「つるし雛」のブルーベリー
ろくごー
「つるし雛」のブルーベリー
「昨日の『つるし雛』の手作り教室って、中止になったんだって?」
泊まり掛けの大阪出張から深夜帰宅した私は、背広をハンガーに掛けながら妻に聞いた。
「そうなの。英美里がとても楽しみにしてたんだけど…」
夕飯を支度中の妻は、既に寝息を立てている娘の寝室の方を見遣った。
娘の英美里は、今年で5歳になる。
近所の千葉市役所近くの公民館で「つるし雛」の手作り教室が開催予定だった。
だが、昨今の新型肺炎流行の影響で中止になったらしい。
「明日は代休が取れたから、雛祭りは英美里と一緒に居られるよ」
晩酌の缶ビールを喉越しで味わいながら妻に告げた。
「そう、それは良かったわ。最近、帰りが遅かったから喜ぶと思うわ」
妻はツマミの「枝豆と桜エビのかき揚げ」を盛った小皿をテーブルに乗せるところだ。
「あ、手を貸そうか?、大丈夫?」
「もう、心配性ね。これくらい大丈夫よ」
小皿は危なげなくテーブルに置かれると、少し安堵する。
この「枝豆と桜エビのかき揚げ」は、新婚当時からの定番だ。これを「ピリ辛エビ塩」に付けながら食べるのが我が家の不文律となっている。
「そういえば『つるし雛』って、静岡の習慣なんだってね」
詳しくは聞いたことがないことに今さらながら気付く。妻は静岡県沼津市の出身だ。
「元々は伊豆の方だけみたいだけど、沼津でも祝ってたわね」
ふと昔を懐かしむ眼差しが浮かんていた。
妻からの「つるし雛」の由来だ。
江戸時代に、雛人形が高価で手に入らない家庭でも、生まれてきた子供の幸せを願いたい、そんな気持ちから始まったそうだ。
一般的には、近所の女衆で「小さな人形」を作って持ち寄って作り上げる。
「小さな人形」は、余り物の布を使って「犬」「にんじん」「花」「鳩」等を形作る。それを傘のようなものにぶら下げていく。
ネットで調べてみたが、ちょうどベビーベッドの上で回転させる「ベッドメリー」に似ている。
つるす小さな人形には、それぞれ意味があるらしい。
例えば「犬」
犬はお産が軽いことから「子宝・安産・健康」を願う、といった具合だ。
「あのね…」
ソファでくつろいでいた私に、台所で洗い物を終えた妻がおずおずと話し出した。
「うん?」
「明日、『つるし雛』を英美里と一緒に作ろうと思うの」
「へぇー、作り方、分かるんだ?」
「えぇ、昔…、沼津の母と作ってたから」
沼津の母とは、妻の実母のことだ。亡くなってから、もう3年ほど経つ。
「そうか、英美里もきっと喜ぶね」
そう言うと妻は軽く頷いたが、浮かない表情だった。
そんな妻の様子には思い当たる節があった。
地元の高校を卒業した時に、デザイナーになりたいと、妻は沼津の実家を飛び出していた。
詳しくは聞いていないが、当時、義母は猛反対したらしい。それが原因で長らく確執があったそうだ。
デザイナーの専門学校を卒業後、小さな会社でWebデザイナーとして働き始めた。そのクライアント企業の担当者と出会い、仕事を通じて仲を深めて結婚したのが自分という訳だ。
結婚して娘の妊娠をきっかけに、妻はデザイナーの仕事を辞めていた。
娘の誕生を通じて確執は和らぎ、交流が復活した矢先に義母が亡くなってしまった。
そんな経緯もあってか妻の義母への心境は複雑なのかもしれない。
次の日の朝、仕事が休みを良いことに遅くまで寝ていた。
「駅前の東急ハンズへ、材料の布を買いにいってくるわね」
目を覚ますと、妻は出かける準備をしていた。
「ぼくも行こうか?」
「んーん、大丈夫。英美里の面倒をお願いね」
英美里は幼稚園が休みを良いことに、以下同文。
妻が出掛けると、自分の最初のタスク「寝坊助を起こして顔を洗い着替えさせる」を遂行することにした。
「ママ、遅いねー」
タフなタスクを完遂した後の安堵感に浸る間もなく、英美里は「つるし雛」を作る準備万端といった感じで、ハサミをカチカチさせながら少し興奮していた。
「もう、帰ってくるよー」
その言葉を合図にまるで待っていたかのように、玄関の扉が開く音がした。
「ごめんねー、すっかり遅くなっちゃった」
両手に大量の布を下げた妻の姿があった。
聞けば「東急ハンズ」だけではなく、電車に乗って「ユザワヤ」まで繰り出していたらしい。
「なかなか良さげ布が見付からなくて、探し回っちゃったよ」
テーブルの上には、カラフルな大量の布が山盛りに積まれた。
どうやら「元デザイナー」の魂が呼び戻されたらしい。
「ママ、これキレイだね、これもっ」
英美里は材料の布を次々を持ち上げながらすっかり興奮していた。
「じゃあ、『つるし雛』を作ろー」
「おー」
「おー」
自分も釣られて返事はしたが、ここは華麗に見学者のポジションとなる。
妻が「犬」や「鳩」を器用に作り上げていく。
それを英美里は真似ていく。
英美里の「それ」は「微笑ましい」ものといった感じだが、妻は手先が元々器用なこともあって「作品」といった出来上がりだった。
「…お母さんね、眼がずっと悪かったでしょ?」
「ほおづき」の人形の布を丁寧に縫いまとめながら妻が話し始めた。
ちなみに、この世を明るく照らし困難なく生きていけるように、との意味があるらしい。
「そうだったね」
「亡くなる頃には、ほとんど見えてなかったと思うの」
静かに頷きながら話の続きを聞いていた。
「私が子供の頃に一緒に作っていた時にも、もうだいぶ見えづらかったと思うの」
「そうか、気付いちゃったんだ」
「うん、お母さん、きっと大変だったんだろうなって…」
妻も弱視を患っていた。
おそらく義母からの遺伝的なものだろう。
結婚した頃には、すでに仕事に支障を来すほどだった。そして、デザイナーの仕事を辞めたのも、出産を通じて弱視が大幅に進行したのが原因だった。
英美里が紫色の布を山の中から取り出した。
「ママ、これは何を作るの?」
「これはね、ブルーベリーを作る…の…」
妻は、急に何かに気付いたようだった。
「そうか、お母さんは私の眼のことを気遣ってくれてたんだ…」
「つるし雛」は伝統的なものなので、本来は「ブルーベリー」の人形はあるはずがない。
義母は、自分の弱視がおそらく娘にも遺伝すると思ったのだろう。デザイナーになるのを反対したのも、それが理由なのかもしれない。
本来はないはずの「ブルーベリー」の人形を娘と一緒に作ったのだ。
娘の眼が少しでも良くなるように思いを込めて…
「ママ、どうして泣いてるの?」
英美里は、急に涙を流し始めた妻を心配そうに眺めていた。
「ん、何でもないのよ。さあ、最後にこれを一緒につるそうね」
そう言って「ブルーベリー」の房の形をした人形を「つるし雛」の一番下に付けた。
出来上がった「つるし雛」は、テーブルの上の電灯に取り付けられた。
色鮮やかな人形たちが、静かに揺れている。
「犬」「にんじん」「花」「鳩」「ほおづき」、そして「ブルーベリー」
3人は、いつまでも可愛らしい人形たちを眺めていた。
「実はさ、話してないことがあってね」
3人で雛祭りを楽しんだ後、妻に話しかけた。
英美里はお昼寝の時間だった。
「うん、何かしら?」
「沼津のお義母さんが亡くなる直前くらいの頃にね、『つるし雛』をお前に作らせるように言われたんだ」
「え!」
意外な話に大分驚いている。
「恥ずかしながらしばらく忘れていたんだけどね、市の広報誌で『つるし雛』の手作り教室のお知らせがあって思い出してね。それで勧めたんだよね」
「そうだったのね…」
「お義母さん、自分の気持にきっと気付いて欲しかったんだよ。そして、英美里にもバトンタッチしてほしいってね」
「うん…」
妻はまた涙ぐみながら、膝の上で寝息を立てている英美里の頭をそっとなでた。
今年の雛祭りは、きっといつまでも最高の想い出になることだろう。
「つるし雛」のブルーベリー ろくごー @rokugou
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