第23話 さだめを変えるために

 闇に包み込まれたような塗籠が建つ。その前に立った途端、晴の目が熱さを増した。ここに優月がいるのだと、否応なしにわかる。

「……優月」

「…………はる?」

 がたり、と中で音がした。勢いあまって何かにぶつかったのだろうか。大丈夫かと晴が問うより早く、優月の声が塗籠の扉越しに近く聞こえた。

「晴、晴、晴ッ……。来て、くれたんだ」

「当たり前だ。……一緒に帰るって約束しただろ」

 晴は扉に手を押し当て、囁くように笑ってやった。しかし中からは、沈んだ声が響く。

「……うん。でも」

「でも?」

「――陽の巫女は、この世界で神の妻となる運命なのですよ」

「ッ!」

 晴とあかがねが振り返ると、灯りを手にした珠樹が立っていた。気配を消して、近付いていたらしい。彼は「清が誰かと話している声を聞いて来てみれば」と笑った。

「こんなところに何用ですか? 真夜中、子どもは寝る時間ですよ」

「……優月を返してもらいに来た」

 晴は珠樹を睨みつける。月明かりの下でもわかるほど、右目の光は明るい。炎のように、闘気のように立ち上る。それを認め、珠樹は瞠目した。

「そうか、やはり……」

「聞いているのか? 優月を返せ」

「ふふ。やはり面白い。……その戸を開けることが出来れば、返さないこともありませんよ」

「は?」

 何を言っているのか、と晴が眉間のしわを深くした時、背後であかがねの声が上がった。ガタガタと何度も戸を押し引きする音がする。

「だめだ、晴。開かない!」

「鍵でもかかってるのか?」

「かぎ? なんのことでしょう。……ただ、神威を受けた札を使い、強固な結界を張っているだけですよ」

 珠樹の言う通り、戸には奇妙な文字の書かれた札が貼られている。これを破くか剥がすかしなければ、戸は永遠に開かない。ちなみに、と珠樹は笑った。

「その戸は、札を貼った私しか開けることは出来ません。……神威を破るという、神話の剣があれば別ですがね」

「そんなっ……。どうする、晴」

「くそっ……」

 バンッと塗籠の戸を拳で殴る。しかし木製の扉はぴくりとも動かない。

 晴の耳に、優月の小さな声が届いた。だから、と呟く震える声。

「わたしは、もう約束守れない……ッ。ごめんなさい。ごめっ」

「ごめんじゃない。必ず助ける。……そのために、ここに来たんだから」

 泣き出した子どもをあやすような口調で、しかし強い意志を込めて晴は優月の言葉を遮った。だからといって、解決策があるわけではない。考えれば考えるほど、迷路に入り込むような感覚だ。

 悔しさに歯噛みする晴を楽しそうに見やり、珠樹は懐を探った。

「……では、きみにより深い絶望を味わってもらおうかな」

 何かを地面に落とす。見れば、紐が一本になった桜の簪。それが薄汚れて横たわっている。

「―――ッ」

「巫女様が後生大事に持っておられたのでね、取り上げさせてもらいました。この世への未練は、妨げでしかない。……一部は大納言様に渡しましたから、きみはそれを見たんだろう?」

「……見たさ。ここにある」

 細い紐に二つの珠。手に持ったそれを珠樹に見せつけた。

 晴は、優月が簪を大切に持っていたことを心から嬉しく思う一方で、珠樹の仕打ちにどうしようもない怒りを持て余した。

 地面に落ちた簪を拾い、優しく握り締める。優月の心を抱き締めるように。

「……約束した。優月と。そして、行斗と。おれは、さだめを変えるためにここにいる」

「……いくと、ですか」

 珠樹がそう呟いたが、晴は完全に無視した。

「おれは、もう諦めない。……大切なものは、取り戻す」

 過去も、今も。

「晴っ」

 あかがねが叫ぶ。何故か、と思う間もなく、晴の手の中で簪が薄桃色に輝きだした。それに呼応するかのように、右目の輝きも強まる。

「うっ……」

 あまりの眩しさに目を閉じそうになりながらも、晴はその二つの輝きが空中で交わるのを見た。その光は一つになると、晴の腰にあった太刀に吸い込まれる。

 呼ばれるように太刀を抜くと、夢で見た赤い刀身の太刀が現れた。見る間に柄の形もつばの形も変わっていく。

 鍔は燃える炎のように立ち昇り、柄に巻かれた紐は黒と深紅に変色する。

 それらの変化が終わった時、太刀は、その姿を変貌させていた。

「何だ、これ。行斗のつるぎみたいだ……」

「……『桜火さくらび』」

「え?」

 晴は声の主を振り返った。それは珠樹ではなく、苦笑い気味のあかがねだ。

「さくらびのよ、って何だ?」

「その剣の贈り名だ。神話の時代、神と渡り合った男が持っていたと言われるもの。……前に、おれと同じ根なしの商人が教えてくれた。あいつ、細々と特別な髪飾りを作っていると言っていたけど、何をどうしたらこんな簪が作れたんだ?」

 その問いに答えるべき男は、ここにはいない。

 晴が手元を見ると、桜の簪は変わらぬ姿でそこにある。変わらぬ美しさだ。あかがねが言うように、この簪から何かが出たというわけではないだろう。これはきっかけに過ぎない。

 晴は呆然とする珠樹をしり目に、塗籠の前に立った。

「優月」

「……なに?」

「少し、離れてろ」

 優月が戸から十分離れられる間を置き、晴は短い気合と共に剣を振り下ろした。

「はっ」

 神威の札が破れ、塗籠の戸が音を立てて倒れた。その奥で、目を真っ赤にした優月が座り込んでいる。晴は剣を柄に収めて彼女に近付いた。

「優月」

 手を差し伸べ、晴は安堵の笑みを浮かべた。その表情に、優月は一筋の涙を流す。

「帰るぞ、優月」

「うん、晴…………きゃっ!?」

 腰が抜けた優月を抱き上げ、晴はくるりと珠樹を振り返った。

「では、返してもらいます」

「いいでしょう。良きものを見せていただきましたし、今は巫女様を奪い返されることにします」

 珠樹は驚きを収め、いつものにこやかな笑みを浮かべている。しかしすぐに「ですが」と前置きをした。

「巫女様は、祭りに現れますよ。これは、神の選択なのですから」

「……だとしても、おれが再び手を取ります。必ず」

「楽しみにしておきましょう」

 二人の視線は一瞬交差し、すぐに離れた。珠樹は踵を返し、邸に戻って行った。

「……帰ろう、あかがね」

「そうだな。……獅子を呼んでくるよ」

 獅子が降り立つ場所が必要だから、とあかがねは二人から離れた場所で指笛を吹いた。

「……あの、晴」

「?」

「……そろそろ自分で立てるから、下ろしてくれない、かな?」

「だめ」

 真っ赤な顔の優月の頼みを、晴は瞬時に却下した。

「これからもう一回腰抜かすから。その予防線」

「え? ……え?」

 近付く黒い影を見て、優月は濁音をつけた「え」を口にした。それを見て、晴とあかがねが笑ったのは言うまでもない。


「お帰りなさい、優月」

「ほ……本当に心配したのよ!?」

「無事でよかった」

「よかったなあ、晴」

「あかがねもお疲れ様だったな」

 中宮、照、大君、正治、そして影頼が順に三人を労った。獅子は宮に着いた後、自分のねぐらに戻った。

 照に抱きつかれ、優月はびっくりしつつもそれを笑顔で受け入れた。

「皆さん、ご心配おかけしました」

 場所は清涼殿の中でも大君の自室として使われている一室だ。そこに皆で集まり、酒ではなく白湯を飲みながら優月の無事を喜び合っている。

 こんなこと、今までの大君は絶対にされなかっただろうな。とは正治の言だ。

 公平を期するため、後宮の妃たち以外には特別に目をかける存在を作ってはならない。それが表の教えだという。しかし現実には寵臣が幅を利かせ、その他の貴族が追いやられる。大君も人間なのだから、気の合う合わないはあるのだ、といつか大君は笑っていた。「それでも、わたしは出来る限り公平でありたい」そう口にしながら。

 ささやかな席で、優月と晴、あかがねは、宮司の邸で何があったのかを詳細に話した。剣のくだりで、大君に求められた晴は鞘から抜いた。しかし、

「……普通の太刀、だな」

「はい。気が付くと、桜火の夜の姿ではなくなっていました」

 それに気付いたのは、清涼殿に上がる直前だ。太刀の変貌は確かにあった、と優月とあかがねによって証言があり、そこにいた誰もが信じた。

 桜の簪も優月の手に戻り、ちぎれた紐は再び本体に結び付けられた。優月はそれを、大切に袋に入れて持っている。

「……多分、太刀の変化は簪の力だけじゃない」

「そうなの?」

 宴がお開きになり、正治と影頼は邸に戻り、照も自分の房に戻って行った。中宮は今夜、清涼殿で大君と過ごすという。あかがねもいつの間にかいなくなった。

 晴と優月は誰もいない真夜中の庭を眺めながら、語らっていた。眠くなるまで。

「確かに簪はきっかけではあったけど。……優月がいたから、起きたんだと思う」

「……そう、だと嬉しいな。わたしが陽の巫女で、壱花はわたしの共有者なんだもんね」

「だと思う。おれも、今回のことでようやくわかった。おれは行斗の共有者で、神と唯一対峙した刀士らしい」

 思いもよらなかった。そう呟いて、晴は笑った。

「だからこそ、おれらであいつらの願いを叶えてやりたいよな」

「うん……。さだめを変えるために、わたしたちはいるんだから」

 晴と優月は笑い合い、肩を寄せ合った。

 二人を見下ろす夜空は、日の出の時を迎えんとしている。優しく温かな夜風は、柔らかく二人の髪を揺らした。

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