ある晴れた田舎の駅のホームで

星名柚花@書籍発売中

ある晴れた田舎の駅のホームで

 パンプスの踵を鳴らして全力で走ったけれど間に合わず、目の前で電車は行ってしまった。

 私は未練たらしく遠ざかる電車を見つめた。

 四両編成の列車は随分と短く感じる。


 都会からUターンしてきたばかりの身としては、あまりの違いに戸惑ってしまう。

 列車の短さにも、時刻表に書かれた文字の少なさにも。


 大都会ではすぐ次の列車が来るのが当たり前で、時刻表なんて気にする必要もなかった。

 だからうっかり、失敗してしまった。

 さっきの電車を逃したら丸一時間、電車は来ない。

 知っていたのに、いつの間にか都会に馴染みすぎていたようだ。


「あー……一時間待ちかー……」

 雲が浮かんだ青空を見上げてぼやく。

 季節は春。線路沿いに咲く菜の花の傍でモンシロチョウが飛んでいた。

 どこからか鳥の鳴き声までする。絵に描いたようなのどかな田舎の風景。

 ここは呆れるほど平和だ。


 都会と違って、妙に時間がゆっくり流れているような気がする。


 ひとつ息を吐き、横を見れば、錆びたベンチに一人の女性が座っていた。

 品の良いベージュのコートを着て、眼鏡をかけた細身の女性。


 年齢は二十五歳くらいか。二十六、七?

 多分、私とそんなに変わらないはず。


 ミステリアスな彼女もまた電車に乗りそびれたのだと思うと親近感が沸いた。

 だからってどうすることもないけれど。


 彼女が右端に座っているので、私は左端のベンチに座った。

 特にすることもなくスマホを取り上げ、漫画アプリを開いて読み始める。


 春の風はまだ冷たい。

 かといって田舎の駅に待合室なんて気の利いたものはない。


 風を浴びながらいくつかの漫画を読み終え、ブルーライトを浴び続けた目を労わるべく山の緑を眺めていると、声が聞こえた。


「いい天気ですね」


「……………はい」

 数秒返事が遅れたのは、声を掛けられるとは思ってもみなかったからだ。

 驚きつつ顔を向ければ、女性は微笑んでいた。

 照れるというより、気まずさをごまかしているように見える。

 もちろん緊張しているようにも見えた。


「そうですね。いい天気です。電車、行っちゃいましたね」

「はい。といっても、私の場合はわざと見逃したんですけど。モンシロチョウが飛んでるのを見て、焦らなくてもいいかって。急ぐ用事があるわけでもないし」

「今日はお休みなんですか?」

「……そのようなものです」

 彼女の返答には少しの間があった。


 ばつが悪くなった。

 きっと彼女は働いていない。

 最近仕事を辞めたのか、これまで働いたことがないのか。真相は闇の中。

 しょせん通りすがりの間柄。追及など野暮だ。


「私は就職活動中なんです」

 重苦しい沈黙を防ぐため、私は急いで口を開いた。


「東京で販売スタッフをしていたんですが、……色々あって。人間不信になりそうだったので。親の勧めるまま帰ってきてしまいました。怪物とか幽霊とか、この世に怖いものはいっぱいあるかもしれないけど、結局のところ一番怖いのは人間だと思いましたねー」

 頭を掻きながら、へらりと笑う。

 けれど。


「同感です」

 女性は真顔で言った。

 彼女のほうがよほど酷い人生を送ってきたらしいと判断して、私は無理に浮かべていた笑みを消した。

 

「もちろん楽しいことも、嬉しいこともあったんですよ。あったんですけど……プラスの思い出よりもマイナスの思い出の比率のほうが大きくなって。どんどん重くなって、どうしようもなくなって。潰される前に逃げてきました」

「正しい判断だと思います」

 女性は頷いた。

 動きに追随して、綺麗に整えられた黒髪が揺れる。


「潰されてしまったら終わりですから。あなたは何も間違ってません。頑張れ、という言葉は正しく使えば激励になりますが、時として刃物にもなります。頑張っている人間にもっと頑張れというのはもはや脅迫ですよ。限界まで膨らんだ風船に息を吹き込んだら破裂してしまうでしょう。それと同じです。心が壊れてしまいます」


 女性は優しく、諭すような口調で語った後、

「お疲れさまでした」

 私に向かって、小さく頭を下げた。


 どういう言葉を返せばいいのかわからず、私は困った。

 友達なら「大げさ」と笑って茶化すこともできるけれど、彼女はほんの数分前に出会ったばかりの他人だ。

 そして茶化せる雰囲気でもない。

 彼女は至って真面目なのだから。


「……ありがとうございます」

 頭を下げ返す。


「いいえ」

 そこでやっと女性は笑い、つられるように私の口角も上がった。


「世知辛い世の中ですよね」

「ええ、本当に。生きるのって大変ですよね」

 他愛もない話をした。

 好きな本、好きな音楽、最近見た映画。

 どんな話をしようとも、彼女の名前は聞かなかった。彼女も私の名前を聞こうとはしなかった。


 電車が来て、一緒に乗り込むことになっても、近くに座ろうとは思わなかった。

 話すべきことは話した。これ以上は余計だ。

 きっと同じ思いだったのだろう、最後に彼女は私に改めて向き直り、微笑んだ。


「就職活動、頑張ってください。とはいえ、無理しない程度に。ゆっくり。マイペースで」

 彼女の目は真剣だ。

 なんとか上手に励まそうと苦心しているのがわかり、やっぱり私は笑ってしまった。嬉しくて。――有難くて。


「はい、マイペースに頑張ります。どうかお元気で」

「ありがとうございます。あなたもお元気で」


 私と彼女は別の車両に乗った。

 その後、二度と会うことはなかった。



《END.》

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