8話 探し物は取引の後で

白い陶磁器のようなティーカップに並々と注がれた飴色の液体は、仄かに茶葉のいい香りを湯気に乗せ、鼻腔をくすぐる。

どうやら、使用人が気を利かせて時間が経ってぬるくなった紅茶──凱には専門知識もないし、この世界に紅茶があるのか分からないから紅茶のような飲み物と濁しておく──を新しく継ぎ足してくれたらしい。

鼻から入った清涼な空気は、眠たげな凱の頭脳を一気に覚醒させた。

微睡そうな意識が覚醒した凱は一度大きく伸びをして、姿勢を正し、豪華絢爛一歩手前くらいのソファに深く腰掛ける。

高級なソファは身体にフィットして、忘れていた眠気を再び呼び覚ます。

ルドルフの家、規模から正確に言えばお屋敷を訪れてから、かれこれ三時間近く経過している。

未だにルドルフとの交渉は成立していない。

その理由は────


「──これは、二年前の誕生日に、お父さんがくれた熊のぬいぐるみで」

「きゃー!可愛らしい。パッチワークのクマのぬいぐるみ!?すごーい!こんなのどこに売っているの!?」

「ここらへんじゃ売ってるの見たことないし、値札とかそういうのもないから、多分、お父さんかお母さんお手製なんだと思う。そのころ、お父さん仕事以外でも忙しそうだったし、手に包帯巻いてたし」

「宝物、たくさんあるのね……でも手作りのパッチワークのクマを貰う訳にもいかないし、他にはあるかしら」


品定めが始まってからずっとこんな感じだからである。

ルドルフが持ってくる宝物は、全て大切な思い出が詰まっているだけでなく、ルドルフ自身が持っていることでその莫大な価値が担保されているものが多い。

それをいくら商品の対価とはいえ、受け取るのは忍びないし、価値は取引前と等価値ではないだろう。


「うーん、全部見せたとおり、他のも似たようなものだよ。全部、全部、大切な人からの贈り物。愛とか、信頼は俺の宝物」

「そう、なのね。どうしようかしら」


今まで紹介された宝物を見つめ、貰う訳にはねぇ、とぼやくノアに、凱は代替案を提示する。


「酒場に卸した酒みたいに、次に立ち寄る予定の街で有用そうな物とか、情報を貰えばいいんじゃないの?わざわざ、ルドルフの大切な宝物に固執する理由もないし」

「それは……そう、なんだけれど……そうも言ってられない理由が……」

「?……嫌がらせがしたいわけじゃないんでしょ?」

「もちろん、当たり前でしょ!」


痛くもない腹をまさぐられ、強く否定する。

そんな2人を尻目に、何か考え込んでいたルドルフは二人に向かって笑顔で尋ねる。


「絵、描くんだよね?実は前、とっておきの筆と絵具を買ったことがあるんだ。……結局、1回しか使わなかったんだけど……」

「……」

「そんなものがあるのね」

「あ、その、宝物に違いはないんだけど、特殊な事情があってもしかしたら使えないかもって…。悪意があって隠してたわけじゃないんだけど…こっちに都合のいいタイミングでごめんなさい」

「気にしていないわ。私たちのこと考えてくれた故の行動ですもの。絵の具……見せてもらっていいかしら」


チラリと凱の方を見て、ルドルフに向き直り、お願いをする。

そこに人のトラウマに踏み込むことへの躊躇いがあり、そこにはトラウマが再発しないようにという気遣いがあり、そこにはこのまま絵を描くことを嫌いなままでいて欲しくないという余計なお節介があり、そこにはどのような謗りも受け止める覚悟と勇気があった。

そのような腫物を触るような、変に身構えた態度をとるほうが、却って現状を悪化させるという事を知らないのだろうかと思う反面、少しだけ嬉しくもあった。


「これなんだけど」


二つの長方形の桐箱から出てきたのは、小瓶の中に詰まった12色の絵具と、平筆と丸筆が三本、扇型が一本の計七本の筆であった。

平筆は、フラット、フィルバート、アングルの三本で、丸筆は大が一つ、小が通常と長穂が一つづつであった。

それがおがくずの隙間から、その存在を凱にアピールしている。

手に取れと言っているかのように。

そう感じた心を馬鹿馬鹿しいと切り捨てて、筆と絵具の視線から逃れるようにルドルフの説明に耳を傾ける。


「この筆と絵具は、魔導物品マジックアイテムなんだ。12色の絵具は、色斑いろむらが出にくく、素材に浸透して、均一に広がって、30分くらいで完全に着色されるらしいんだ。そして一度定着してしまえば、300年以上経年劣化しないんだって。写真と違って味が出るから、お貴族様にいたく気に入られてて、そんな人たちを商売相手にしてる絵画絵師にとっては垂涎の的だったらしいよ。で、こっちの筆は思い出の中の風景とか、目の前の光景を描いてくれるらしいよ。でも、一つだけ難点があって、この筆に認められた人が、認められた絵具を使わないと絵が描けないどころか絵具すら筆先に付かないんだ。生産者に問い合わせようにも、先の帝国崩壊の余波で生産工場がもうなくなっちゃって。商品の返品もできないし、新しい筆も絵具ももう手に入らないんだ」

「かなり厄介な一品ね。私じゃ使いこなせなさそう。凱は……何か気になったこととかある?」


そう言っているノアは、凱の瞳にはどこか楽しそうに映った。

きっとからかっているのだろう。

あるいは、魔が差した悪戯か。

先ほどの腫物を触るような態度から、このような態度とはノアには凱がどう映っているのか。

それが少し、気になった。


「色斑が出ない代わりに、素材に染み込んで落ちにくい……グラデーションとか修正したい場合は、切り落とすしかない、か」

「そう、かも?実は一回使ったことがあるんだけれど、うまくいかなくて……俺は、筆のお眼鏡には叶わなかったから、よく知らないんだ」

「どうしてこれを購入しようと思ったのかしら。趣味とかでは無いのよね?」

「うん。絵なんて描いたことなかったんだけど、それでも写真よりも美しく残したいものがあったんだ……結局、ダメだったけど。せめて、今回の取引で記憶にだけは留めておきたいなって思って」


ちらりとルドルフは主人の邪魔をするという粗相をしないために行儀よく扉付近に立っているベルタのほうを見る。

サッと視線を戻したルドルフの視線と入れ違いになる形で、ノアと凱は大体の事情を二人は想像し、納得した。

ルドルフはそして、と続ける。


「記憶に焼き付けられるなら、誰か見えない気持ちの代わりににもらったものではないこれは、他の誰かに使ってもらいたい。二人の話を聞いてて、ノアさんの気遣いを受けて、確信したんだ。あなたの希望通りの品は、この絵具と筆しかない。これは、紛れもなく俺の大切な宝物思い出で、俺以外の誰かを最も幸せにできるものだと思う」


取引の条件はこれにて出揃った。

後は両者の合意を以って、【幸せ】の取引が始まる。

ルドルフはこれしかないと自信満々に商品を提示した。

後はノアがこれで良しと頷くだけだ。


「そうね。これ以上この取引に適した商品はないわね。けれど、取引する前に、商品の状態や性質を調べさせてもらってもいいかしら」

「うん。使えなかったら困るもんね」

「というわけで、凱。何か絵を描いてくれるかしら」

「僕?どうしていきなり────」

「絵、描いてみたいんでしょ?さっき顔にわよ」


筆と絵具を目にしたときであろう。

凱は呆気に取られて、嘘だろとでも言いたげに自身の顔を数回触る。

直ぐに心の奥底に閉じ込め、知らないふりをしたはずだが、さすが商人というべきか、よく見ている。

それはもう、怖いくらいに正確に言い当ててくるものだから悟りの生まれ変わりなんじゃないかなどと馬鹿げた妄想すら信じ込んでしまいそうだ。


「いきなり、絵を描けと言われても……」

「あら、


そう言ってノアが顎をしゃくった先にいたのは。


「お、俺?」

「……?」


仲睦まじい主従二人一組であった。

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