17話 邂逅と悔恨
少年の左の視界は、いつも曇っている。
ボンヤリと白けていて、何も像を映さない。
でもそれを少年は当たり前だと認識している。
世界とは、生まれついた時から白く見えるものなのだと。
少年が少年という自我を芽生えさせてきたころからの日常だった。
その日常を覆す出来事も、古きを壊す人物も、彼の傍には寄り付かなかった。
だから彼は何も知らない。
母のような存在がいつも陰で疎まれていることも。
自身に向けられる怯えを含んだ負の視線も。
それらはすべていつものことであるし、真っ白に塗りつぶされた左に入れてさえしまえば気にならなかった。
村人が彼に向ける視線も、子供に向ける視線も全ては同じに見えた。
時折、小石か何かをぶつけられることがあった。
そういう時は決まってぶつけた人は泣いているし、周りの人も目を伏せるだけで止めることもなく、加わることもなくただ立っている。
それはなにかと尋ねたら、母は大切な人がいなくなったんだよとか何か悪いことがあったんだよ、と。
その人たちも上手く感情の整理ができていないだけだから恨まないでねと言っていた。
【恨む】という感情がどういうものか少年はわからなかったが、村の人たちに辛いことがあったら小石をぶつけられてやるせない感情の捌け口になるのが自分の役目なんだと無知なりに解釈した。
これは間違いじゃないだろうと少年は思っている。
服はボロボロで青あざだらけの体を見ても母も、たまにやってくる医者の人も何も言わない。
小石をぶつけられるのは痛いけれど、母が数種の薬草を煎じ詰めて患部に塗ってくれるあの何とも言えない時間が少年は好きだった。
殴り倒されて体中青痣だらけになった日は歩くのもやっとでさすがにつらかったけれど、数日間母がいつも以上に自分と一緒にいてくれてとても嬉しかった。
だから、辛いことも我慢できる。
自分はこんなにも幸せなんだから、ほかの人ももっと幸せになるべきだ。
だから少年は喜んで石をその身に受ける。
その度に人々の視線はさらに忌避の色を強めていく。
何も知らないという生き物としての瑕疵。
擦れ違いの違和感。
猜疑に塗れた目に映る少年の姿は、きっと実物以上に恐ろしかったに違いない。
忌み子という名の炎に照らされ、実像以上に広がった少年の影に皆怯えていた。
母以外の何者からも、愛されない。
それでも母の言う隣人を愛しなさいという教えを
吐き出される言葉の須くは呪詛で、悉くは嘘で、思へらくには誠。
少年は今日も今日とて村へ下った。
いつもの視線、いつもの言葉、そして投げられる石。
そこには、村の中よりもだいぶ流れが穏やかな小川と、食べると甘酸っぱくておいしい果実と、打たれ疲れた体を癒してくれるお昼寝に絶好の場所があるのだ。
不規則に揺れる世界と覚束ない足元と格闘しながら流れに沿って下っていく。
下って、下って、下って。
もう少しで、目的地に着くというところで、何か大きい物とそれほど大きくないものが近づいてくる足音がした。
どうやらガサガサと草木を掻き分けて小川の下流を登ってきているらしい。
どうしようと少年は固まる。
母や村の人々以外の生き物は、小鳥などしか見た事がない。
こんなにも大きい生き物にこれほど接近したことがないし、もしこれ程まで近づいたとしたら投げられる石の数が更に増すので少年は固まってしまった。
休む暇もなく石を投げられるのか。
そもそもどうしたらいいのか。
自分はなにか悪いことをしてしまっただろうか。
そう頭の中に疑問が駆け抜けるばかりで所々が青く腫れた体は一向に動かない。
言い知れない不安が胸の奥底から込み上げてきて、足は竦むばかり。
「──ッ!!」
姿を見せたのは、見慣れない格好の人間と、四本足の美しい生物だった。
「あ、えーと、こんにちは」
こちらを不思議そうに見つめている白髪が背中まで伸びた人に、数秒の視線の交錯の後、凱はおずおずと声をかけた。
「こ、こんにちは…」
挨拶が返ってきたことに安堵する。
声音は甲高く、7、8歳くらいの子供に見える。
そこまで余所者に排他的な人物ではないようだ。
凱はリコリスに水を飲んでいていいよと許可を出す意味で首を撫で、ポンポンと軽くはたく。
リコリスにはそれだけで凱の意図が伝わったらしくぶるると短く息を吐きだすと、パカパカと小川に向かって歩き、頭を垂れて水を飲み始める。
それを見やって凱は正面に視線を戻し、尋ねる。
「ここで何をしているんですか?」
「──ッ──こ、この先に、キレイなところがあって、そこでおひるねしようと…」
凱の問いかけに一瞬肩を震わせて微かに怯えを含んだ眼差しで答える白い子供。
体は半分ほど違う方向を向いており、今にも逃げ出してしまいそうだ。
上擦った声に、何か怖がらせてしまっただろうかと凱は考え、できるだけ安心感を抱けるような声音と表情で優しく話しかける。
「綺麗なところでお昼寝か、とってもいいね。…そっちに行ってもいいかな?」
「う、うん、いいです」
近づく許可を取り、歩みを進める。
一歩歩みを進めるごとに少しづつ白髪の子の体が凱のほうを向き始める。
「えっと、怒らないの?」
「怒る?何に?」
そういう子供の左目は白く淀んでいる。
よく見れば身体のあちこちは青く腫れていて、とても痛ましい。
転んだなどでは済まされない、第三者からの暴力の痕があった。
少し腫れぼったい右目を精一杯見開き、信じられないものを見るような目で問うて来る。
「今日も、みんな、近づくなって言ってたから…」
その後に続く問いかけは、何故であるのだろう。
責めるような口調にならないように細心の注意を払いつつ、優しく訊く。
「何かしたの?」
それに対してふるふると首を振り否定する。
何も責められる謂れはないと。
ただ、
「……みんな辛いから、ぼくに石を投げても許してあげてってお母さんが」
凱は石を投げられるなんて、一体どんな場所だと考えた。
左目が普通の人とは違うということも手伝って容姿を皮切りにイジメられているのだろうか。
流石に痣だらけになるまで石を投げる行事や仕来りが村独自の文化として根付いているとは考えにくい。
もしイジメだとしたら我が子が壮絶なイジメ、村八分、兎に角酷い仕打ちを受けているのに、村人を許してあげてと我が子の方に我慢を強いるのは母親としてどうなんだと。
確かに凱自身は親に期待されていないと思っているが、それでも朝食も夕食もみんなと同じ物を食べていたし、ろくな日常会話が無いのだって今にして思えば自分から壁を建てて距離を置いていたようにも思う。
確かに、暴力を全面的に肯定するのは教育として間違っているが、それでも何をされても赦してあげなさいと教えるのもそれはそれで不健全だ。
「それは……怒って、恨んで、いいよ。何もしていないのに、石を投げつけられるなんてそんなの理不尽だ」
何もしていないのは何も出来ないと同義ではない。
何もなさないのは約立たずだと、そう周りから判断されても仕方ないと、かつての経験から諦めてしまいたくない。
「うらむ?おこる?」
何も知らない、知らなければいけない少年は不思議そうに聞き返す。
今まで生きていた中で、【恨み】とも【怒り】とも無縁の生活を送ってきたのか。
いや、どちらかといえば【恨み】や【怒り】が日常の一部で、それがどのようなものなのか、どういった不利益を自身にもたらすのか理解していないのだろう。
あまりにも自然すぎて、ありふれていて、それが何か考えたこともないのだ。
「何もしていないのに謂れのない糾弾を受けるのも、石を投げられるのも、殴られるのも、全部、全部、不幸だよ。そんな時は怒っていいんだよ」
名前も知らない子供に、それでも辛かった過去を見いだして精一杯助けようとする。
「望まれていない命なんてないんだ、誰にだって、幸せになる権利があるんだよ」
「しあわせ……?ぼくは、しあわせだよ。なぐられるのはいたいけど、お母さんがいつも以上に一緒にいてくれるから」
その一言の意味が頭に浸み込んで、凱は自分が傲慢であることを思い知った。
ガツンと後頭部を殴られた気分だ。
この子の世界は、悪意や敵意などの邪な感情で汚される前の、キレイな世界なのだ。
何も知らないのは不幸だとそう勝手に決めつけていた。
事実、不幸を知る身としては、このような扱いをされているのはとても不憫だ。
でも、なぜ不憫なのかを自分の置かれている状況を知らない子が理解したらどうなるだろう。
こんなにも、幸せそうに語るこの子を、他人を慮ることができる子に非情に現実を教え込むというのか。
それこそが、一番の不幸ではないのか。
不幸にした責任を、果たして凱は背負いきれるのだろうか。
どうしたらいいか分からず、黙ってしまう。
きっとこの子の母親も、このような板挟みにあっていたのだろう。
心の中とはいえ、母親の考えを馬鹿にした自分の至らなさを凱は恥じた。
そしてふと、ノアも凱を救おうとした当時、こんな感情だったのだろうかと考える。
「──いきなりなんだけどさ、友達になろうよ。僕の名前は久遠 凱。幸せの商人なんだ」
「──うん、──うん!!エイン、ぼくは、エイン」
たどたどしくも懸命な返事をするその子と手を繋ぎ、リコリスを回収し、馬車へと帰路に着く。
そう、何も今すぐに一人で悩んで答えを出す必要はないのだ。
ノアとこの子の母と、できるならば周りの人とも話し合って最善を見つければいい。
この子への仕打ちは許されるかもしれないし、許されないかもしれない。
事実を知ればこの子はみんなを許すかもしれないし、許さないかもしれない。
どう転ぶか分からないが、それはエインが決めること。
ただ今はすべての人にとって幸せな結果になるようにと願って。
そんな友情を築くための架け橋、そのための友達第一号になろうと凱は決意した。
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