あいかわらず
篝遊離
あいかわらず
秋が去り冬の気配が近づく頃。山下シイナは誕生日ケーキを手に足取り軽くバイクから降りる。階段を上がり向かう先はアパート、宮田ミナが暮らす部屋。今日はミナの誕生日だ。
買ったのはミナの好きなチョコレートケーキ。部屋でケーキをテーブルに用意して、美味しそうに食べるミナの顔を想像して頬が緩む。さらに用意していたプレゼントを渡し、控えめに微笑んでお礼を言うミナの姿を脳裏に浮かべて、思わずシイナは手で口元を抑えていた。
シイナはミナのことが可愛くてしょうがない。一挙手一投足に可愛いと言いたくて仕方ないが、あまり言うとミナを困らせてしまうから黙っている。仕事中ふとミナのことを思い出すと真顔を保つのがつらいほど、ミナは可愛いのだった。
小学一年生の時に同じクラスだったミナとはもう十年以上の付き合いになる。出会った時からずっとシイナはミナに夢中で、登校する時も下校する時も休み時間もいつだって彼女にくっついていた。中学生になりお互い部活が忙しくなってもミナを待って一緒に帰ったし、高校生になって給食がなくなってからはお昼もいつも一緒に食べていた。
二人とも特に人見知りをする方ではなく、クラスメイトや部活の仲間ともうまくやっていた。互いに他の友達と行動することも多かったが、シイナが心から友達と呼べる存在はミナしかいなかった。家族を除けば、シイナにとって大切な人間と言える相手もミナしかいなかった。
シイナは小学生の頃からずっとミナに好きだと言い続け、小学生のうちはミナも好きだと言ってくれた。成長するにつれシイナの中で「好き」の意味合いが変わっても変わらずミナに愛を囁き続けたが、ミナは曖昧に笑って誤魔化すようになってきた。
それでもあきらめずにシイナは好きだと言い続け、とうとうミナが大学二年生の時思いを受け入れてもらえた。折れてくれるかたちで二人は友達という関係の先にいくことになった。はにかむ彼女の表情と、天にも昇る気持ちからはしゃぎすぎて学内の噴水にシイナが落ちた時の驚いた表情は今でも鮮明に思い出せる。
高校を卒業して就職したシイナと大学に進学したミナは生活リズムがなかなか合わない。それでもシイナはマメに連絡を取り、ミナの学業やアルバイトに支障がない日を聞いては社会人の財力で遊びに連れまわした。
ミナは自分にくっついてばかりなシイナを煙たがることなく、シイナもなるべく節度を守ってミナの隣にい続けた。ミナに出会ってからの十数年はシイナにとって控えめに言っても幸せな日々だった。ミナと出会ってから今日まで、彼女が手の届くところにいてくれて笑いかけてくれることがシイナにとっての幸せだった。
鼻歌を歌いながら階段を上がる。一歩ごとにふわふわした気持ちが募って空も飛べそうだった。合鍵でドアを開けて中に入り、靴を脱ぎながら声をかけるが返事はない。まだ帰ってないのだろうかと足元に目を向けると彼女の靴は置いてある。
「ただいまー。ミナ、ケーキ買ってきたよ」
その隣には見知らぬ大きな靴が置いてあった。もう夜も遅いが客でも来ているのだろうか、ミナを祝いにきた友人だろうか。そんなことを考えながらフローリングに上がったシイナの耳が何かを拾った。
女性の声だった。それも聞いたことのない声。苦しそうな、なのにどこか甘い声が微かに聞こえる。
「誰かいるの?」
シイナが声をかけても誰も答えない。しかし人間がいる気配は確かにあった。それも一人ではない。人間たちが寄り添っているような空気のうごめきを肌に感じる。ぞわりと肌があわたつ。扉を開けてはいけない。理性の外からそんな声がする。
ざわざわとする心を落ち着けるようにそっと歩みを進める。もう勝手知ったる家なのだから遠慮をする必要はないのだが、強盗や空き巣がいる可能性も考えて慎重に部屋へと向かう。
「……ミナ?」
ケーキなどの荷物をわきに置いて扉の隙間からそっと覗くと、敷かれた布団とそこに入る裸の男の背中が見えた。そして身体の陰に隠れてミナの姿も見える。見間違いであってほしいと願ったが、ミナも裸のようだった。
裸の人間が布団で一緒になっているなら、やることは一つだろう。その一つを理解するより先に、シイナは脇目も降らずに玄関へと駆け出していた。
扉を開け放して外へ飛び出す。勢いあまってつまずき外壁へとぶつかるが、すぐに立ち上がってまた走り出した。扉を閉めることなく、また後ろを振り返ることもなく、シイナは階段を駆け下りる。
駐輪場に停められているバイクへポケットから取り出したキーを差し込む。エンジンを始動し、さっきまで乗っていたからまだ暖かい車体へ跨り敷地を飛び出した。
スピードなど気にせずに思い切りスロットルを回したいのに、法律がそんなシイナの気持ちに待ったをかける。赤信号で停車するたび苛立ちが募る。今はただ走っていたかった。一人であることを忘れるために、自分を一人にしているミナのことを忘れるために。
何年も一緒にいるシイナだってまだミナの裸に触れたことはない。触ってみたいと思ってもミナに拒否されるのが嫌で、肩を叩いたりするだけでもいつもびくびくしてしまうしもちろんキスだってしたことない。でもあの男はミナの身体に触れていたし、きっとシイナの知らないような深いところにだって手を伸ばせるのだろう。
ずるい、ずるい、ずるい! フルフェイスのヘルメットの中で叫んでもエンジン音に紛れて誰にも聞こえない。ミナに彼氏ができたのは別にこれが初めてじゃない。中学の頃も高校の頃も恋人が何人かいた。シイナにミナの人間関係へ文句を言う権利なんてないから祝福をして、一人で帰る帰り道にどれだけさみしくても連絡をしたりしなかった。いずれの恋人も長続きせず「やっぱシイナの側が一番落ち着く」と言ってくれて、言われるたびに飽きもせず舞い上がったものだった。
何度目かの赤信号を待ちながら思い返す。シイナといながらミナは別の人間と懇意にしていた。それにまったくシイナは気付かなかった。これまでミナは恋人ができると真っ先にシイナへ報告してくれていたが、今回はそうしなかった。それだけうまくミナは隠していたということで、それだけミナはシイナに気を遣っていたということだろう。
シイナは徐々に他の人間と関係を結ばれていたことよりも、ミナに気を遣わせたことの悔しさから頭と身体が徐々に冷え始めていた。バイクの車体が放つ熱に負けないくらいの衝動は、走りながら浴びる風を前に萎え始めていた。悪いのはミナに何年もしつこく言い寄った自分で、ミナはシイナに優しくしてくれただけ。ミナは可愛いうえに優しい。
三十分ほど走って、喉の渇きを感じたシイナはコンビニへと入った。カウンター横で販売されているカップのホットコーヒーを片手に外へ出て、バイクにもたれぼんやりと夜空を見上げる。身体が暖まっていくと、じわりじわりと喉元へとせりあがってくるものがある。ミナとはもう一緒にいられないさみしさ、どうせならちゃんと言ってほしかったというさみしさ、両方が混ざり合って、コーヒーよりも苦かった。気をもんでいるミナを想像したらその可愛さで苦味を少し忘れられた、
シイナは社会人でミナは大学生だ。確かに会えない時間は増えていた。放っておいたツケだったのだろう、と思えるほどシイナは自分に自信がない。ミナは自分に付き合ってくれているだけ、という気持ちはずっとあった。ミナに受け入れてもらえて幸せいっぱいの日々の中で忘れていたそれが顔を覗かせ、空になった紙コップをくしゃりと握りしめる。
手先が冷え切っているのに身体の芯は熱い。置き忘れてきたケーキと鞄のことを思い出すが、鞄には大したものを入れてないし、その中に入っていたプレゼントやケーキは元々彼女にあげるためのものだ。財布と携帯端末は上着のポケットの中に収まっている。ミナの家にシイナは私物をおいていない。だからこのまま彼女の前から去るだけでいい。
「シイナ!」
愛おしい声を耳が拾った。その瞬間に顔を上げると愛しいミナがシイナのもとへ走ってきていた。
「ミナ……?」
「シイナ、私をバイクに乗せてくれる時いつもこの道走ってたから、休憩する時もいつもこのコンビニだし、ここかなって」
「ここミナの家からけっこう離れてるよね?」
「駅から走ってきたの」
膝に手を置き呼吸を整えるミナ。上気した顔が可愛らしくて見とれていたが、そもそも今自分がここにいる理由を思い出して身体の力が抜け、シイナは目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「……あのさ、ミナ。あの人は」
「誰かと浮気したらシイナ、私のこと嫌いになるかなぁって思ったの」
唐突な言葉にシイナはきょとんとする。顔を上げたミナは真っ直ぐシイナを見下ろしていた。
「シイナ、私のことすごく好きだよね」
「うん。ミナのことすっごく好きだよ」
「なんでなのかぜんっぜんわかんないの」
冷たい風が吹いた。コトリと首をかしげるその姿さえ可愛い。ミナの可愛いさで今何を話してるのか忘れそうになったシイナは頭を振って邪念を追い払う。
「わかんないんだ、ほんと全然。どうしてシイナが私のこと好いてくれてるのかわかんない。どうして一緒にいてくれるのかも、全然」
わからないと繰り返すミナがいったい何を言っているのか、シイナにはまるでわからなかった。口がパクパクと動き、うまく息が吸えない。
「……今からミナの好きなところ全部言ってあげようか」
「夜が明けちゃうでしょそれじゃ」
目じりを下げて笑うミナ。可愛い、と口から出そうになるのをシイナはぐっとこらえる。真面目な話をしてる時に「可愛い」は禁止と、もう何度もミナに怒られているから。
「わかんないって何、私がミナを好きって気持ちはずっと変わらないよ、何度も言ってきたじゃん。まだ足りなかった? 信じられない?」
「信じてるよ。ただわからないだけなの」
笑いながらそう言われてしまい、シイナはどうしていいのかわからない。こんなにもミナが好きなのに、ミナはなぜシイナがそう思うのかわからないという。「好きだから好き」ではダメなのだろうか。散々伝えてきたのにどうしてわからないのだろう。息を整えたミナが背筋を伸ばしたから、シイナも立ち上がる。背の高いシイナからはミナの可愛らしいつむじがよく見えた。
「シイナは、ずっと私のこと可愛いって言ってくれるよね。じゃあ私が可愛くなくなったら、シイナ私のこと好きじゃなくなるのかなぁって。それに私が可愛いってそもそも意味わかんないし……シイナが好いてくれてるの知ってて他の人と付き合ったりして、今日シイナが来るの知っててああいうことして、でもシイナ全然私を責めない」
「だって、私はミナのこと好きだし、何してたってミナは可愛いし」
「それがわかんないんだってば。なんで怒らないの、私を嫌いにならないの」
肩を掴まれ、駄々をこねるように言うミナにシイナは困り果ててしまった。ミナは可愛いのだ、シイナはミナが可愛くて仕方ないのだ。なぜなのか、だなんて深く考えたことはない。笑っていても、怒っていても泣いていても、体育の授業でドッジボールが顔面に当たって怪我した時も。どんな時だってミナは可愛いかった。そんなミナのことがシイナは大好きで、彼女が自分を好きになってくれなくたってその気持ちは変わらない。ミナを自分のもとにとどめておけるほど自分は人として魅力的ではない、そんな風に自信のないシイナでもそれだけは確信をもって言えた。
「うまく言えないけど、私がミナを嫌いになることなんかないって。不快なら今すぐミナの前から消えるよ、ミナが一言『嫌い』って言ってくれれば」
「私がシイナを嫌いになるわけない」
駐車場で再会してから一番大きな声だった。コンビニから出てきた客がじろりと一瞥して去っていった。
「ミナ? あのー」
「私はもらってばかりで、大好きなシイナになんにも返せないのにさ、怖いの。シイナが私を好きでいてくれるのが……」
混乱しきった頭ではミナが何を考えているのかもうわからなかった。ミナには他に好きな人がいるのではないのか、だからあんなことをしていたのではないか、黙ってたのはシイナに気を遣ってたからではないのか、傍にいつまでもいられたらうっとおしいのではないか。そんな考えがぐるぐると頭の中をめぐっていた。
「私語彙力ないんだよね、国語の成績悪かったし、だから好きって気持ちがミナに伝わらないのかなぁ」
今度はミナが困ったような顔をした。国立大学に通っているミナの方がずっと頭がいいのに、彼女も言いたいことをうまく言えないようだった。
「あのさ、私がうまく言えるまで、ミナがちゃんとわかるように言えるまで一緒にいてよ。ミナ、お願いだからもうあんなことしないで。私は何されたって絶対ミナを嫌いになんかならないもん」
ミナが目を丸くしてシイナを見つめた。理由や結果はともあれここにきてようやく自分がしでかしたことの重大さに気付いたように、申し訳なさそうに瞳が揺れていた。
「……そうだね。ごめんね。あんなことして」
そっとミナが寄り添い、身体を向けて腕を回してきた。小柄なミナが抱きついてくるとちょうど頭がシイナの胸元に収まる。上目遣いのミナに心臓が痛いほど跳ねて、負けじとシイナも思い切り抱きしめる。
「ほんっとに可愛いミナ、好き……」
「苦しいよシイナ……ねえ、今夜はうちに泊まってくれる?」
「うん。ミナの誕生日だから明日はお休みにしてあるんだよ。ケーキ食べよケーキ!」
常にバイクに取り付けてあるミナ用のヘルメットを渡し、後ろに乗るようシートを叩く。なんだかわからないがこれからも一緒にいられるのだとわかって安心した途端に、シイナのテンションはどんどん高まっていた。
「あの男の人にもケーキ食べてもらう? あ! ていうかあの人誰!?」
「……あれは私の弟。今回のことに協力してもらっただけ。もう帰ってもらったから」
「へ?」
わかりやすく間抜けな声に背後でミナが噴き出す気配がした。スタンドをおろしてエンジンをかけたシイナは首だけ回してミナを振り返る。フルフェイスのヘルメット越しに可愛い顔ミナの顔を見て、シイナもヘルメットの中で頬を緩ませる。
「さっきのね。パソコンから大音量でAVを流して、弟には上半身裸になってもらって私は下着姿で布団に入ってただけ。浮気現場っぽい場面を作ったらシイナなら騙されるだろうなって思ったの。ごめん。ほんとに騙されるとは思ってなかったから」
「いやだって、弟くんもかなり雰囲気変わってたし……」
「『強くなりたいから』って筋トレ始めたんだって」
ミナの弟ともシイナはそれなりの付き合いだ。家に遊びに行くといつも姉にくっついていたし、外に行く時にもついて行きたがっていた。シイナのことがあまり好きじゃないらしくいつもうっとおしそうな目を向けられていた。
今は確か高校生くらいのはずなのに、格闘家か何かと見間違うほどかなり立派な体格になっている。浮気現場を仕立てるなんて無茶苦茶なお願いを聞くあたり、姉のことが大好きなのは今も変わらないようだった。
「……どうりで聞いたことない声だと思った。そういう時だからあんな声なのかなぁって」
「そういう時って?」
ミナの意地悪な質問に答えないでいると、耳元で「むっつりだね」とミナに囁かれる。危うくスロットルを全開にしそうになるのをどうにかこらえ、安全運転でシイナはバイクをコンビニの駐車場から道路に向け走らせる。
「いつか、シイナとそういうことできるかな」
バイクのエンジンに紛れてそんなくぐもった声が聞こえた気がした。身体を張ってシイナの気持ちを試し、「シイナを嫌いになるわけない」とまで言ってのけたミナ。ミナの隣にいていいのか、全然自信のなかったシイナには青天の霹靂としか言えないような出来事。でもこれらは確かに起きたことで、背中に感じるミナの体温が何よりの証拠。
気持ちを試されたことへの怒りやシイナの思いをどこか恐れている様子のミナへの悲しみなどはもうない。ミナが近くにいてくれさえすればそれだけでよかった。「どうして好きでいてくれるのか」という観点でミナがシイナのことをたくさん考えてくれているということだけで、長年の思いが報われる。
「幸せだなぁ……」
ヘルメットの中でシイナの惚けた声が反響する。聴こえていたのかいないのか、ミナが背中にぎゅっと抱きついてくる。道路が空いていたからシイナはスピードを上げた。夜の街に響くエンジン音が、シイナの歓喜を代弁していた。
あいかわらず 篝遊離 @alekseevich
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