第二章(2)


 * * *


 夜が更けていく中、ついに雪が降り始めた。空を覆う厚い雲が、ちぎれて降ってきたかのような雪。まだ吹雪とは言えない程度であるものの、無情で冷たい白色は風に舞い、世界がより白くなっていく。この吹雪は数日続く――オンレフ村の誰もが、それを感じ取っていた。

 幸い、雪が降り始めてすぐの頃に、死んだオビスと狼の解体は終わった。またオビスが全員戻ってきているかの確認や柵の補修も、問題なく終わった。そうして全員がやるべきことをやって、誰もがもう吹雪が激しくなるから家にいた方がいいと帰っていった。

 けれどもルチフは、チャーロと共にケイの元へ向かった。

「ばあちゃん! 帰ったよ! ルチフも一緒だよ! ――あの女の子は?」

 服についた雪を払い、チャーロが家の中へ入る。続いてルチフも入り、辺りを見回した――あの女の子は、どこに。あの銀髪の少女は。

「おお、ちょうどよかった。お前にルチフを呼びに行かせなければと思っていたところだ……」

 家の奥からケイが出てきた。そして「お前はちょっと騒がしい子だからな、そこで待っていろ」とチャーロを制すると、手招きしてルチフだけを部屋に呼んだ。

 呼ばれるままに、ルチフが部屋に入ると。

 ……深い青色。どんな染色でも、作り出せないかのような青色。深く、それでいて鮮麗。

 自分と同じ青色の瞳と、ルチフは目が合った。

 あの少女が――目を覚ましていた。

 思わずルチフは凍りついたかのように固まった。少女は紛れもなく青色の瞳をしていて、長い髪も室内の火に銀色に輝いていた。

 少女も、ルチフを認めるなり、固く結んでいた口をわずかに緩めた。まるで身を守るものであるかのように毛布を握っていた手も下がる。

「警戒しているようでな……話しかけても、身構えて何も話してくれないんだ。それで……見た目が同じお前なら、何か話してくれるんじゃないかと思ってな」

 ケイが下がる。銀髪の少女はルチフを見たまま。ルチフも少女を見たまま。

 ――お前も銀髪で青い目なんだな。

 どこから来たのだろうか。何者なのだろうか――自分について、何か知っているのだろうか。

 見つめ合っていると、蓋がはずれてしまったかのように、言いたいこと聞きたいことが、胸中に溢れてくる。だが何から話したらいいのか、ルチフにはわからなかった。

 とにかく、自分と同じような人間が目の前にいる。どこか恐怖を覚えるほど信じられなくて、思考がうまくまとまらない。

 と、少女が何か怯えたように毛布を握りしめ、とっさにルチフは目をそらした……どうやら睨んでしまっていたらしい。深呼吸をして、全身の力を抜く。

「彼はルチフ……こいつとオビスが、倒れていたお前を見つけたんだ」

 ケイが軽く紹介し、一度その場を離れた。少しして、両手にそれぞれ椀を持って戻ってくる。それは肉と野菜の温かいスープだった。ケイは一方を少女へと差し出す。少女は戸惑い、なかなか受け取ろうとしなかったが、やがてそっと白い手で受け取った。じっと、スープの水面を見つめている。いい香りの湯気に、顔が撫でられていた。

「……そのスープは、お前を守るために犠牲になったオビスの肉と、もしかするとお前を襲っていたかもしれない狼の肉が入っている……そのことを思って食べるがいい……」

 ケイのその言葉に、少女は首を傾げる。だからケイは、

「――死んだ者の力や意思を継ぐこと、得ること。感謝して食べろということだ」

 それからケイは、もう一方の椀をルチフへと渡した。

「これはお前の分だ、ルチフ。あのオビスはお前が面倒を見て、狼はお前が屠ったのだから」

 ルチフは椀を受け取れば、その場に座り込んだ。スープに口をつければ、温かさが身体に広がるのを感じた。肉をかじれば、少し固かったものの、生臭さはなかった。死んでしまったオビスのことや、オビスを守るために殺した狼の姿が脳裏をよぎる。

 と、ルチフが顔を上げれば、自分が食べているのを見て安心したのだろうか、少女もスープに口をつけていた。啜ろうとしたが、熱かったのか一度びくついて、改めてそろそろと飲んでいた。それから木のフォークで肉をつついて、口に運ぶ。一瞬顔を歪めたが、口元を押さえて咀嚼していた。

「……大きな怪我や凍傷はなかった」

 ルチフの隣に座り込んだケイが教えてくれた。

「数日休めば大丈夫だろう……」

 それはよかった、と、一瞬ぴたりとルチフは動きを止めてしまう。そして顔を上げると、再び少女と目が合ってどきりとしてしまった。

 青いまなざしが、向けられている。それは、いままでになかった感覚。そして。

「――あなたも?」

 弱々しくも、透き通った声だった。それが、少女の声だった。

「逃げて……ここに……?」

 その言葉に、ルチフは首を傾げるしかなかった。すると少女も首を傾げる。違うのか、と。

 ……何から逃げてきたのか。どこから逃げてきたのか。

「……ルチフはな、赤ん坊の時に、この村の人間に拾われてな」

 ケイが少女に説明する。

「だから私らとは髪と目の色が違う……お前とは同じだが……とにかく、この村で育った人間だ……だが、見た目が同じ人間がいれば、お前が安心するかと思ってな」

「――ねえ! その子、ルチフがどこの生まれか、知ってるんじゃないの!」

 不意に、背後から大きな声がした。ルチフが驚いて振り返れば、ケイに先程あちらで待っていろと言われたはずのチャーロがそこにいた。我慢できずに来てしまったのだろう。チャーロはルチフとケイの間に割り入ると、目を輝かせながら少女に尋ねた。

「君、銀髪ってことは、ルチフと同じ人間ってことだよね? どこから来たの? もしかしてやっぱり……あの崖の上? それとも、全然違う場所……? ねぇねぇ! 教えて!」

 だがチャーロの勢いに、スープを食べていた少女は身構え、その表情をこわばらせた。

 すぐさまケイがチャーロを睨んだ。

「こら。お前は騒がしいから向こうで待ってろと言っただろ……台所の片付けをしてくるんだ」

「えー、でもー……ルチフのことがわかるんだよ?」

「さあ、行け、ほら」

 やがて、祖母に押され、渋々とチャーロはその場から離れていった。

 チャーロを部屋から追い出した後、ケイは溜息を吐くと、改めて少女へと視線を向けた。少女はまだ警戒しているようで、熱いスープの入った椀を持ちつつも、びくびくとしていた。

「……悪い奴じゃない。ちょっと元気がよすぎるんだ」

 だからルチフがなだめるように言うと、少女の肩からゆっくりと力が抜けていった。そしてルチフがまた黙々とスープを食べ始めると、少女もまるでならうかのように食べ始める。

「……さて、食べているところ、悪いがね」

 いくらか時間が経った頃だった。ケイが再び口を開いたのは。

 ルチフはもうスープを食べきっていた。少女の椀にもまだ残っているものの、半分もない。

「お前、そろそろ名前を教えてくれないか。せめてそれくらいは教えてくれないと困る」

 ケイのその言葉に、少女は手を止めて老婆を見据えた。まだ警戒しているらしい。だが、ちらりとルチフを見て、そして。

「――ベアタ……ベアタ、です」

 少女はそう、やっと名乗ってくれた。

 ――ベアタ。

 口の中で転がすように声なく呟くと、言い慣れない名に胸が高鳴るのを、ルチフは感じた。

 ベアタは辺りを見回した。その様子はまるで、初めて見るものを前にしたようだった。

「あの……ここは、どこですか? 私……倒れてたって……」

「ここはオンレフという村だ……お前は近くで倒れていたんだよ」

 ケイが教える。そして座り直せば、

「それでベアタ……一体どうしてあんな雪の中に倒れていたんだ? どこから来て、どこへ行こうとしてたんだ?」

「……」

 その問いに、ベアタは言葉を失ったように俯けば、やがて頭をふるふると振った。それは本当に申し訳なさそうで、しかし絶対に言わないという拒絶も見えた。

 緊張に首が締まるような感覚があった。それでもルチフは、ベアタを見つめて返事を待った。

 同じ銀の髪に、青い瞳を持つ彼女。彼女は、どこから来たのだろうか――。

「――まあ、話したくないのなら、無理に話す必要はないだろう」

 けれどもやがて、ケイが重々しい沈黙を終わらせた。

 ――話したくない。

 ……もしかすると、自分のことがわかるかもしれないのに。

 話したくない、とは。

 ――でもそれなら仕方がない。

 そう思うと。

 ……不思議なことに、落胆と共に、妙な安堵をルチフは覚えた。

「だが見た目から、この辺りの人間でないことは確かだな。銀髪の人間なんて、この辺りではルチフしかいないからな……けれども安心しろ。髪が何色であれ、目が何色であれ、私らと違うからといって、ひどいことをする気はない……皆、同じ人間だからな」

 と、ケイは立ち上がる。

「……が、ベアタ。どこに行くつもりかわからないが、残念だが今夜、いやもう数日は下手に村の外には出られないよ。吹雪で閉ざされてしまうし、お前はまだ万全ではないからな……たとえ、お前が外に行きたいと言っても、悪いが私はお前を外に出せない……せっかく助けた命を、無駄にしては困るからな……しばらくここにいなさい。その間は、うちで面倒をみよう」

 ケイはやっと食べ終えたベアタの椀を受け取った。続いてルチフの椀も手にすれば、部屋の外へと持って行く。

 残されたのは、ルチフと、ベアタだけ。

 改めてルチフがベアタを見れば、ベアタの顔色は、先程よりも少しよく見えた。

 とにかく、彼女が無事でよかった――それを確認しにきたのだ。彼女は名前以外、何も話してはくれなかったけれども。

「……それじゃあ、俺は家に帰ります。ひどく寒くなる前に」

 風の騒めきが、大きくなりつつあった。やがてルチフは立ち上がり、家の中に声を響かせた。

 これ以上待っても、ベアタが何も言わないと思えたから。けれども、それだけではない。

 彼女が何か言うのが――どこか怖く思えた。

 もし、彼女が自分について知っていたら。

 どこの生まれなのか知っていたら。

 ――自分は、村人ではなくなるような気がした。

 いまですら、自分自身、この村の一員でいいのか、わからないのに。

 ルチフが玄関へと向かうと「助かった、気をつけて」とケイに言われた。「またね、ルチフ!」と台所からはチャーロの声がする。そして。

「――ルチフ」

 家の奥から、彼女の声が。

 振り返れば、ベアタが見ていた。その青い目で、まっすぐに。

「……ありがとう」

 その言葉に、なんだかむず痒さを覚え、そして何故か、泣きたい気持ちが湧いてきて、とっさにルチフは目をそらした。扉を開ければ、吹雪の夜に巻かれていった。

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