第9話 ……嘘だろ?

 シャワーから弾き出される心地好い温度の湯に、全身にまとわりついていた鬱陶しい砂粒や汗が、一気に洗い流されていく。


 仕事終わりの至福!

 しかも、明日は休みだ。俄然、テンション上がっちまう。


 シャワーの湯をいったん止めて、シャンプーを泡立てる。汚れが酷いから、なかなか泡が出ない。シャンプーを更にワンプッシュ足して、根気を入れてひたすらゴシゴシ。

 ようやく、申し訳程度の泡が出た。


 俺ん家に、シャワーや風呂なんて高級なもんはない。だからその日の汚れは全部、仕事場で落として帰る。

 濡らしたタオルを石鹸で目一杯泡立てて、全身くまなく擦る。


 たまに運び屋のオッサンが大衆浴場に連れてってくれて風呂に浸かる事もあるけど、大概はこうしてシャワーのみで済ます。


「ソモルゥ~、おつかれ!」 


 湯で泡を流していると、軽く仕切られた隣のシャワー室からオリンクの声がした。


「おう、おつかれ」


 頭から湯を受け、眼を閉じたまま応える。

 隣からも、シャワーの湯が弾く音が聞こえてくる。


 シャワーを止めて、俺は掛けてあった乾いたタオルでワシワシと頭を擦った。


「なあソモル、おいら明後日さぁ、休み貰うから」


 シャンプーで、どんだけだよ! ってくらい盛大な泡を立てながら、オリンクが云った。


「休みぃ? 珍しいな、何か用でもあんのか?」


 明日は休みだから、連休って事になる。

 オリンクは、俺が知る中で最強の健康優良野郎だ。今までずっと、欠勤知らず。こいつが体調不良とか、この世の終わりくらいあり得ない。


「ん~、ちょっとな、家に帰んなきゃなんない用事があってさ」


 何処までが泡で、何処からがオリンクの頭なのか判断がつかねぇ有り様になりながら、オリンクが云う。


「ふーん」


 俺はタオルで全身の水気を拭き取りながら応える。

 そうだ。こいつには、帰る家があるんだよな。 


 俺、オリンク自身について、あんま詳しく訊いた事がない。いくら親しくしてても、そういう詮索すんのは、あんま好きじゃない。オリンクも、俺の事しつこく詮索とかしてこねぇから、すげぇ助かる。


「じゃあな、お先」


 俺は手早くタオルを腰に巻き付けると、泡まみれのオリンクを残してシャワー室を出た。


 洗濯済みの服に着替えた俺は、本日最後の荷物を台車に乗せる。

 配達先は、酒場『ファザリオン』。

 家への帰り道のこの酒場に荷物を届けて、そのままここで夕飯にありつく。それが、俺のお決まりのパターン。

 オープン前の掃除とか手伝っちまえば、マスターが無料ただで夕飯作ってくれる。台車は次の仕事がある朝、そのまま回収してくればいい。



「おつかれで~す!」


「おうソモル、休み明けになっ!」


 親方や運び屋のオッサンたちに挨拶して、俺は夕暮れの街に台車を押して繰り出した。


 夕方の街は賑やかだ。

 商店ばっか連なってるから、帰り掛けに買い物してく人たちが多い。ラストスパートの値引き宣言があちこちから飛び交う。

 そんな人たちの間を、台車で軽快に滑り抜ける。


 ファザリオンは、裏路地の奥にあるひっそりとした小さな酒場だ。そんな場所にありながら、そこそこ常連客も多い。

 その理由は多分、店の居心地の良さと料理の旨さだろうと思う。

 マスターはすげぇ無口で、余計な事は一切喋らない。ほっといてほしい奴には、うってつけ。しかも、飯の旨さはピカイチ!

 たった一人で店切り盛りしてんだから、本当すげぇと思う。


 そう、そして。

 俺とラオンは、一年半前このファザリオンで出会った……。


「マスター! 配達持ってきたよ~!」


 少したてつけの悪い店の扉を開け、声をかける。

 マスターはいつものように、カウンターで昨夜残した洗い物を片付けていた。最近ちょっとシワが増えたマスターの目元が、チラリと動く。

 俺は台車から荷物を降ろすと、いつもの場所に置いた。



「掃除、俺がやるからさ。今日も飯よろしく!」


 皿をスポンジで擦りながら、マスターは軽く頷いた。


 とりあえず、壁際に放置された二袋のゴミを掴むと、裏口から外に出す。少し夜の冷たさを孕んだ風が、すっかり乾いた俺の髪を後ろから吹き上げてくる。


 マーズの夕暮れの空は、青い。見上げた空は、濃厚な青に染まっていた。

 もうすぐ、星が見え始める。


 不意に、ラオンと見上げた星空を思い出した。


 一年半前だけど、酷く遠い時間。

 俺たちくらいの年頃は、一年だってすげぇ長い。大人たちの一年とは、わけが違う。

 子供から、めまぐるしく成長してく時間だから。


 出会ったあの頃は、アイツも俺も、完璧に子供だった。

 けど、今は違う。


 俺は、子供とくくり切れる歳じゃない。

 ほんの微妙に、『大人』が交じり始めてる。体と同じように、心も成長してるんだ。


 その明かしに、俺は恋を知った。

 アイツへの、恋心……。


 恋って、甘いだけじゃない。すげぇ……苦しいんだな。

 そして、一方通行の恋は、救いすらねぇ……。


 チキショー、会いてぇ……。

 会って、ラオンに触れてみたい。


 ……いやらしい意味じゃなくて。まあ、それも全くないわけじゃねぇけど……。


 ほんのちょっこっとでもいい。触れて、そこに居るんだって実感したい。

 確かに、ラオンが俺の傍に居るんだって……。


 くそっ……、どうすりゃいいんだ……? 止まんねえ……。



 ぐるぐるしている俺の後ろで、裏口の扉が開く音がした。

 振り返った視線の先に、ほうきとちりとりを差し出すマスターの姿があった。


 はいはい。掃除しますよ。

 サボってて、悪かったですよっ!


 俺が箒とちりとりを受け取ると、マスターは小さく頷いて店の中に帰っていった。


         ♡


 一通り掃除や準備を終えると、すでにカウンター席にはマスターお手製の俺の夕飯が用事されていた。メニューは、俺の大好物のオムライス!


 うわ~! ラッキー!


 マスターの作るオムライスは、肉や具がゴロゴロ入ってるから嬉しい。

 マスターは黙ったまま、オムライスの皿の隣に並々に注がれたミルクのコップを置いてくれた。

 夕飯時にミルクが、俺の定番!


 いっただきま~す!


 ふわっと柔らかい卵の中に、スプーンを差し込む。この、絶妙なトロふわがたまらねぇ!

 ケチャップの酸味が効いたご飯粒と卵が、口の中で溶けていく。


 ん~っ! うめ~っ! やっぱマスターのオムライス最高っ!

 成長期の俺の胃袋に染み渡るぅ~!


 夢中でオムライスをパクつきながら、俺はなんとなく思っていた。ラオンと会った日のメニューも、確かオムライスだったなぁ……。


 マスターの絶品オムライスは、あっという間に俺の腹の中に全ておさまった。

 食後のミルクで、ほっと一息。ふはーっ! 旨かったぁ!

 ちょっと胃袋に余裕があるような気もするけど、八分目くらいがちょうどいいらしいし。まっ、いっか!


 店もいつの間に開店したらしく、客もちらほら入り始めていた。


「よーし! 今夜は負けねぇからな!」


 後ろの席では、オッサンたちが酒呑みながらカードゲームを始めていた。このオッサン三人組は、ほぼ毎晩カードゲームに熱を上げている。

 だいたいこの意気込んでるヒゲのオッサンが、負けまくってカモみたいに吊し上げられてんだ。いい加減、懲りりゃあいいのにさ。全く。


 今居る客は、全員常連ばっかだった。

 店の隅っこでいつもちびちび一人で酒呑む、図体のでかいオッサンとか。明らかに、詮索しちゃいけねえ関係っぽい若い姉ちゃんとサングラスのオッサンとか。そして、その逆パターン。ダンゴみたいな体の化粧濃いおばさんと、ロン毛の若い兄ちゃん。こちらも、あんま詮索しちゃいけねえ感じ。

 皆、良く見かける顔ばかり。


 俺はミルクをちびちびと口に含みながら、店内観察をしていた。


 ラオン。

 アイツと出会ったのも、こんな時間帯だったよな。


 あの日も、やっぱり俺が食後のミルク呑みながら店ん中見渡してた時、ラオンの事見つけた。ラオンみたいなガキんちょが、こんな店に一人で居るのは不自然だった。


 まだアイツは、あん時11歳。

 すんげぇ、チビッちゃくて。


 俺は眼を瞑って、そん時の光景をほんのりと思い出した。


 真っ赤な髪をひとつに束ねて、ちょっとダボッとした服着て、そして大きなマントを巻き付けてた。カウンター席に一人で座って、あろう事かワインなんて呑んでやがった。


 そんなアイツに、俺は声をかけた。

 いきなり声をかけられて、アイツはきょとんとして俺を見た。大きな綺麗な翡翠の色をした眼で、真っ直ぐに……。


 正直、初めてその顔を真っ正直から見た時、可愛いなあ、と思っちまった。

 まだ特別な感情なんて、これっぽちもなかったけど。


 俺は、そっと瞼を上げた。

 あん時みたいに、このカウンターの席の隣に、アイツが居たらいいのにな……。


 俺は、バカみたいにほんのちっさな望みを抱きながら、僅かに視線を動かした。



 何だあ、俺、重症だな。恋患いの末期症状。とうとう、幻覚まで……。




 一瞬、思考がショートした。


 俺という回線が、全部遮断された感じで……。




 ……なっなっなっなっ………………嘘だろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?




 俺の回線が、再びきちんと繋がって、正常な思考が回復するまで、数秒を要した。


 俺の視線の先には、この一年半幾度となく想い描いた、沸騰しちまいそうなくらい可愛いラオンの笑顔があった。




                    to be continue


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