第一章(2)

 * * *


 十五年前の話になる。

 ひどい吹雪の日の、次の日だったらしい。空はやはり曇っていた上に、世界は冷え切っていたものの、比較的穏やかな天気だったそうだ。

 当時、一人でオビスの世話をしていたネサは、牧場から迷い出てしまったオビスを探していた。その時たまたま、雪に埋もれるようにしてあった洞窟で、人を見つけた。

 夫婦らしい銀髪の二人組だった。もう息をしていなかった。

 ――けれども二人が共に抱いていた銀髪の赤ん坊だけは、かろうじて生きていた。

 それがルチフだった。

 すぐにネサはその赤ん坊を村に連れ帰った。最初こそは、村の人間も、連れ帰ってきたネサ本人も、自分達黒髪の人間と全く違う銀髪の赤ん坊に、驚き戸惑ったという。おまけに瞳はあの雲の向こうにあると言われる空の色だという青色。自分達のような緑色ではない。

 全く違う種類の人間。そもそも人間なのか――。

 それでも、泣きわめく赤ん坊を見て、村人は見た目の違う赤ん坊も、人であると受け入れた。そうして赤ん坊は「ルチフ」と名付けられ、ネサに育てられることになった――。

 だから、ルチフがネサの仕事の手伝い――オビスの世話の手伝いをするようになったのは、自然なことだった。

「……全員、元気だな」

 ルチフは今まで通り、オビスの世話をしていた。餌の補充をした後は、子供のオビス達の調子をみるのがいつもの流れだ。昨日はいつもより冷え込んだが、特に問題はなかったらしい。雪に包まれた牧場の中、大きな犬ほどの茶色の毛玉からルチフが手を放せば、その毛玉――オビスの子供は他の子供のオビス達へと駆けていった。その体に雪がつくのもかまわずに、子供のオビス達は追いかけっこをしたり、一緒に転がったりしてじゃれ合っている。

 ルチフはゆっくりと立ち上がれば、吹いてきた風に身体を震わせた――いつもこんな天気だ、慣れているのだが、寒くないわけがない。それにしても子供のオビス達は元気だ、あんなに雪の上を跳ね回って。

 子供のオビス達を見ていると、ふと、そのずっと遠くにある絶壁に目がいく。絶壁の上は高すぎて何も見えない。それは本当に巨大な壁のようにそびえ立っていた。

 つと、ルチフは考える――あの上には、何があるのだろうか、と。

 ――もしかすると、お前の両親は、あの上から来たのかもしれないな? この周辺じゃ、お前みたいな銀髪に青い目の人間なんて、聞いたことないし。

 それは幼い頃、ネサに言われた言葉。

 ここから見る絶壁には、登れるような道はおろか、下りられる道も見あたらない。そもそもこの絶壁は、どこまで続いているのだろうか。まるで、世界を隔てているように思える。

 ――いけない。次の仕事をしないと。

 と、ルチフは我に返る。ただでさえいまは一人で仕事をこなさなくてはならなくて、時間がかかるのだ。ぼうっとしていると、日暮れまでに仕事を終わらせられない。

 次の仕事は、牧場の柵の点検だった。雪で白塗りにされたような牧場の端まで進めば、柵が見えてくる。その途中、ルチフは腰に身につけていた剣が確かにそこにあることを、手で触れて確かめる。手袋をつけた手だが、それでも剣が冷たいことを肌で感じた。

 はっきり言って、オビスの世話は、そう難しいものではない。

 ――迷い出たオビスを探しに行くことと、オビスを守るために狼と戦うことを除けば。

 ルチフが剣を握ったのは、六歳の時だった。

 牧場に侵入してきた狼から、ネサを助けた時。それが初めて剣を握った時だった。

 柵が壊れていたのだ。そこから狼が侵入してきて、オビスを襲おうとした。すぐさまネサが剣を握ったが、戦いの最中、ネサは剣を落としてしまったのだ。

 その剣を、まだ子供だったルチフが拾って、狼を殺した。

 その後、ネサは剣を持たせてくれた。ただし、その剣は。

 ――これは、お前の死んだ親父が持ってた剣だ。これだけは遺しておいたんだ。

 文様の描かれた黒い鞘は美しく、刃は出来のいいもので、村ではとても貴重なものだと言われた。しかしそれだけではなく、お前の形見になるから保管しておいた、と。とはいえ、剣、刃物だ。もう少し大きくなった時に渡そうと思っていたらしい。だが、十分かもしれない、と。

 ――問題は、なし。

 ルチフは柵に沿って歩き、壊れていないか、あるいは壊れそうでないか、点検する。だが今日はどこにも異常は見られなかった。最近、激しい吹雪もなかったためだろう。狼達が壊そうとした跡も見あたらない。と。

 ――……。

 遠吠えが聞こえて、ルチフは顔を上げ、柵の外に広がる銀世界を睨んだ。死と無を思わせるような、冷え切った白色が広がる世界。凍りついた世界。

 狼の遠吠えは、確かに聞こえた。姿は見えないけれども。

 ――このオビス牧場に気付いているのか、気付いていないのか。

「……遠い、ですね」

 まるで、隣にいる誰かに話しかけるかのように、ルチフは、

「このまま、通り過ぎて行ってくれるといいんですけど……」

 と、すっ、と、冷たい空気を吸い込んで、ルチフは瞬きをした。

 ――誰に話しかけているのだろうか。

 ネサはもういないのに。それも、狼のせいで。

 自然と俯けば、雪に半ば埋もれた自分の足が見えた。

 ここに立っているのは、自分だけ。

 マフラーが風に揺れる。白い世界に、たった一人、ルチフは立っていた。まるで身を縛るかのように冷気が渦巻く。寒さに息が詰まった。

 ――誰も、いない。

 たとえ死んでも魂は共にあると言われても、ネサは、もういない。

 形見の剣があるけれども、両親も、もういない。

 チャーロも先程までいたけれども、もういない。

 ここに一人、立っていることに変わりない。

 それだけではなく、よその生まれであることにも変わりがないのだ。

 いくら黒い帽子を被っているとはいえ、髪は銀色、目は青色。

 冷たさが鋭利になって胸に刺さる。するとついに息ができなくなって。

 ――どうして一人なのだろう。

 寒いはずであるのに、目が熱い。

 その時だった――背中を押されたのは。

「……!」

 軽く押されただけだったが、不意だったもので、ルチフは目を見開いて振り返った。

 すぐ後ろには、巨大な茶色の毛玉がいた。身長は優に大人の男を越えている、それ。毛の間からは、鼻がわずかに突き出ていて、よく見れば、細長い瞳孔の黄色の目も、毛に埋もれるようにしてあった。

 オビスだ。巨大な羊。村の大切な家畜。

 そしてルチフの背後にいたのは、この牧場で一番年老いたオビスだった。

 年寄りのオビスは、振り返ったルチフの胸を鼻で突いた。その鼻をルチフは軽く撫でる。すると、オビスの黄色の目がわずかに細くなった。

 ――オビスは賢い生き物だ。もしかすると、慰めにきたのかもしれない。

 ルチフが遠くを見れば、他のオビス達もこちらを見ていた。

「大丈夫だ、俺も……狼達も遠いし……」

 もう狼の声は聞こえない。誰の声も聞こえない。ルチフはもう一度、オビスの鼻を撫でた。

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