「桜、咲かせます」
うさももか
「桜、咲かせます」
ふざけるな。
引きつった唇の端を、無理にでも真一文字に結ぶ。私はただチョークを白く被ったその靴の先を見つめる。
今にもその足を踏みつけてやりたい。その教師のべらべらとひとりでに動く口を切り取ってやりたい。
この衝動をたった数分の間に何度飲み込んできたか。きっと昨年生徒会長を遂行したからこそ培った忍耐力だろう。
「まぁ残念だけど、桜祭と卒業式を同時に行うことはできないからねぇ、しょうがないんだけど」
しつこいしつこいしつこい。
「今はそんなに大勢が集まることは避けたい風潮だからね、今すべきなのかなぁ」
一般論ばっかり並べ立てて、それしか言うことないのか?
「本当に佐倉さんには申し訳ないんだけどね、答辞もお願いしているし」
そんな思ってもないのに「申し訳ない」なんて言葉、ほいほい使わないほうがいいですよ。
「こちらとしてもどうにかやりたい気持ちでいっぱいなんだけど」
絶対思ってない。
「残念だけど、今年度の卒業式は明日臨時で行います。桜祭は現時点では中止です」
もう聞きたくない。そんなのんびり椅子に座って、昼休み真っ最中の教員室で、ちょっと来てくださいと呼び出して、教員室入室からわずか三十秒で、事後報告ですることですか。
全身の血液が沸騰しているかもしれない。とにかく熱い。
「佐倉さん?」
「はいっ?」
思わずすっとんきょうな声を上げる。私の前の怪訝そうな顔。
あああ!その顰めた眉と目が!今現在沸騰中の私の感情を逆撫でしていると!気付くことは一生ないのだろうね!
——なんて感情が渦巻いているとは分からないよう、精一杯の作り笑顔で先生を安心させるのであった。案の定目の前では、安堵のため息を漏らす教師がいるのである。
ずかずかと大股で廊下を縦断してゆく。
窓枠の向こうに、黒々とした枝が重なり合いながら四方八方に伸びているのが見える。
遥か遠くの過去から、全ての時間も思い出も溶け込んだような色。
その腕の先から咲き誇る桜の透き通った淡い桃色の美しさを、わが校の教師たちは忘れたのだろうか?
そこかしこに植えられた桜の大木。春の訪れを感じるにはここしかないくらい、この敷地内だけ異空間になる。それを私達生徒も毎年待ち望んでいた。そこに集って共有する、春を待つ僅かな時間がどれほどの意味を持つか。
「ほんとにわかってんのかっ!」
ゴンッ——。
握り拳に走る衝撃。錆びた窓枠がびりびり震えている。
これは、私の手にも窓にもかなりの負傷だ。
「
右手をさする私の元に、激しい足音の嵐が近づいてくる。
「な、何」
先頭を突っ走るのは同じクラスの遥香だ。
「な、何なの」
ぐっと私に向かって顔を近づけた、遥香の瞳が日差しを受けて柔らかく透ける。
微かにその瞳が潤んでいるように見えるのは、気のせい?
「桜祭が中止になるって、ほんとなの」
...そのことか。
すぐには言葉に出せなかった。もう変えられない現実だとは分かっていても。もし今、私の口からそれが音になって出てしまったら、本当に後戻りできない気がした。
「やっぱり」
彼女の漏らした声は掠れて聞こえなくなるほど弱々しかった。
「はるかぁぁ」
遥香の肩に頭をもたげて、その瞬間瞼の裏がかっと熱くなる。
私の思考回路もショートしてしまったのかな。なんだか視界がぼやけてゆく。
周りに集まっていた同級生たちも沈んだ顔をしている。
「一年でいっちばん大事なお祭りなのに」
誰かの声がふっと耳を掠める。
そう、私たちにとって何よりも大切な、桜祭。ただ満開に咲き誇る桜の下に集まっているだけ。学び舎を飛び立つ者とそれを送り出す者。それぞれに寄り添う桜の花々。重なり合う感情。それが何にも変えられない、特別なもの。
「無くしたくない、桜祭」
窓の向こうに目を向ける。無骨な桜の枝たちは黙って佇んでいる。まだ咲きそうな気配はない。それなら——。
「こっちが咲かせてみせようじゃないの!」
拳を宙に振り上げる。が。
「何、言ってんの」
遥香の大袈裟なため息。
「あまりのショックに頭おかしくなったの?」
「え、いや別にそんなことは」
「ごめん、咲。気にしなくていいから」
ぽん、と肩を叩くと俯いたまま私の横を通り過ぎてゆく。
「ちょ、ま」
振り向いても、もう誰もいない。
数秒前の自分を責めたい。でも、このままじゃ終われるはずがない!
「あーどうしよう」
頭を抱え、くるりと踵を返すと、
「ひっ」
超至近距離からの視線。
真っ黒なビー玉みたいにまん丸の艶やかな瞳。思わず瞬きを忘れてしまう。
彼女は唇を三日月のように持ち上げる。
「私」
一瞬のその子の瞳に浮かぶ星屑に、私の胸が掴まれた。
「——桜、咲かせます」
「ちょっと、大丈夫なの」
私の数メートル前を歩く幸嶋つぼみに向かって叫ぶ。
——桜、咲かせます。
目を爛々と輝かせ、彼女はそう断言した。それに私の感情も掻き立てられてしまったのだが。卒業式は明日。こんなことしてる場合じゃないのに、意識は桜にしか向かっていない。
歩みを止める。
「つぼみ、ちゃん!」
ぴくりとつぼみの肩が揺れた。風に黒髪をなびかせながらふわりと振り返った。
「何ですか」
「え、あの、どこ行くのか教えてく」
「桜」
秒速で黒髪を振りまき、私に背を向ける。
「のある場所、です」
「...それはさっきも聞いたんだってば」
自分にも聞こえるか聞こえないかの声で呟く。構わずさらに距離を引き離すつぼみに、私はついていかざるをえない。
本当に幸嶋つぼみを信用していいのか?桜の話になったとたん、今日の今日まで話したことなかったのに話しかけたと思ったら敬語は頑なにやめようとしないし。
「何者なんだ」
「着きましたよ」
突然止まって、びしりと指を伸ばす。
大型の鈍い銀色を放つ、立方体のコンテナ。
「え、ちょ、え?」
形振り構わず、つぼみは自分専用のコンテナに足を踏み入れる。まるで自分の住処のように。
待て待て待て全く思考回路が追いつかない。このふわふわお人形のような黒髪をなびかせる女の子がコンテナ?そしてその中に桜?
「何してるんですか、入ってください」
小さな手でぴょこぴょこと私を招く。
いやいやいや、招かれてそう簡単にコンテナの中に入れるか?
「あ、うん」
おっかなびっくり、私は足を踏み入れる。その鉛色の塊の中に広がる世界を知らずに——。
瞳がまっさらな桜色に塗り替えられる。時計の針を止められたまま、外の世界を知らずに、私の知らない世界の片隅にずっと存在し続けていたように。
「こ、れ...」
言葉にしたらこの幻想が消えてしまう。喉に突っかかって、息すら出てこなかった。
桜の空気につぼみの輪郭も溶けそう。桜の花びらの中から生まれてきた妖精、そのもの。
真四角の空間全てに、言葉通り「時間を止めた」桜の花が散りばめられていた。
「これ、どうしたん...」
「グリセリン溶液に浸してドライフラワーにした桜です」
「ぐり、ぐりせりん?あ、あんた怪しい学者かなにか?」
私の声に肩を竦めてみせただけで、つぼみはコンテナの中を歩き回る。
少し息をするだけでも、桜の花びらたちは舞い飛んでしまいそうだ。
「でも、なんでこんな大量の桜...」
ぴたりとつぼみの動きが止まる。いけないことを聞いてしまっただろうか、でも後戻りはできなかった。
「——私、初めて本物の桜を見たんです、高校生になって」
「え」
「それまで、外の世界を見たことなかったから」
透き通るように細く、折れそうなほど細い手首がブラウスの袖から見え隠れする。
「幻想でしかなかったんですよ、桜は。病室のベッドからは、いつもおんなじ四角い空しか見えなかった」
呆れたように、自嘲気味に笑う。
彼女の傍に、小さな真っ白なお人形のような女の子の姿が浮かび上がる。
「——私も、ずっと『つぼみ』のままじゃなくて、花を開きたい。思い切り、青空の下で咲き乱れたい。ずっとずっと待ってた」
腕を伸ばす。手のひらから、咲き乱れた桜の花が舞う。真っ白な彼女と、艶めく黒髪が眩しかった。
「桜は、私と世界を、唯一繋ぎとめてくれたんです」
最後の一枚が地面に落ちて、つぼみは振り向く。
頬に柔らかな桜色がさす。私の頬もつられて緩む。
「最高のお祭りなんだね、つぼみちゃんにとって」
「あなたもじゃ、ないですか——咲さん」
幼げに笑うその顔は、たぶん彼女の子供時代と変わらずここにある。私にはそう思えた。
いつもなら感じる、講堂全体を包む温度は明らかに低かった。私達卒業生しかいない、それだけでこんなにも違うなんて。
「——卒業生、答辞」
しわがれ声と同時に立ち上がる。黒い瞳、つぼみの視線を感じた。そっと目配せしてみせる。
壇上に一歩一歩近づいて、私の心臓は高鳴りを増す。
沈んだ表情の生徒。そこに漂う、空虚な感情。
「——頬に感じる風も、温かさを増し」
でも、私はそれを壊してみせる。
なんとか今日を迎えて安堵している教師たちの想像なんか、飛び越える。
「わが校が誇る桜も春の訪れを待ちわびていることでしょう」
目配せをする。つぼみの黒髪がさらさら揺れる。
今日しか、ないんだ。私にも、つぼみにも、卒業生全員も。
「しかし!それでいいのでしょうか!」
ガタン。
今日を最高の祭にするために。
「私達は、桜を咲かせます!」
空気はわっと波打つ。生徒の頬が紅潮する。目に光が宿り始める。
「ご覧ください!」
腕を振り上げる。
皆天を仰ぐ。
「あ」
ふわり。
ひとひらひとひら、淡いピンクが舞い散る。私達の頭上から降り注ぐ、祝福のシャワーのように。
「桜だ...!」
日差しを受けて、世界を淡く染め上げる。
もう何も見えなくなるくらいに、桜色で埋め尽くされる。
思い思いに腕を伸ばし、立ち上がり、歓声をあげ、涙を滲ませ。
私は二階席に視線を送る。
そこには、無邪気なつぼみの姿があった。降り注ぐ桜色に、瞳を輝かせて。
つぼみの姿は、もう桜の蕾じゃない。
透き通る、世界の美しさを搔き集めたように、花開いた妖精だ。
「——今日を、最っ高の、一日にしましょう!」
花びらの嵐に向かって、私は叫んだ。
「桜、咲かせます」 うさももか @usamomoka
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