9話 平和の絵
必要最低限のおめかしをしたルドルフとベルタが部屋にやってくる。
そうして、ノアの妙に高テンションな指示により、ベルタは椅子に御淑やかに深く腰掛け、ルドルフは紳士然と椅子の後方に立つ。
この光景を今から絵に起こすのだが、これだけでも十分絵になっている。
そしてその手前には主従二人を何度も頷きながら笑顔で見ているノアと、イーゼルに立て掛けられたキャンバスの前で困惑している凱がいる。
キャンバスが真っ白なら、凱の頭の中も真っ白である。
「ノア、この構図って……」
「ええ、そうよ。わかったのなら余計な口出しはしないで描いて」
「わかったよ。でもまずは下書きしなきゃ。……人二人いるし、結構時間かかるけど?」
「取り敢えず描いておいて。私はその時間で聞き込みとか、図書館とか調べられそうなところ、当たっておくから」
そう言ってノアは邪魔したわねとそっけないような、上から目線の一言を添えて扉から出ていく。
「…了解」
扉の向こう側に消える背中に消え入るような声で呟いた凱は、キャンバス前の丸椅子にどかりと腰を落ち着け、少しづつ、丁寧に下書き用の鉛筆を走らせていく。
いつになく真剣な横顔は、嘗ての勘を取り戻さんとしているようにも、絵画を仕上げるという自分だけ世界に没頭しようとしているようにも見える。
そのやり取りを静かに見届けていたベルタがノアが出ていったことを皮切りにあの、と話しかける。
「不躾ですが、その、描き心地を調べるだけなのならば、このように本格的に始めなくとも、紙にさらっと描くだけで宜しいのではないでしょうか」
「あ、動かないで。……うーん、なんとなくなんだけどさ」
凱はテーブルに置いてある桐箱の前まで移動し、その中に仕舞われている筆を一本片手で弄びながら提案に対してそうしなかった理由を告げる。
「そんな中途半端な仕事じゃ、筆に認めてもらえないと思うんだよねぇ。確かこれさ、持ち主を選ぶんだよね?だったら使い手は絵を描くってことに真摯に向き合ったほうがいいんじゃないかなぁって」
「は、はぁ…」
「そして、一度は棄てたモノでも、せめて
「…すみません」
「悪いけど、あと10分くらいそうやっててもらえる?10分もすれば下書きも粗方完成するだろうし僕の脳裏にも焼き付くだろうから」
そうして気恥ずかしそうに密着した二人の息遣いと鉛筆を走らせる音だけが世界を満たしていた。
その暖かく切り取られた時間の中でだけ、陰鬱で幸薄そうな少女は唇がわずかに緩んで、心なしか微かに笑って、とても幸せそうだった。
「──【幸せの花】だァ?んなもん迷信に決まってんだろ、本気にするだけ無駄無駄、冷やかしなら帰んな」
「──伝説なんてあてにするもんじゃないよ、幸せは自分で掴み取ってこそさ」
「──悪いが、他を当たってくれ」
「──【幸せの花】に関する書物?寡聞にして存じません、司書として情けない限りです、申し訳ない」
何か、おかしい。
ノアの勘がそう告げている。
皆一様に何かを隠している。
特に図書館の司書なんてそうだ。
知らないなら知らないで手伝う素振りや「一緒にお探ししますよ」なんて優しい一言くらいあってもいいのに。
まるで関わりたくないとでも言わんばかりに、否定し、拒絶し、距離を取る。
口では頑張れよと言いつつも、何かに怯え、関りを避けようとする。
(何か、あるわね)
さて、その何かとやらはどんなもので、
それを知ることが、当面の目標になるだろう。
で、あるならば──
「──聞き込みをしつつ、核心を突いていかなきゃね。その頃にはきっと」
あの暖かい平和の絵は完成しているだろう。
絵を描いている凱は、絵のモデルになっている二人は幸せだろうか。
桐箱に入った筆と、外からの干渉を受けて中身が変質しないようにする為の魔法が掛けられた小瓶に仕舞われた絵の具を見た時、確かに凱の瞳が好奇に輝いたのをノアは見逃さなかった。
絵を描けば、絵が描かれれば、小さな幸せを芽吹かせられるだろう。
その幸せは、【幸せの花】には見劣りするだろうけど、それでも前座としては十分だろう。
そうやって少しづつ、報われて欲しい。
三人が幸せなだけで、このくそったれた世界にも一縷の希望が抱ける気がする。
それは、この広大な荒廃した世界で、ちっぽけではあるが確かな光であるのだ。
この暗い絶望の奥底に擱座した世界でも、微かな星明りがあれば自分自身の二本足で歩いて行ける。
「あり得る展開としては自分が不幸だから、他人が幸せになる事が許せない、とかかしらね」
浅ましい、悍ましい、愚かしい、そして何よりも人間らしい。
人間は追い詰められた時にこそ、内に秘めた本性を現すという。
こんな世界になってしまっては己を取り巻く世界の非運を嘆くあまり、幸せを憎むようになるのも理解できる。
しかし、それであの幸せの絵が不幸というどす黒くて汚くて醜い色で染められるのはまっぴらごめんだ。
暗闇の奥底から覗くのは、
少しでも、
願わくば、より多くの人が人であらん事を。
それがノアが現状に唯一抗える行動である。
「──もし、さっきの懸念が事実だったとして、それを知ってしまったら」
きっとあの二人は傷付いてしまうだろう。
それでも尚、真実を啓蒙するべきか、それとも優しさという大義名分で隠し通すべきか。
それをきちんと判断するためにも。
「【幸せの花】を探し出さなきゃ」
幸せを描くための絵の具と筆という、対価に見合うように。
「まずは、聞き込みの対象を考えなきゃね」
図書館には、めぼしい情報はなかったと割り切りをするしかない。
少なくとも、ノア一人で行動するのなら図書館で時間を潰すのは悪手だ。
司書は非協力的であるし、全体を見渡した様子ではとても文献を探し出せる量ではない。
そしてそもそもの話、ルドルフ、或いはベルタは何故【幸せの花】の話を知っていたのだろうか。
それを知るには、少なくともその伝説や噂の実態を知っている人か情報を記した何かが彼ら彼女らの周辺にあるべきだ。
ルドルフが交渉の際に、図書館にある書物の話やベルタ以外の教えてくれた人の話題が出なかったのには、それがある種の常識と化しているからだと考えられる。
リンゴをリンゴだと認識するように、誰に教えられたという記憶はないけれど、それがそういう存在だという知識だけがある状態。
つまり、彼らの小さい頃から接していた人物、或いはベルタの奴隷時代に関わりがあった人が噂の出所であろう。
そして聞き齧った知識によると、咲いている花は【ソドロム山】というここからそう遠くない場所にあるとされている。
ということは、遠く離れた土地──例えば東の帝国などで主流な伝説だとは考えにくい。
つまり、この街近辺に伝説を知る人がいる可能性が高いと考えられる。
本当はベルタにも聞きたいところなのだが、どうやらルドルフはサプライズをしたいようで、頑なにベルタに【幸せの花】の話をしたがらない。
ならば、ノアや凱がその話をしてしまうのはサプライズが失敗する可能性が極めて高い為、やめておいた方が懸命だろう。
そうすると、ノアに残されたのは聞き込みになるだろう。
或いは、聞き方の問題なのだろうか。
【幸せの花】の話ではなく、【ソドロム山】の地理の情報を聞けば、自ずと【幸せの花】の棲息地域が分かるかもしれない。
「よし、そんな感じで行きましょう」
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