16話 異邦人と忌み子
草木はのびのび、
ほんの数日前まで砂なのか灰なのかよくわからないものが一面に広がっていた世界と同じ世界だとは思えない。
胸いっぱいに空気を吸い込んでも、清涼感で胸が満たされるばかりで砂が口の中に入り込んでくる不快感もなければ、肌を鋭い針で突き差されるような強烈な日差しもない。
まさに天国と地獄だ。
どちらがどちらと明言するまでもないだろう。
「リコリス、ごめん、疲れただろう?休憩にしよう。気が付かなくてごめんよ」
リコリスは御者が居なくても言葉で伝えれば目的地へ連れていってくれるので実はこうして御者の真似事をするのは半分は目的の発見、半分はすれ違う人々に警戒されないためである。
そんなエゴの最中、どこか遠くのせせらぎの音を聞きつけ、そこでリコリスの手綱を引いていた凱はようやく休息について思い至った。
この頼もしい
正確に言うと、凱が手綱を引いているときは、休憩を取っていない。
馬の世話も、この見慣れない世界も、馬車での旅も、何もかもが初めてなのだ。
何が必要かなんてわかるわけもない。
勿論、街に着いた時には厩舎で世話をしてもらっていたし、凱が馬車の中にいるときにはノアが適宜休憩を入れていただろうし、二人が寝たときなどは立ち止まって寝ていたはずである。
それでもあの地獄のような砂漠の環境は相当堪えただろう。
凱は休憩を取っていないことに気が付いた時、後ろ足で蹴り殺されても文句は言えないと思った。
人間の言葉は話せなくとも、自分たちの意を汲んでいろいろと苦労を背負ってくれているリコリスは、高度な知能があると考えるのが自然だ。
そんなリコリスが主人の代わりに手綱を引く何も知らない愚図に対していろいろと思うことがあるに違いない。
早く水を飲ませろとか、休憩させろとか、餌をもっと寄こせとか、ぼさっと突っ立ってないで目的地を決めろだとか、早く主人と変わってくれとか。
不平不満が大爆発してもおかしくはない。
それをおくびにも出さずに悠々と、そして素人の世話などに嫌がるそぶりも見せずに次なる目的地へと運んでくれるこの牝馬には、頭が上がらない。
馬車を牽引する為の金具を外してやると、不平不満を垂れるどころか、リコリスは首を垂れ、鼻先を凱と降りてきたノアに擦り付け、長時間の移動を労うような、休憩に心を躍らせているような仕草を見せる。
とてもよくできた気遣いで、最早どちらが
(リコリスが各地に幸せを届けるために、手先が器用で言葉が話せる
ノアは馬車の中で眠っていたのか眠そうに眼をこすり、リコリスの頭をなでてお疲れ様と労をねぎらっている。
このままリコリスと共に野に放つと、水辺を探して彷徨っている間にどこかで俯せになってしまうかもしれない。
それくらい疲労が溜まっている様子だ。
やはりルドルフの心労が抜けきっていないのだろうか、と自分のことは棚上げして考える。
「ノア、僕はリコリスを連れて水分補給をさせてくるから、馬車の中でもう少し寛いでいてもいいよ」
「そう?ならお言葉に甘えてもう少し仮眠を取らせてもらうわ。御者を交代するときまでには元気になっておくわ」
「体調とか大丈夫?」
「熱も体の不調もないのだけれど……なんていうのかしら、直ぐ疲れてしまう様になってしまったのよね。もう歳かしら」
女性に年齢の話はタブーだという話はよく聞くが、女性から振られた場合はどうすればいいのだろうか。
肯定するにしろ否定するにしろ、巧い受け流し方がわからない。
自分とそこまで変わらぬ年頃の美少女だと自分の審美眼を信じて、そんな歳じゃないでしょと否定してあげるべきか。
何を戯けたことをと一笑に付すべきなのか。
それとも彼女の独り言として処理するのが正解か。
(まぁ、体調悪くなったらすぐに知らせてねと暗に内容に触れないけれど話は聞いてますよって言うのが丸いのかな)
死とか幸せとか不定形で良く分からないもので思い悩んでいた自分が、人との会話の投げ合い一つで四苦八苦しているのがどこか可笑しくて凱はふふっと小さく吹き出す。
ノアが言う通り本当に、心境が前向きに変わり始めてきているらしい。
不安がないのかと言えば、ある。
後悔はないのかと聞かれれば、後悔しかない。
それでも、前に進むしかない。
眼は前についていて、進む体も、道も目の前にしかない。
未来のことなど、考えたことは数少ないし、訪れるのは凄惨で孤独な死という幕引きだと考えていた。
でも、今は進んできた道が自分の知らない道で、目的地もどこか分からない。
そのことを不安に思っている。
ルドルフ達の死に
それでも、独りではない。
未来が必ずしも、悪いものとは限らない。
「体調悪化したらすぐに教えてね。じゃ、行ってくるよ」
だから、悩んで、迷って、先の見えない道を歩くという不安を受け止めながら一歩ずつ道を進むのかもしれない。
せせらぎを求めて街道近くの森にわけいった凱は壮大な自然に圧倒された。
遠目からでも色彩の豊かさというものはわかったが、近づいてみると、植物一つ一つの命の波動が感じられ、色が質量を持って迫って来ているような臨場感があった。
果実は瑞々しく、草木は何事かを囁くように微風に揺れている。
凱はあぁ、自分はこんな自然の雄大さを白い世界に描きたかったのだなとしみじみと思った。
筆を折った頃は、何もかもが信じられなくて、自暴自棄で、それ故に眼が曇って見えていなかった世界の【美しさ】がそこにあった。
「綺麗、だな」
知らず知らずのうちに口から零れたその言葉が、凱の心情を的確に表していた。
この自然の景色を前にしていると自然と目頭が熱くなる。
目頭を抑えて、押さえつけてなんとか感情の波を防波堤で乗り切ろうとするも
このままここに居たら昔を思い出して泣いてしまうだろう。
それはもう、醜く。
思い出したくもない過去が囁く。
お前は、こんなにも素晴らしいものを失ったのだと。
忌まわしい記憶が突き付けてくる。
ありうべからざる今を。
そんな素敵な妄想をしてしまっては、心の奥底から溢れ出す感情の波に飲み込まれてしまう。
その波に呑まれれば、凱はまた身近らの境遇を呪い始めるだろう。
ノアと出会う前の惨めな自分に逆戻りだ。
折角成長して前向きになれたのに。
ようやくともに歩む人を見つけたのに。
失いたくない。
だから、そんな感情を知らんぷりして手綱を引っ張って森の奥へと進む。
「行こう」
体を森の奥へ、奥へと。
意識を瞳から下へ、下へと。
大地を踏みしめる足を意識して、それ以外の何も考えられないように。
考えてしまわないように。
少し進むと、せせらぎの音はさらに大きくなり目視もできるようになった。
ただ流れる水の量が少なく、リコリスが喉を潤すに足る量でないことは一目瞭然であったので川の上流を目指す。
意識は変わらず、下へ下へ。
余計な考えが脳を支配する前に無我の領域へ。
雑念を振り払おうと、考えたくないと鎌首を擡げた不満を押し殺そうとすればするほど、逆にそのことばかりに気を取られてしまう。
凱が内心で悪戦苦闘していると視界を何かが掠めた。
なんだろう、とその何かを見つけるために視線を上げるとそこには。
白髪が背中まで伸びた人が、こちらを不思議そうに見つめてそこにいた。
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