、魂を受け継いだ。一緒に生きていくために、唇を重ねたのだ。
チャーロやケイ、『薪の石』にされてしまった者達の魂は、受け継げなかった。それでも皆の記憶は刻み込まれている。
カイナの魂も受け継げられなかったが、あの時握られた手には、温もりが焼きついていた。
――だから、こんな場所で、死ぬわけには、いかないのだ。
残されたのだから。生き残っているのだから。
一人でも。一人だからこそ。より。
また一歩、先へ。
吹雪の中をルチフは北へ進んでいく。その姿は吹雪に呑まれていく。
やがて、ルチフの姿は完全に見えなくなった。
――一人の少年は、吹雪の中に消えていった。
【終章 コキュトスでも涙は凍らない 終】
【コキュトスでも涙は凍らない 終】
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