お風呂

瀞石桃子

第1話

すべては崩壊してしまった。

崩壊、なんて生易しいものじゃない。

ことごとく、消滅しちゃった。突風が吹いて、砂山がかき消されるような、さびしくってひどすぎる暴力、そういうものだった。

あの日、あの言葉が銃口から放たれた瞬間、死ぬ、と思った。

致死性の、急所を外さない、冷たく恐ろしい弾丸だった。即死だったの。だから、もう、わたし何も言えなくなって、うなずくことしかできなかった。

そういうのってはじめてのことだった。愛の柱が根元のほうからぼきり、と折れてしまったのだ。うずたかく積み重ねてきた、ねんごろな乙女のまごころは、いつの日からか右にほつれて左にもつれて、抜き差しならなくなり、こうして最後には糸くずのように容易く捨てられる。

どうしてわたしの人生は、かくもむごいのか。わたしの砂時計はいびつな形をしているのではないのか。

しかし、もう知りません。あの人は帰ってきません。わたしを置いて、遠くに行っちゃいました。

いつも、後ろからあの人の影を踏んで、てくてく歩いているとき、何気なく得意な気持ちになりました。温かいスープのようなものが胸の中にわき起こって、どうしてかしら、心地よくなるのでした。

ささやかな、楽しみ。

甘ったるさが、水飴のようにずっと間延びしたような、あの感覚・日々。誰彼に構わず、怒らずに諭して微笑んでしまいたくなる、寛容さ。

平和ボケ、と言うのかしら。わたしったら、いい気味。あのときはいい気味だった。

それに比べて今のありさまの、なんとみすぼらしいこと。鏡で見たわけじゃないのだけど、なんとなくわかるわ。でもほんとうは見てみたい気もする。見たら、びっくりしちゃうと思う。

目の前には得たいのしれない醜悪すさまじいもののけの姿がある。色は褐色で、毛むくじゃらの腕をしていて、原始的なするどく尖ったからだをしている。月の美しさも、萌ゆる自然の神秘さも広い海の青さも知らない。

人に恋をするための情熱の皮ふは、かたくざらざらしていてまともではないし、口づけをするためのくちびるも薄皮がはがれて痛々しい。

けれども、さしものもののけですら自分の姿を確かめないうちは、普通の人間でいられるわ。

そうよ、自分を知ろうとするなんて、冷酷な好奇心だわ。まして他人(の言動)を通して、自分の本性を暴きたいなんて、いけません。

反省、反省。もう一回、反省。


わたしはもうちょっと大人になろう。となりの家のふみちゃんは、もう旦那さんがいる。半年ほど前に、出し抜けにすっぱりと結婚をした。みんな驚いて騒ぎまくった。そんなこともあったけれど、相手の人は、たぶんいい人だ。ふみちゃんは人を見る目がある。

わたしは、その目が羨ましかった。

そうすればこんなかなしい思いで、いつまでもいつまでもぐうたらとした時間を過ごさずにすんだのに。

この、でくのぼうよ。

気づくと鼻をかむためのちり紙がなくなっていた。鼻の奥がすんすんする。泣きすぎちゃったのか、鼻の奥はしょっぱい涙の味がする。鼻なのに味がわかる、最初は不思議に思ったけれど、よく考えると鼻と口はつながっているんだから当たり前だった。

くしゃくしゃのちり紙をゴミ箱に放り捨ててからカレンダーを見た。

5月のページ。かきつばたの絵があった。

それからゴールデンウィーク。この安っぽい言葉には親しみがわかない。日本人は矢鱈になんにでも名前やら符牒やらをつけたがるくせがあります。ふだんの平日に休みがやってきて、おかげさまで土日を含めてちょっぴり長い休みができるからって、たかだかそれだけなのに世間は浮き足立つ。

そんなんでわたしも、身の丈に合わない熱気につられて一生懸命ぱたぱた踊ってみるけれど、どうやったってからげんき。クリスマスとかと一緒。世間の風潮に流されたってちっともいいことなんてない。

だけども5月はいいこともある。母の日があった。母の日は、お母さんを連れ出して映画館に行った。見るのは何でもよかったのだ。とにかく、お母さんが元気でいてわたしが元気でありさえすればよかった。それが親子にとっていちばん肝腎なのだ。

映画を見たら、おなかが空いたのでごはんを食べた。お母さんはお蕎麦を食べて、わたしはとんかつ。わたしは濃い味つけが好きだから、かつにいっぱいソースをかけると、お母さん怒っちゃった。いつものお母さんだった。この日は怒られないようにしていたつもりなのにすごくかなしくなっちゃった。

だからわたし、心から謙虚になって、もう悪いことはしませんって誓った。お箸もきれいに揃えて、お皿もきれいに拭いて、かすもこぼさない。ちゃんとしたらお母さんは褒めてくれる。褒めてくれるお母さんは好きだ。お母さんが褒めてくれると、幸せのかおりが充満してすごくいい。


下の階から声がしてきた。

「いつまでめそめそしていらっしゃるの」

お母さんの声だ。続けざまにぱたぱたと廊下をわたってくる音が聞こえた。

「──あ、お婆ちゃん。ええ、はい、そうなんです。一時間ほど前から何度も呼んでいるんですが返事がいっさいなくって。ええ、はい、すすり泣く声だけは聞こえているから、大きな問題はないのでしょうけど、ええ、はい」

お母さんはわたしのことを知らないのだ。わたしが泣いている理由を。返事をしてあげないのは、察してほしいからなのにどうしてわかってくれないのだろう。

「とも子さん、心配する気持ちはわかりますが、あの年くらいの女の子がひとりで部屋に閉じこもってしまう原因をいくらかお考えなさい」

わたしはお婆ちゃんの言葉が気になったので、泣くのをやめて、扉に聞き耳を立ててみた。

「ほら、自分自身のこととして考えてみれば、ひとつかふたつ、思いつくでしょう。母も子も、抱える悩みに大きな違いはありませんからね」

「はあ、そういうものでしょうか」

お母さんは少し困惑している様子だった。それからしばし黙った末、お母さんは口を開いた。

「もしつらいことがあったら、いつでもお母さんに相談しなさい。お母さん、待ってるから」と言い、「あとお風呂沸いてるから、ぬるくならないうちに入っちゃいなさいね」


このまま部屋にいても、ろくなことはないと思った。わたしは約束通り、心から謙虚になるのだ。陳腐な意地を張ってみても仕様がない。大げさかもしれないけれど、こんな狭い部屋で悲劇のお姫さまのふりをしたって、情に厚い王子さまが迎えに来てくれるわけじゃないのだから。

そんなことよりも、わたしは泣き嗄らして喉が渇いたのだ。水を飲もう、そしてお風呂も入ってしまおう。心から謙虚に。お母さんの言うことはただしい。

わたしはすっくと立ち上がって扉をそっと開け、階段をトントンと降りた。一階には誰の声もなかった。家中はのっぺりとしたしじまが漂っていて、わたしひとりを取り残して寝静まってしまったみたい。白河夜船、って言うんだっけ。

夜のお風呂はちょっぴり怖い。がらがらと硝子戸を開けて浴場の電気を点けてみても、しらけた宵闇があるだけだった。

頼りないはだか、はだし、むき出しの皮ふ、へこんだおなか。肩は骨ばってかわいそう。しかし、このからだと一生つき合っていくほかはないし、いつかは愛される肉体を得たい。

ああ、お風呂、お風呂。

湯船は繊細な陰影のついたシルクの布のようで、さまざまな淡い色合いの、満ち足りない感受性と、さっぱりとした苦悩の波紋がはかなくゆれていた。

わたしはお湯で横溢した浴槽を上から覗き込んだ。そこにもののけはいなかった。少女のぼんやりとした顔が、ひとつあるだけだった。そのまま水面を見つめていると、わたしのたましいがそこに溶けていくような気がした。

それも良いかもしれない。それも、良いじゃありませんか。溶けたとしても、また掬いあげればいい。べつに、お風呂に入ったって死ぬんじゃありません。

ほんの少し、真面目にさびしくなって、たかだか数ミリの薄い膜に隔たれた絶対的な距離を埋められないむなしさをむさぼりつつ、わけもなく湯船をじゃぶじゃぶとするだけです。

そうしてからだと髪をてきぱき洗って、すべてが終わってしまったら、その場に突っ立ってみて、目を閉じてはっきりと口にしよう。


すべては崩壊してしまった。

けれど、忘れてはならない。

脆く崩れた珊瑚礁のわずかなすき間から浮き上がる星々の粒子。

人はそれを、希望と呼ぶんじゃありませんか。


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