第四章(2)
* * *
……それから数日後の出来事だった。
唐突に別れが、やってきたのは。
「――朝は、起きてこないので、寝ているのかなと思ったんです……寒い日はなかなか身体が動かないと言っていましたし……」
ベアタは消え入りそうな声で説明する。
「乳を届けたときにも、まだ起きてないみたいで……そこでルチフが、何か変だって……」
そこから先を、ベアタは言おうとしなかった。座ったまま、頭を垂れる。
だからベアタの隣に座るルチフが、続けた。
「……ニヘンさんは、ベッドで亡くなっていました。俺と、ベアタで確認しました」
昼頃。二人がいるのは、ケイの家だった。ニヘンが死んでいることに気付いて、すぐにここに来たのだ。ケイに全てを報告するために。
「……ネサに続いて、モル、そしてニヘンまでもか……今年は、嫌な年だ」
二人の前に立つケイは、静かに声を漏らした。だが振り返れば、そこにいたチャーロに、
「チャーロ、聞いたな?」
「うん! ……葬式の準備だね? みんなに言ってくる……」
チャーロは最初こそ笑顔を見せたものの、家を出る際、その顔は神妙なものとなっていた。
葬式、と聞いて、隣にいるベアタが身構えたのをルチフは感じた。
ベアタはぽろぽろと泣いていた。
「……無理するな」
そっと囁いたものの、ベアタはうんともすんとも言わなかった。
やがて、準備をするまでどこかで待っていろ、とケイに言われ、ルチフはベアタを連れて、広場の隅にある丸太に並んで座った。昼過ぎの空は、いつもの曇り空。心なしか、いつもよりも空気が冷えているように感じられた。広場の奥では、村人が集まって忙しそうにしている――葬式の準備をしているのだ。
その間、ベアタはずっと泣きながら震えていた。
「ニヘンさん……どうして……」
「……ニヘンさんはずいぶんな年寄りだったからな。こればかりは、仕方がない」
気の利いた言葉をかけようとしたつもりだった。
けれどもニヘンは、ネサのように狼に襲われたわけでもなく、モルのように事故で帰れなくなって死んだわけではなかった。寿命だった。
ベッドの中で、安らかな顔をして死んでいた老婆の姿を、思い出す。
……とはいえ、家族が死んでしまった痛みが、わからないわけではないのだ。
――あの時、俺はどうしてほしかったんだろう。
ネサが死んだ時――あの時は、本当に一人になってしまったと思っていた。もともと銀髪に青い目の人間は自分一人で、さらに一人になってしまったと、思っていた。
「……俺も、ネサさんがいなくなった時は、つらかった」
泣きじゃくっているベアタの背を、ルチフはさすった。近づけば互いの温もりを感じ取れる。
しばらくして、広場の奥から、煙が上がり始めた。細い煙は、雲に覆われた空へと向かって昇っていく。この凍てついた世界から、天へと、昇っていく。
はたと、ベアタが顔を上げた。泣きじゃくった顔は赤くなってしまっていた。煙を見つめた瞳からは、また涙が一筋流れ、頬を伝う。
「煙が上がった……魂が、天に昇る」
ルチフも煙を見上げた。煙は、厚い雲の向こうへと、昇っていく。
ニヘンさん、と隣で、か細い声が聞こえた。
「――優しい人だった。いろんなことを教えてくれた。私、村の外から来たのに、見た目も違うのに、家族みたいに接してくれて……」
ベアタは涙を拭い、それきり泣かなくなった。救いであるかのように、煙を見つめていた。
しばらくして、ルチフはおそるおそる立ち上がった。口にするのを躊躇うが、それでもベアタに尋ねる。
「……身体を燃やしているから、もう準備ができているはずだ……ベアタは、どうする……?」
何の話をしているのかは、ベアタもわかっているはずだ――あえて、何の話であるかは、言わない。
ベアタは俯かなかった。ルチフの顔を見て、やや躊躇ったようだったが、まるで雪が止んだその瞬間の空気をまとったように、立ち上がった。
「……さっき、ケイさんから、ニヘンさんが生前『食べてほしい』と言っていたって聞いたから……それに、私もあの人の魂を……受け継ぎたい。感謝してるの」
――間もなくして、二人はそれぞれ、シチューの入った椀を手に、戻ってきた。
元のように並んで座って、ルチフはすぐには、シチューに手をつけなかった。ベアタを見る。
ベアタはシチューの水面を見下ろしていた。大振りの野菜の中に、肉も見えるシチュー。
やがて、ベアタの白い手がスプーンを握った。肉をすくえば、口に運ぶ。
「……望まれたのなら。残されたのだから」
ベアタは肉を、ゆっくりと咀嚼する。そして飲み込む――魂を、受け継ぐ。
死者が残された者の、力となる。意思が受け継がれる。これからも、共に生きていく。
そうして、生きていく。
「私も、ニヘンさんに感謝してるから……」
ベアタが食べたのを見届けて、ルチフもシチューを食べ始めた。シチューは温かい。優しい味がした。飲み込めば、身体が温まる。
静かな食事だった。広場の方からは、何か賑やかな様子が聞こえるものの、ルチフとベアタがいる場所だけは、まるで世界から切り離されているかのように、静かだった。
「――ルチフ、洞窟でのこと、憶えてる?」
シチューを半分まで食べて、ベアタがふと、尋ねてきた。何のことだかわからなくて、ルチフは彼女の顔を見つめる。
ベアタは優しい笑みを浮かべていた。愛おしむかのようで、しかしどこか寂しそうで。
「……もし、私が死んだら……食べてほしいの。あなたに。……一緒にいたいから。私ももし……あなたに何かあったときは、あなたを食べるから」
その言葉に、ルチフは静かに頷いた。
――そんな日が来ないのが、一番いいとは思うけれども。
――生きている限り、何が起こるかわからないから。
だからこそ、平穏が長く続くことを、ルチフは願った。
――けれども、願いは叶わなかった。
突然暗くなり吹雪くように、この平穏が終わるとは、夢にも思っていなかった。
* * *
いつもの夕暮れだった。けれどもその日は少し暖かく、村は賑わっていた。子供達が走り回り、大人達も暖かな気候に立ち話をしたり、仕事をしたりしていた。
皆の表情は明るかった。間違いなく、暖かな気候のおかげだった――牧場から村への帰路にいたチャーロは、ふと立ち止まって村を見つめる。
「明日もこのくらいあったかければいいけどなぁ」
思わず口にしてしまうほど、穏やかな日で、チャーロは鼻歌を歌いながら、再び村へと歩き出した。と、ちらりと牧場へ振り返る――残してきたルチフとベアタについて、考える。
時々、チャーロは思うようになっていた。
ルチフとベアタが一緒にいる姿は――まるで恋人同士のようだ、と。
ネサがいなくなってから、祖母のケイがルチフをひどく心配していたのを思い出す。家族がいなくなってしまったルチフ。見た目が違うことを気にしているルチフ。これから先、誰かと共に暮らすことができるのだろうか、家族を得られるのだろうか――と。
……まだ少し早い話かもしれないが、その心配は、もう必要ないと、チャーロは思った。
たとえ二人が結ばれなくても、ルチフは村に馴染めたのだから。
「……僕は、空気の読める奴だから、邪魔になる前に帰るよーっと」
一人、そう笑う。また鼻歌を歌いながら、チャーロは村へ向かっていく。
――けれども。
「――大変だあああ!」
悲鳴が聞こえた。広場の中央にある焚き火が、揺れるのが見えた。
とっさにチャーロは足を止めた。目を凝らすと、広場に走ってくる村人の姿があった。
中央の焚き火がまた大きく揺れた。何か、奇妙な音が聞こえる―――人の声や動物の鳴き声とは違う。かといって、吹雪や雪崩の轟音でもない。
村の奥から、悲鳴が次々に上がった。やがて広場に――巨大な箱がいくつも姿を現した。
赤い装飾の入った、四輪の奇妙で巨大な箱だった。最初、チャーロは荷車かと思ったが、箱をひいている動物の姿はない。奇妙な箱達は、まるで村に乗り込んでくるかのように、広場に雪崩れ込んでくる。憩いの場として使われていた丸太が踏み潰される。家に衝突し、その壁に亀裂を入れようが気にしない。人々をも気にせず、突っ込んでくる。
まるで暴走したオビスのようだった。否、それよりも凶暴。箱の一つが、ついに焚き火を蹴散らした。焚き火は散り散りになり、踏み潰される――。
チャーロは悲鳴を上げるのも忘れていた。何が起きているのか、わからなかった。
と、巨大な箱達は停止したかと思えば、その側面が開き、そこから人がぞろぞろと出てきた。
「――銀髪、だ」
チャーロは口を開けてしまった。
箱から出てきた人々は、皆、銀髪だった。目を見れば、青色――だがそのことに驚いている暇もなかった。
揃いの服を着た銀髪の人間達は、腰に剣を帯びていた。そして唖然としている村人達へ迫り、
「……全員、大人しくしろ!」
剣を抜き、その切っ先を人々に突きつけた。
それを皮切りに、銀髪達は村人達を追い回し始めた。
まるで狩りのようだった。銀髪達は、村人を捕まえれば、広場へと集めていく。村はあっという間に悲鳴に包まれた。子供の泣き声が響く。命乞いをする声も聞こえる。銀髪達に抵抗しようと、農具を手にした村人もいたが、あえなく剣で払われてしまう。それでも抵抗しようとするものなら、銀髪達は剣を振り下ろす――。
背を切られた村人が倒れるのを、チャーロは見ていた。
「何……なん、なの……」
チャーロの声は震えていた。倒れた村人を、銀髪達はひきずって広場へと運んでいく。
見つめていると、一軒の家が激しく燃え上がり始めた。むせび泣く声が耳に刺さる。
オンレフ村は、蹂躙され、荒らされていた。何故こんな仕打ちを受けなければいけないのか、わからないほどに、村は銀髪達に壊滅させられていった。泣き声、怒声、何かが割れる音。蹴破られた扉、何かが燃える臭い、血の赤色――。
銀髪達は、チャーロの家にまでも入っていった。扉を壊し、中へ。そして。
「――ばあちゃん!」
ケイが連れ出されるのを、チャーロは見た。広場に連れ出され、そこに座らされる。
「――なるべく傷つけるな。殺さないでくれ。生きて連れて帰らなければいけないのだから」
と、広場にいた銀髪の一人が、声を上げる。その銀髪の男だけ、服装が少し違っていた。近くにいた銀髪に、何やら指示を出している。それから彼は、集められた村人達へ向き直ると、
「エンパーロ王の命により、お前達を我が国に迎えることになった……抵抗しなければ、傷つけはしない」
……わけがわからなかった。
ただ一つだけ、チャーロにはわかった――村が、壊されている。
「うあ……あ……あ……!」
ざく、とチャーロは後ずさりした。
――どうしてこんなことに。みんなが、捕まってしまっている。
「――あそこにもまだいるぞ! 捕まえろ!」
そこでチャーロは、銀髪の一人に指をさされてしまった。すぐさま、剣を握った銀髪達が走ってくる――その冷たい刃の輝き。まるで狼のようにこちらを捉えた青い瞳。
「――逃げるんだチャーロ!」
祖母の悲鳴が聞こえた。
息を呑んでチャーロは牧場へと走り出した。
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