車内で
瀬川
車内で
ラジオから流れる声と、走る音しか聞こえないぐらい静かだった車内で、運転をしていた男が口を開いた。
「僕はね、若かった頃に、死にたいと思っていたことがあるんだ」
彼の言葉に対して、助手席で目を閉じていた女性は、うっすらと目を開けた。
「そう」
素っ気ない言葉に、男性は苦笑するが、話は続けるようだ。
「特にこれといって不幸だったわけではないんだ。家族との仲も良かったし、恋人だっていた。その時は希望する会社に就職が決まっていたから、他人から見れば恵まれている人生を送っていたと思う」
女性は何も返さず、窓の外を眺めた。
そして、流れるように視界から消えていく、木の数を数えて、十にも届かなかったところで、数えるのをやめる。
「それでもね、すごく死にたいと思ったんだ。自分が生きている価値、というのが見いだせなくて。今思うと、若かったとしかいいようがなかったんだけど」
男性は前を見たまま、ラジオを消す。
さらに静かになった車内で、雨が降ってきたのか、屋根に雫が当たる音が聞こえてきた。
「誰かに相談すれば、止められるというのは分かっていた。だから誰にも言わずに、一人で迷惑をかけずに死のうと思ったんだ。自殺した時点で、誰かには迷惑をかけるということを、その時の僕は全く想像できなかった」
その頃の自分を恥じるように、頬を指でかく。
それを横目に、女性は大きなあくびをした。
まるで猫のような仕草を、男性は咎めることはしなかった。
「死のうと思った僕は、買ったばかりの車に乗って、今みたいに走っていたんだ。もちろん一人でだよ。誰かを巻き込むなんて、そんなことは出来なかったからね。でも、死にたい人と一緒に死ぬということに、憧れていないわけではなかったんだよ。でも、その時は、ネットがそこまで普及をしている時代ではなかったから、誰も仲間がいなかった」
雨は段々と激しさを増し、いつしかフロントガラスに叩きつけるまでになっていた。
ワイパーを速く動かしながら、男性は少しだけ苛立ちを見せる。
その手は懐に伸びたが、ポケットの中に煙草が無いのを思い出すと、舌打ちをした。
「夜の道路を一人で運転していると、深夜という時間だったせいで、どんな車ともすれ違わなかった。それがよりいっそう、孤独を誘ってね。僕はこの世界に一人きりで、死のうとするのを後押しされているように思った」
「……それなら、なんで死ななかったのかしら?」
話を聞いているのか微妙な反応をしていた女性が、ここでようやく質門をした。
しかしその目は、興味が無いかのように、濁っている。
「確かにそうだね。その時に死んでいたら、今僕はここにいるはずがない」
反応が返ってきて嬉しかった男性は、苛立ちを吹き飛ばし、明るい声になった。
「僕はね、死ぬのをやめて車をUターンさせたんだよ」
「怖気ついたの?」
「そういうわけじゃない。その時、ちょうど看板が見えたんだ。よくある、自殺を止めるための標語が書かれているものでね。それを見た時に、僕は馬鹿らしくなったんだよ。今ここで死んだとしても、その他大勢と同じ括りにされてしまうってね。だから死ぬのをやめた」
「馬鹿ね」
「僕もそう思うよ」
男性は笑った。
女性も笑った。
「今でも思うよ。なんであの時、死ななかったのかってさ」
雨は未だにやまない。
雫が窓をつたい流れていき、どこかに消えていく。
それを眺めながら、女性は問いかけた。
「……Uターンする?」
問いに対する男性の答えは、考えるまでもなく決まっていた。
「まさか」
車は走り続ける。
目的を達成するまで、止まることは無い。
車内で 瀬川 @segawa08
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