ハロージェントル
坂本治
ハロージェントル
一八八〇年代も終わる頃、ロンドンの町並みはかつての産業革命を土台に著しく発展を遂げた。自動車、鉄道に路面バス、様々な交通機関が多くの人々を運び世界的にも大きな交差点となりつつあった。
霧や乗り物の煙に巻かれ薄暗く酒脱な雰囲気に包まれたその街は、イギリス中の若者たちの憧れの地であった。そんな大都会を器用に渡っていくのに多くの若者は苦労を強いられたであろう。
僕が出会った彼もまた、雑踏の中、自らの在り方を探していたのだ。
僕はロンドン以南の郊外に生まれ十四年、学校通いと家事手伝い以外にすることもなく退屈な日々を過ごしていた。
その日も学校を終え、母親と暮らす簡素なアパートに帰宅すると、まず一階の集合住宅用の郵便ボックスのダイヤルを回して中身を取り出す。それらを持って自分の部屋まで上がっていき洗濯物を取り込むとあてもなく出かける。仕事に出ている母親が帰るまで適当に時間を潰すため、村中をふらつくのが習慣となっていた。
アパートの裏に回ると麦のような背の高い植物が伸び放題になっている。黄土色をかきわけ突っ切ると辺りの建物はまばらで、広い空が顔を出す。この景色を見たのが普段レンガに囲まれた都会の人間ならば、一時の開放感に息をのむかもしれない。
しかしその壁を知らぬ少年には、どこまでも続く景色は捉えどころのない虚しさを感じさせた。ただ広い土地に放し飼いにされたような不安が心をよぎるのである。
畑に挟まれた石の道を進みながら、今日の暇潰し場所に図書館を選んだ。そこまで冊数はないし、シリーズものだってろくにそろってはいないが、興味津々で読み込むわけではない自分には十分だ。
図書館前の小さい広場まで辿り着きジグザグと歩いて行く。正面入り口にさしかかり手前の短い階段に足をかけると、茂みで気づかなかった数人の人影に気づく。クラスの中心的生徒たちで、リーダー格のウッドもいた。彼らもこちら気づくと、
「エディ、一人で図書館通いか? 熱心だな」と、馬鹿にした調子でウッドが一番に声をかけてきた。回りの生徒もおかしそうに笑っている。ただ図書館に来ただけで笑われても困るのだが、それに言い返す気もなかった。
言葉が適切かどうかはわからないが、はっきり言ってウッドたちは不良だ。自信があって、発言に力がある。彼らに道徳と正義感が備わっていれば立派なリーダーの誕生だが、そんな上手くいくわけもなく、田舎の学校で逆らう者がいなくなったガキ大将に過ぎなかった。
「なんだ。入らないのか?」
引き返そうか迷っている内に階段に腰掛けていたウッドが立ち上がる。思わず後ずさりしてしまい、後悔する。堂々としていないからいつもなめられるのだ。背の高いウッドの勝気そうな眼に見下ろされては、いつも怖気づいてしまう。
幼い頃から荒かった彼の気性は年々ひどくなっていき、最近は他の生徒も手をあげられないよう、顔色をうかがって過ごしている。特に自分は上手くやり過ごしたり流したりできず、彼の気に障ることが多いようだ。
「なんか言えって」
ウッドがぐっと目の前まで来る。発育の遅い自分と彼とでは能力の優劣が傍から見ても一目瞭然だった。
しかし人をイライラさせる能力は自分の方が勝っていたようで、ウッドがはっきりしない自分に明らかに機嫌を悪くしているのがわかった。睨まれ続けるのに耐えかね途端に踵を返したが、ウッドの取り巻きたちが行く手を阻んだ。
自分の機転の利かなさにため息をつく。大体どうして図書館前でたまっているのだと彼らに苛立つ自分と、そんな風に思う余裕があるのだと驚く自分もいる。冷静なのか、ただ臆病なだけか。いや逆らわないのが得策だとわかっているのに、この一方的な押され気味の状況に悔しくも思うのだから、やはり心が落ち着いていないのだろう。再び冷静になり口を開く。
「今日は帰るよ。離してくれ」
言葉を選びながら、彼の様子をうかがう。ウッドは一呼吸ついてからつかんでいた僕の襟を離す。そしてあきれたように笑って
「おまえって、変わってるんだよ」
僕が安堵したその次の瞬間、突然動いたウッドに急には反応できなかった。彼は僕の鼻を思いっきり掴んでそのまま横に振った。思い通りにならないことがあった時の幼い子供と同じ行動だ。一時の痛みが過ぎ、理不尽な行動に頭へ血が上りかけた。
「君も大分変わっているよ・・・。意味がわからない」
鼻を押さえながら、来るし紛れに訴えるとそれが余計だった。ウッドは顔を引きつらせ、近くにいた取り巻きが持っていた本を奪い振り上げた。悪意はほとんど感じられない衝動の塊だった。そういうのは予測できない。本は顔面を直撃して先ほどより鋭い痛みに襲われた。うっと、鼻の温度が上がるのを感じながらうずくまった。
ウッドはそれを見下ろすと「行くぞ」と取り巻きを連れ、去っていった。鼻血を出しながら読書というのも格好がつかず、まだ明るい午後、足早に帰宅した。
アパートに着くと階段を駆け上がる。出血量は多くないものの手が血まみれだった。
すると自室のある二階の踊り場で人とすれ違った。大人の男で都会風な帽子をかぶっている。住人の多くはないこの住宅で見かけない人物だ。普段なら挨拶するよう言われているが急いで上がったために顔もわからず、すり抜けてしまった。
手やほおについた血を見て心配したのであろうその紳士が
「やあ、大丈夫か?」
と言う声を聞いたのは、すでに自室の扉をくぐった後だった。
ウッドたちと図書館で会った日、出血は母親が帰宅する前に止まり、それについて話すことはなかった。夕食の最中の会話で、母親は大家から新しい住人が入ったことを聞かされたと話した。僕は曖昧に相槌を打ちながら、階段ですれ違ったあの人だろうと一人心の中で納得した。
学校に行けばウッドたちと顔を合わせることになるが、こちらにとっては幸いか、彼らは毎日は登校してこない。せっかく通わせてもらえる学校に行かないのも母親や出稼ぎに行っている父親に申し訳なく、無難な生活を求めて通うのだ。週に何度かやって来る彼らに目立たぬよう過ごせれば、あとはごく普通の穏やかな生活にありつける。
あの日からしばらく経ち、ウッドにからかわれることもなかったため、久しぶりに図書館へ向かった。邪魔されて入れなかったことはそこまで心残りでもなかったが、なんとなく足が向いたのだ。
前回のことを思い出し図書館前に着くと、まずはそっと様子をうかがった。できるだけ気配を消し、視線をあちこちに飛ばしては辺りを警戒する。ゆっくり進み周りの木の陰が除け、階段が見えてくる。
すると階段の端の方に誰かが座っているのに気づいた。ウッドたちでないことは、その人物が一人であることや背格好が全く違うことから容易に判断できた。それより驚いたのは目前の人物が以前アパートですれ違った男性だったことだ。母親から聞いた新しく越してきた住民だという情報を追加して思い出す。
その人物は本も何も持たずただ腰掛けていただけのようで、食い入るように見つめる僕の視線にすぐ気づいた。そして僕の顔を見ると
「やあ、パーカー君」
と聞いたことのある張りのある声をかけてきた。なぜ名前を知られているのか戸惑っていると、彼は続けて聞いてくる。
「このあいだは怪我をしているように見えたけど、大丈夫だった?」
「・・・大丈夫です」
緊張がちに、やっとそれだけ答えた。顔立ちは若くみえるけど、首や手の甲が筋っぽいその男性は、正確な年齢がわかりづらかった。穏やかに、それでいて軽快に尋ねてくる。
「友達と喧嘩でもしたのか?」
「そんなところ、です」
「君が喧嘩っ早い性格にも見えないけど。何かわけありのようだね」
どこか見透かされたようなものの言い方に、僕の心臓は不自然な脈を打った。どうして、と僕が言いかけると彼は
「どうして名前を知っていたか? それとも喧嘩なんかしてないこと?」と、僕が問いかけるはずだった疑問を並べた。
「どっちも」
「名前のことは少々失礼だったかもしれない。見ず知らずの人間に知られていては気味が悪いものだ。ごめんね」
「いえ、別に・・・。大家さんに聞いたの?」
「君のことを? いいや、さすがに大家さんだって会って日の浅い新入りに、他所のお宅の名前だとか、プライバシーを漏らしたりはしないよ」
僕はこの人のことを確かに何も知らないが、田舎の子供相手に気取らず話す様子はこの村と不似合いな洒落た装いと対比して、人当たりの良さを感じさせた。
「少しだけ推理したんだ。君のことが気になったからね」
彼は大袈裟に周りを気にしてから声を抑えてそう言った。芝居がかった彼の言動に戸惑いつつも「どんな風に?」と聞いてみる。気を遣ったのが半分と、この不思議な大人への興味心が半分だった。
「あの日君とすれ違った時、勿論心配したんだ。けれどあっという間に行ってしまっただろう?」
「急いでいたから。その時僕が入った部屋の番号を見たってこと?」
「さすがに追いかけはしなかったさ。アパートの子供を追い回して捕まったら人としてアウトだろう?ただ扉の開閉の音がすぐに聞こえたから、二階の住人だってことは確定だ」
「ふうん。二階の部屋は四つあるけど。」
「そう。どの部屋も表札はなかったし、君のお宅がどこかはわからなかった」
すれ違った子供をどこの部屋の住人か気になって、わざわざ下りていた階段戻ったらしいこの人は、暇なのだろうかとつい考えてしまう。
そんな僕をよそに飄々と次の根拠を喋ろうとしている辺り、ちょっとしたこ
とに好奇心がわいてしまう人なのだろうとか解釈する。それでも隠しきれなかった僕の訝しげな面持ちに気づいて彼は、
「怪しい者、じゃないよ?大家さんにここには子供がいるかどうか聞いたら、もう大きい子が一人だけだって教えてくれたんだ。それで話に聞いた君を見かけて、つい気になってしまったんだよ」
「なんでそんなことを? 子供嫌いとか?」
「いや、違う違う。前の住処では赤ん坊の夜泣きに苦しめられたから、それだけは回避したくて。でも君はとても品がよくて、賢そうだ。」
最後に聞き慣れない褒め方をされ面食らう。彼は表情を緩ませ、引き続き話を続ける。
「天気がいい日に出かけようとしたら、二階のどの部屋も洗濯物を干していた。その中でサイズの小さい、おそらくは子供用に仕立てられたシャツがあったのは一部屋だけだった」
「怖いなあ。洗濯物までチェックしたの」
「違うよ、たまたまさ!何というかその時目について、咄嗟に君のものだと思ったんだ」
彼は慌てて弁解した。執拗に詮索して部屋を割り出したのなら少しばかり危ない人物な気がするが、偶然得た情報からそう判断しただけならば変わったことに気を向ける人だな、といった風な認識である。僕は彼の推理を引き継ぎ、
「シャツを見て部屋の見当がついた。その後は郵便ポストに書かれた部屋番号を照らし合わせて名前を知ったんだね。うちのポストはパーカーの名字が入っているから」
自分の名前当てゲームと思ったら、彼がその後そのようにして名前を知り得たことが予測できた。僕の言葉を聞くと彼は嬉しそうに
「そうだ。君も冴えているぞ。だがしかし、それだけでは確かな確証がない」
「確証って?」
「本当に君がその部屋に住んでいて、なおかつパーカー君であるか確かめなくては、この推理は完結しない」
強く言い切る彼に「はあ、まあ。」と適当な相槌を打つしかなかった。
「それで、どうして確かめたかわかるかい?」
「いいえ」
「君は学校に行くだろう。そしていつもほぼ同じ時刻に帰ってくる。機械的な人間ほど、推理は単純なもので済むんだ」
一瞬馬鹿にされているようにも感じたが、彼の様子はそんな風でもなかったので聞き流すことにした。
「君が帰ってくる時刻を見計らって二階部屋のポストのダイヤルをみんな同じ目盛りにそろえておいた。君はダイヤルを回して蓋を開け中身を取り出した後、再びダイヤルをひねってロックをかける。それを君が去った後に確認する。違う目盛りになっているダイヤルのポストが君のお宅さ。ロックをかける時、始めに合わせた目盛りになってしまうことも確率で考えられるけど、見事一回目で君の触ったポストが判明したよ!」
種を聞いてしまえば推理でもなんでもないが、それよりこんなことに真剣になる人がいるのだと驚いた。しかしこの話をしている間も始終楽しそうな彼を見て、ポストのダイヤルを一つ一つ合わせる姿を想像するとなんだかおかしく、いやな気持ちはしなかった。
「すごいね。最後、証拠までとるなんて」
「毎日のルーティーンは気を抜くと、誰かに気づかれているかもしれない。気をつけたまえ?」
「本当だよ。ダイヤルがそろえられていた日なんて気がつかなかった」
「どうでもいいようなことでも最後がどうなっているか、自分で確かめないとわからないことがほとんどだからね」
そう語る彼の、趣味とも奇行ともいえる変わった行動をうらやましく思った。日常の何てことないことにも彼のように興味を示せば、退屈なんてことはないだろう。ただ大の大人が興味のために、他人のポストをいじるという行動はいかがなものかと考えさせられるが、一応人目を気にして実行していたと信じたい気持ちが生まれていた。
それだけこの変わった人物に興味を引かれていたのだ。「推理は大当たりだったろう」そういう彼に「シャーロック・ホームズみたいだね」と答える。
「今、流行の小説だね。好きなのか?」
「図書館で暇潰しに読んだだけ。全巻そろってないから、何冊かしか読んでない」
「へえ。感想は?」
大人に本の感想を求められるのは、何を言おうか悩み苦手なのだが
「面白かった。頭がきれて格好いいし。自分が考えた推理を立証するためになんでも行動できるってすごい」
シンプルでありきたりだが、本当にそう思ったことを伝えた。
「ホームズもすごいな。ミステリ好きの大人のみならず、君みたいな若い人にも憧れてもらえるなんて」
「シリーズを読んだ?」
「ああ。都会では大人気、大売り出し中だよ。時の話題を知るのも嗜みってやつだろう。しかし僕は彼のような人を子供の手本とするのに、賛成するのはためらうなあ。頭脳は天才的だけど、薬物依存の一点は紳士的でないね」
そう言う彼は、出会った日にかぶっていた帽子こそないものの、上品な上着や物腰がまさに英国紳士というに相応しかった。
そういえば都会を知っているようだった。この人はなぜこんな所へ越してきたのだろう。
「都会から来たの?」
踏み込んだ質問かと躊躇いもしたが、もう少しこの人物について知りたかったのだ。それにロンドンのような都会への憧れも後押しした。
「そうだ。ロンドンで仕事をしていた。ここへやってきた理由だけど・・・」
きっと僕が理由を知りたがることも見越してそう言いかけたのだろうが、迷ったように言葉を濁す。
「秘密なら、大丈夫」
無理に言わなくていいよう、そう口を挟むと
「いや、大丈夫だ。お気遣いありがとう。よし、これもなにかの縁だ。君にだけ僕がここに来た理由を教えよう」
また大袈裟にそんなことを言ってみせる彼に子供扱いされているようなもどかしさを覚えるが、普段と違う特別な出来事に気持ちが踊りそうなのも事実だった。
「実はね、仕事中に少々やらかしてしまって。命を狙われているんだ」
「本当に?」
そう言われて信じた方がよいのか、瞬時に判断できなかった。
「あ、信じてないな」
僕の疑わしげな表情を読み取って彼はそう言った。その声色も真剣というにはほど遠い呑気な感じがした。信じてもらえないとわかっていたからだろうか。しかし話が本当なら、彼の身はこの後大丈夫なのだろうか。都会はもしかしたら、我々田舎者が思う以上に物騒な場所なのかもしれない。
「追っ手から逃げてきたってことでしょ?安全なの?」
この人が自分をからかってこんなことを言っていて、自分が信じたことを笑われてもいいと思い、正直に心配する気持ちを伝えた。
「ああ。勿論アパートの人たちには迷惑がかからないようにするよ。一時的に身を隠したいだけだから、しばらくしたらすぐ出て行くよ。」
「違うよ、命を狙われるなんて普通じゃないよ。あなたが、大丈夫なのかってこと。」
僕が心配している点を勘違いされ言い直す。そしてふと発言を思い出し
「すぐに出て行くの?」
と再び尋ねる。
「ああ、別に大したことじゃないよ。ちょっと事態が落ち着くまで、仕事もできないし。休暇もとれてちょうどいいしね」
「都会は怖い所だね」
「そうでもない、と言ってあげたいところだけど、人によっては確かに生きづらいかもね」
どこかを見つめ何かを考えているような、都会から来た紳士を見る。学校の先生や畑仕事のおじさん、自分の父親など知っている村の大人たちを思い出し、眼前の人物と比べてみた。考えるまもなく雰囲気は全然違うのだが、この人物がまとうものを、都会の人間皆が持っているとも思えなかった。
「君もロンドンくらい行ってみたらいい。行ったことあるか?ここからなら一日で行って帰ってこられるぞ」
「行ってみたいとも思うけど、いざそう思うと、そこまで行きたいわけじゃないかもしれないってやめちゃうんだ」
「別にこの時代特別なことじゃないよ。交通機関も通って便利だ。ああ、シャーロックのシリーズも手に入るな」
「また考えておく」
控えめにそう答えると、彼は微笑し
「気持ちに蓋をしないことだ。どんなことでも興味をもつのは悪いことではないし、それを探そうともがくのだって悪いことじゃない」
そのように急に説教じみたことを言ったが、すぐにそれが自己主張のない自分のことを励ます言葉だとわかった。そればかりか、何も取り柄のない空っぽの自分に悩んでいることもわかってくれているようでとても安心した。
「ロンドン、行ってみたいね」
自分が一番興味のあるものをもう一度、言葉にしてみる。
「いいんじゃないかな。この村にだっていいものがたくさんあるしね。頭で考えることと心で感じることは、どんな場所でだってできるのさ。その二つは誰にも取られることはないからね」
「先生みたいなことを言うんだ」
掴み所のない難しいことを言う彼に、僕はそう返す。
「あながち間違えではないよ。以前は学者をしていたんだ。たしか学会を追い出された理由は、なんだったかな。おまえは変だとか言われたんだったかな? 面と向かって変って普通言わないだろ? まったく学者先生は変わった人が多くて困るよ!」
途中からおかしそうに笑って言う彼の様子につられて、僕も少し笑ってみる。お互いが下を向いて笑うものだから、顔を上げるタイミングを見失った。そろそろと首を持ち上げると、彼の方から
「おっと、長く引き留めて悪かったね。図書館に用があるんだろう?」
とそちらを視線でさして促す。この時間を楽しみ、彼から粋な言葉をもらった今は、読み飽きた本よりもいつも知っている景色を違う視点で捉えてみたかった。
「今日はいいにする。何か面白い謎がないか探しに行くよ」
いつもなら絶対に口にすることはないであろう、無邪気な言葉に自分でも驚く。その様子に彼もどこか楽しそうに
「じゃあ、僕が一つ謎を提供しよう。僕の今の職業はなんだろうか?」
ええ、難しいと呟きながらも胸は弾んでいた。広場を後にする時、
「また会える?」
と遠慮がちに聞くと、すでに立ち上がっていた彼は振り返り
「勿論。しばらくは帰る場所が同じだしね」
と白い歯をみせた。そう言われてあっと、その事実を思い出した。
広がる黄金色の畑は、いつもよりきれいに見えた。足取り軽く進む途中、彼の名前を聞いていなかったことを思い出したが、今度会った時の楽しみができたと気持ちは前向きだった。
自室で過ごす時間も、あきらかに今までより退屈していなかった。心に風を通せるようになったような、そんな爽やかな気持ちだった。その風を吹かせてくれた紳士とはここ何日も合っていないのだが、同じ建物に住んでいるからといって探しにいくのは、格好がつかず恥ずかしかった。
彼がした推理を真似て彼の部屋も予測してみようとしたが、二階より上であること以外情報がなかった。下手に悩むのは諦め、どこかで偶然彼に出会った時に備えて彼がよこした謎に挑戦することにした。が、こちらも同様に情報がなさ過ぎた。
数少ない情報は、以前学者をしていた人物であること、上品なものの話し方、そしてなにより命を狙われたことだ。どうしても命を狙われる理由がわからなかった。誰に、なんのためか。あの陽気そうな性格の人が、誰かから恨まれたりしていたというのか。人は見かけによらないというし、何か他に彼から読み取れることはないだろうか。
まずは性格から見てみよう。とっつきやすい人当たりやジョークを混ぜた警戒させない口調、あれは大分外交的だったはずだ。多くの人と言葉を交わし、本人も相手の性質を見抜く能力が長けていたとみえる。
学者というのは学校の先生とは違うのだろうか、その頃の名残の話術を生かせる仕事だろうか。そんな仕事あるのか。第一、都会にどんな職業があるのか自分にその知識がない。知っている職業なんて片手ですぐに数え終わってしまうだろう。
気分を変え外に出かけることにした。外に出れば彼に会えるかもしれない期待もあった。高い空を仰ぎながらもう一度彼がどんな人物か思い出す。
外見は中肉中背の帽子の似合う紳士、というのが一番に上がるイメージだったが、そこからなにがわかるだろう。きっと優秀な頭脳を活かした堅い仕事でないか、それが有力な線である。まさか地面の下や鉄道の車庫で、重い工具を持っているのは想像できなかった。それにそれらの作業員が人から恨まれるケースもあまりないだろう。
「だめだ。特定できるほどの知識も情報もないよ」
ここ数日、頭の片隅で楽しみながら考えていたが、想像の域を越えない自分の推理にそろそろ煮詰まっていた。
民家の集まる石畳の道にさしかかった時、どこからか人の声がした。かすかな声だったがよく知るウッドのものだとわかった。
声の主を探し、警戒しながら歩みを進める。壁にツタを這わせた空き家が並ぶ路地に、ウッドと数人の仲間がいた。自分の位置から彼らまではまだ距離がありはっきりとは見えないが、彼らに対峙する人物は僕に謎を与えた変わり者の紳士だった。
その状況に咄嗟に自分のするべき行動が見いだせなかった。
彼は大丈夫だろうか、自分がされたようなことがあの紳士に起こってよいだろうか、さすがにウッドも大人相手に手をあげたりしないだろうか、など様々なことが頭の中を駆け巡った。
何を言っているのか大まかに予測すると、ここの風景に不似合いな装いの紳士に金銭を要求しているようであった。ウッドを止められる大人がほとんどいなくなっていたことを、表す結果だった。
直接暴力に発展しそうでないことと、あの大人がどのようにウッドに対応するのか知りたい興味によって、僕はもうしばらく影から様子をうかがうことにした。こんな田舎で恐喝にあった紳士は、うろたえることなく少々困ったように口角をあげていた。こちらから見ると、相手の子供に負けぬよう堂々とした態度で話を聞いているようだ。彼はウッドらの言うことに従うのだろうか。要求を拒否し不良たちが簡単に去って行くとも思えなかったが、彼らがそんなことをすること自体理解できない僕には、到底想像が追いつかなかった。
そして僕は勝手に、紳士が他の大人たちとは違う行動してくれると期待してしまうのだった。その時、
「君たち、人をおどかしてそういうことするのはよくないぞ」
そんなことを彼は言った。表情を緩め、あくまで平和的に解決をはかる方法であるが、きっと彼の思いはそれだけでない。大人として怯えずに、道を踏み間違えそうな少年たちを正そうという気持ちがあるのだろう。
それは下手な正義とかでなく、あの人自身の良心に従って生まれた言葉だ。この時僕は純粋に、こんな生き方ができる人がいるのだと思った。正しいことをしようとしてできないことも多い、行動に移しても思うように周りから認めてもらうことも難しい。加えて、自分の信念にのっとって進むことはきっとどんな聖人でも苦労するだろう。
あの人物の精神の深いところにある生き様のようなものを垣間見て、ちょっとした衝撃を受けた。それに突き動かされ飛び出したい気持ちを抑え、彼のつくったこの展開を見守ることを選んだ。
ウッドは、たしなめるように言葉をかけてくる相手を、いいようには思っていなかった。表情を固くして、自分と同じくらいの背丈の大人との距離を詰める。一方の紳士はじっとウッドを見つめ黙ったままだ。
冷や冷やしながらこの状況に見入る。
何秒かそのまま。
一向に引かない相手にウッドも諦めようとしているようにも見えたが、二人は何か小さい声でやりとりしたらしい。
紳士が呟いたのを僕が確認してすぐに、ウッドが手を出した。
カッとなりやすいウッドに近づく時は、絶対に注意せねばならないパターンである。
しかし以前の僕の場合と違うのは、繰り出したウッドの腕を細作りの紳士が受け止めたことだ。
そのおかげで顔面などは守られていたが、再び血気盛んな少年の肘が振るわれる。その時やっと、目を見張って張り詰めていたテンションから自分を解放した。
攻防する二人の近くまで駆け寄り、呼吸を整えてから荒れる幼なじみに声をかける。
「・・ウッド。その人に手を出すなよ」
数人の仲間たちもその時ばかりは、後ろの方でぽそぽそと言葉を交わすだけで、突如現れた僕にかまうことはなかった。緊張はしていたけど、声はわりとしっかりと出た。僕の気持ちに従った行動だった。
「おまえの知り合いかよ、エディ。そろって調子のってんじゃねえぞ」
ウッドは眉根を寄せ、威圧するように吐いた。僕は彼の目をまっすぐ見ながら後退し、紳士の上着の裾を軽く引いて走った。ウッドたちから離れていく間は、振り返りはしなかった。彼らが興ざめして、追いかけてこないことを空気で感じたからだ。
ウッドたちと出くわした時のために、村の表通りに向かって二人は歩いた。彼らとある程度距離がとれたところで紳士が先に口を開く。
「ありがとう、パーカー君。そういえば名前は何て?」
「エディだよ。エディ・パーカー」
改めて名乗るのはなんだか照れくさい気がした。
「そうか、君が来てくれて助かったよ。どうも、エディ」
「偶然見かけたから。あいつら学校でもいつも威張っているんだ」
「あのリーダーの大きい少年はひときわ強そうだったなあ。力も強かったし、君が怪我して帰ってきたのは彼のせいかい?」
そう聞かれ僕は頷いて答える。図書館前で話した時もそうだが、僕の性格上、誰かに一方的にやられたものだと予想できていたのだろう。彼は合点がいったように、やっぱりそうかあと小さく呟いていた。
久しぶりに会うこの紳士と話したいことはたくさんあったが、呑気な話をするにはあまりに切り出しにくい雰囲気だ。都会からやって来た希有な存在の彼を、僕は少なからず特別なものと見ていた。そして彼は先ほど、村の多くの者たちが示せない責任というものを行動で語ってみせた。ペンや杖より重い物をもったことがなさそうな外見をして、強靱な少年を相手に一歩も引かなかったのだ。
「ウッド怖いだろ?どうしてすぐ逃げなかったの」
それが安全な策だと、この人もわかっていただろうにと疑問に思う。
「あそこで言うことを聞いてしまったら、彼らは本当の悪党になってしまうだろ。間違ったことをしていたら、だめだって言ってやるのが周りの人間ができる一つのことかと思ってさ」
「僕は、そんな風に言ってやれないよ・・・」
彼は声を落とす僕の背に軽く触れ、励ますように続ける。
「君は君で自分を守らなくてはならない。毎日顔を合わせるのにそんなことしては波乱だらけだ。できる人間がそれをする。だから君が今まで言い返さなかったのは全然間違いじゃないよ」
ウッドの素行が悪くなる度、逃げるだけでなくなにか声をかけてやりたいと思った記憶が、僕の中で渦巻く。それが叶わない現実にいつも下を向いていた日々から、変わる方法を彼は知っているような気がした。
「あなたみたいに格好よく生きたい」
少年の大袈裟な言葉に、彼は一瞬目を瞬かせたが
「僕はそんなことないさ。それに君は十分大人な考えができるもの」
と大きく笑った。それに、と続けて
「人のことをあれこれ気にして口出すのは、紳士的じゃあないだろ?」
と言う。ウッドのこれからを気にかけてのあの言葉をお節介だと自虐しているのだろう。
彼の横顔を見上げた時、脇の畑からバッタが飛び出し彼の上着をかすめていった。
「ひわっ!」
っと、どこから出したのか甲高い声を上げ、都会の紳士は飛び上がる。
「虫こわいの?」
都会には虫がいないのだろうか。今までの彼のスマートな雰囲気が崩れ、僕は安堵と意外さから静かに笑った。
「違うよ!びっくりしただけだよ! え、ついてる?どこか行った?」
「さっきのウッドの右ストレートの方が早かったけど?」
くるくる回って虫の所在を気にする大人に、問いかけてみる。
「さっきだって怖かったよ! リーダーの彼、本気だったんだから」
やはり怖かったのだと、見かけによらず勇気のある紳士をもう一度見て、変わった大人だと改めて思うのだった。
あぜ道が石畳に変わった辺りで、街頭やベンチが並ぶ場所に出た。
「座るかい?」と言って彼は先にベンチへ寄っていくと、乗っていた落ち葉を払い二人分のスペースを確保した。こういうのをジェントルなんて表すのだろうか、と心の中で感嘆する。
座る前に彼ははっとしたようになり、
「いけない。君の名を聞いておいて僕が名乗っていなかったね」その言葉を聞いて知らず知らずのうちに心がはしゃぐ。
「申し遅れた。僕はショーン・ブラウン。平凡な自動車の運転手だ」
胸の高まりは彼の名を聞く辺りまでよかったのだが、その後の盛大なネタバレに一気にテンポを乱した。
「あ、え、運転手なんだ・・・」
しどろもどろに言葉を続け、なんとかこちらの思いを訴えようとすると
「うん。前回君に職業を当てろ、なんて言ったけど、よくよく考えたら無理な話だったって反省したんだ。情報がないし、教えてあげられるヒントもアバウトなものしかない。だからこれやっぱりナシね」
悪そうに小さく手刀を切るショーンを責める気は毛頭なかった。数日の間、面白いひとときを過ごさせてもらい感謝しているのだ。それよりもまた興味深いことが増えた。
「自動車を運転できるの?」
村にもバスがやって来るし見たことがないわけではないが、自分は生涯運転することなどないと思っていたものだから、そう聞くととても憧れた。こちらの目が輝いたのがわかったようで
「都会は結構増えてきているよ。ステータスの一つの象徴でもあるようだな。車はいいぞ。ハンドルを回すと、こう」
腕を伸し実際に回す動きをしてみせる。
「いいなあ。値段高いんでしょ?僕は一生手に届かなそう」
「僕だって自分の物は持ってないよ。雇われた先のオーナーを乗せる専属運転手を、転々とやっていてね」
「そんな仕事があるんだ。どういう人を乗せたの?」
「ううんと、上流層の人がほとんどだよ。職業は政治家とか医者とか」
ショーンは過去の雇い主を思い出すように目を閉じてうなる。
「オーナーはそんなにすぐに変わるの?」
「え? ああ、契約してはじめは順調なんだけどね。しばらくすると性格の不一致というのかな、クビになっちゃうのさ」
そんな破局の理由みたいな解雇の説明があるだろうかと思ったが、真面目なのかジョークなのか見極められなかったのでスルーすることにした。過去のことをとやかく聞くのも失礼かと思い、話題を変える。
「そういえばここでの暮らしはもう慣れた? 前の住処は都会だったんだろうし、不便はない?」
彼もなにも言わずこちらの話題にのってくれた。
「ここはのどかでいいところだよ。どこを歩いていても空が見える。やはり自然には心癒やされるね」
「アパートの部屋はどう? 以前は夜泣きに悩まされたようだけど」
「ああ、赤ん坊は確かにいないようだしね。それは大丈夫なんだけど」
「なに?」
彼はフッと息だけで笑い、躊躇った後、あえて厳しい顔をつくった。
「隣の部屋が元気過ぎるんだ。赤ん坊より大きい人間が、その。やっぱりやめよう!」
「なんなの! どこまで本当なの。」
一人でつぎつぎに違った表情を披露するショーンを隣で見ていた僕は、彼が前後に体を揺らしたり、頭を抱えたりする様子に合わせて笑った。
「全部本当だって! 毎晩毎晩お盛んなんだ。あのアパートの壁は案外薄いってこと、お隣の女性に教えてあげないと」
「住んでいる人が女性だと知っているの?」
「会ったことはないよ。でもね、日によって違う男がやって来るのさ」
ショーンは真剣な顔をして、一人ドラマのシーンを演じているようだ。
「違う男だっていうのはどうして?」
「……声が違うんだ……!」
先ほどまでの愉快なトーンと一変して、弧を描くような音程で発声した。壁越しの二人の喜悦な声を思い出したのか、がっくりしたように肩を落としてみせる。毎晩よそのお宅の情事に付き合わされていては落ち着かないだろうと、元気をなくした紳士にそっと同情する。
「この村にはいつまでいるの?」
ふと思い出したことを、なんてことない風を装って聞いてみる。内心はショーンがすぐにでも出て行ってしまうようで不安がいっぱいだった。
「あと二週間か、それくらいかな」
彼があのアパートに入った期間を合計するとわずか一ヶ月ほどの滞在になる。この人はまた都会に戻っていくのだろうか。
「僕もね、郊外の生まれなんだ」
彼が自分のこと自らを語り出すのは初めてだ。
「ライムレジスという、ここよりももっと西にいった地域なんだけど」
「その町なら知っている。海が近くて、きれいな所だ」
「おお。行ったことあるのか?」
「ううん。図書館でかじっただけ」
かぶりを振る僕に、ショーンは目を細める。
「やっぱり君はすごいな。きっともっとたくさんのものを見たり、経験を積んだなら、大物になるかもしれないぞ」
お世辞でも彼がそう言ってくれるのは嬉しかった。しかし自分の今後など全く、描けていなかった。
「僕はその町で育ったわけだけど、家はかなり貧しかったんだ。兄弟も他に三人いたけど、なんとか僕だけ高等教育を受けさせてもらって都会に出た。一稼ぎできたら家族の元に帰ろうって思ってたけど、彼らの理解のおかげで長らく好きなことに没頭できたよ」
「そこで頑張って学者になったんだね」
「そうさ。選んだ分野も面白かったけど、都会に出て数え切れない人や物に巡り会うのが何よりよかった。勿論その社会に受け入れてもらうのには時間がかかったけどね。新しい文明はいつだってワクワクするんだ、自動車だってそう。けれど、その影でいつ役目が終わるのかと、ひっそり息をするプロトタイプなものたちも僕は見落としたくない」
彼の言葉から、歩んできた人生の熱量を感じた。考えたり、追いかけたりすることが彼の生き方の中軸ならば、学者という職業は彼の能力を存分に活かせたはずだ。
「学者はとてもやりがいがあったけど、運転手もなかなかに気に入っているよ。色んな人に会えるし、話をして意見交換するのも楽しいなあ。中には難しい客もいるから本心を探ったり、距離を測ったりしなくてはならないけどね」
一気に、彼は自分の仕事について語ってくれた。その仕事で一体何が起こりここに来たのか再び気をもむが、ショーンがこの村にいる間、少しでも気を休められたらよいと願うのみだった。
僕たちはその後、雑談を続けながら一緒にアパートまで戻った。自室に戻ってから、さっきまで淡いブルーを映していた空に、日が傾いているのを見る。暮れ始めた空を見て、今までの内で最も充実した午後であったと思う。あの田舎育ちであった紳士もこの景色を見ているだろうかと、考える。
その後はいつショーンが出て行くのかを気にしながら日々を過ごした。放課後になっては彼の姿を探すのだ。時折村のはずれで見かけては、こちらに軽く手をあげる様子にそれだけで安堵するのだった。
僕を引きつけるのは彼の知る様々な知識や都会の世間話、独特の世界観や真似したい生き様の他にも、説明できないようななにかがあった。
彼には僕と話す時、目線を同じにして気持ちを汲み取ってくれる能力があった。大人になったらきっと忘れてしまうであろう子供の頃の不器用さ。僕らは知らないことだらけの狭い世界に大人に守られながら生きている、しかし自分がどうなるかなど知れるはずもないと悲観しては、誰もが大人になっていく。
その途上の心をきっと彼は忘れていないのだ。決して少年のまま大人になったのではなく、自身は大人へとさなぎを破った後に、膝を折って僕らの背丈に合わせることを習得したのである。
あんな大人になれたらと心の底から思う。子供が「なぜか?」と聞くことに、そういうモノだからそうなのだと言って、蓋をする大人にはなりたくなかった。疑問に思ったことに対し、当時の大人にそう言われた子供は同じことを繰り返す。あと一つだけショーンに聞けるのなら、どうしたらそんなに強い心を手に入れられるのか、教えてほしかった。
ある日、郵便受けを開いていると物陰から男が出てきた。このアパートは僕の父同様、出稼ぎに出ている男性が多く、居合わすのは留守を守る婦人たちばかりだった。だからショーンがここへ越してきた時も特別珍しく思ったのだ。
そしてその男は僕の憧れるあの紳士でもなかった。屈強な面構えの男は背の小さい僕にやっと気づくと、少しだけ開眼して辺りを見回してから近づいてきた。
「なあ、探してるやつがいんだけど。ここの……」
と最後まで言い終わらない内に、彼は僕の後ろを見て「やっぱりいいわ」と聞こえるか、聞こえないかくらいに呟いて去って行った。近くで見ると思った以上に大柄な体型で動作も大きかった。
僕の後ろからすぐに大家が顔を出した。彼が気にしていたのはこの老婦人だったわけだ。
「エディ、誰あの人?」
「知らない人。誰か探しているって」
そう伝えた自分の言葉にドキリとする。探している人物とはショーンのことではないか。今の大男がどこか睨みつけた様子で、こんな所へ来る理由だってそれ以外に考えられなかった。
命を狙うだなんて半ば冗談だと思っていたし、その原因さえも聞いていないけれど、知らないからこそえたいの知れない恐怖が足下から這い上がってくるのを感じた。
「何かしら。それにしても怖そうな顔の人ね」
という大家に
「ねえ、この前越してきた男の人、ブラウンさんの部屋を教えて!」
はやる気持ちを抑え訴えると、少年の唐突な頼みに彼女は驚いた。生真面目な彼女が子供だからといって、他人の部屋を教えてくれるだろうか。
「エディはあの人と仲良くなったの? 都会から来たって言うからどんなお高くとまった人かと思ったら、とっても紳士的ないい人よねえ」
と顔をほころばせた。呑気な大家に僕は余計に気持ちが焦った。
「あの人、実は」
と勢いで言いかけて止める。彼が命を狙われている話に確証はない以上、今大家さんに信じてもらえる可能性は低い。下手なことを言ったらショーンのメンツに傷をつけたり、ここを追い出されたりするかもしれないと危惧した。
どうにかして大人の力を借りたかったが、よい方法が思いつかなかった。黙ってしまった僕を見て大家が口を開く。
「ブラウンさんはすぐ出て行くのよね。あまりに短い滞在の契約だったから断ろうかとも思ったのだけど、あの人柄でしょう。好青年だし、昔の主人にそっくりで」
と、またもやショーンを褒めそやす。旦那さんにも会ったことがあるが、たしかショーンのような面影は全くなく、赤く日焼けした小さいお爺さんだったはずだ。それでも仲のいい大家夫妻をみると、人とは長い時間を過ごす内に、外見でなく中身を愛するようになるのだろうかと、遠い目をして考える。
その時閃いたことがあり、巻き込まれていた彼女ののペースから、はっと我に返る。
「ブラウンさんそろそろ出て行くって言っていてさ。荷物をまとめるのを手伝ってほしいって言われたんだ。部屋の番号も聞いたんだけど忘れちゃって」
嘘をつくのは気が引けたが、ショーンの在宅か否かを知らずに帰宅を待ち続けるのは、効率的にも僕の精神的にもいいものとは思えなかった。
「あらそうなの? 荷物がそんなにあったようにも見えなかったけど、せっかくできた友人と、最後に話がしたいのかもね」
老婦人はわかってくれたようで
「四〇二よ。入る時はノックを三回ね」
と教えてくれた。三桁の番号が階数も表してくれていることに感謝した。そして大家さんにも礼を言い階段を上がっていく。
フロアが変わってもアパートの構造は同じなわけだが、壁の染みの有無や鉢植えの種類が違う点にどことなく他所の気配を感じた。教えてもらった部屋の扉の前に立ち静かにノックしてみる。返事はなく人がいるようにも感じなかった。表札などないその冷たい扉を見つめ、彼が本当にここを住処にしているのか不安になる。
今はどういう状況なのか、彼がなにを隠しているのか知らないことがただ怖かった。もし彼が帰ってきたなら何があったのか聞こう、そして彼の話が冗談だったならば、今ならまだ笑って許してやろう。もはや自分を安心させたかったし、あの紳士が何も言わずに去って行ってしまうのが心細かった。
階段の一番上に座り日が沈み、辺りが暗くなるまで待ったが、その日とうとう彼は帰って来なかった。
昨夜、帰宅した母に心配させまいと一度自宅に戻ったのだが、彼の顔を見ないことには気が休まらなかった。夕食を済ませたあと部屋を知り得たことで、彼が帰宅したかどうかを外から確かめることにした。空気は冷えすっかり静まりかえり、木々が鬱蒼と闇を濃くしていた。アパートの部屋には所々ぼんやりとオレンジ色の明かりが灯っているのに、見上げる部屋の窓は空き部屋のように暗かった。
こちらが勝手にハラハラしているだけかもしれないが、彼が部屋を空けることが珍しくないことなのかどうかも知らないのだから仕方なかった。ただ出かけているだけならいいが、あの大男に見つかりどうにかなってしまったのではと戦々恐々した。
今日も帰宅するとそのまま四階まで上がりショーンの部屋を訪ねる。ひたすら待つ時間は、一秒一秒が鋭利な棘となり自分に刺さるように苦しかった。
その日もまたショーンには会えなかった。もう出て行ってしまったのかもしれないと考えると、黙って行ってしまったことに寂しさを覚えた。駄々をこねる子供のように振る舞うほど、もう幼くはなかったが、胸の奥には一抹の悔しさもあった。しかしそれをぐっと飲み込むと、冷静な自分が目を覚ましては、ただショーンの身が無事ならそれでいいと思うのだ。
翌日もまた同じように彼の帰りを信じて待った。階段に腰掛け神妙な面持ちをしていると女性が一人上がってきた。広くはない階段なので立ち上がって道を譲る。会釈とまではいかないが軽く目を伏せ、品のいいスカートをなびかせてショーンの隣の部屋へと入っていった。ショーンの言っていた話を思い出すと、今通った女性を思い出しどぎまぎとした気持ちになる。
さっきまで座っていた段差に腰を落とすも、どことなく座り心地が悪くなり段を変えたり立ち上がったりうろうろする。そんな奇妙な行動をしている時
「ん? なにやってるんだエディ」
声の主は笑みをたたえ不思議そうにこちらを見ている。久しぶりのショーンの顔を見て数日の間の不安な思いがはじけた。無事だったのだと安堵した後、バスタブから溢れた泡のようにぽこぽこと文句をこぼす。
「ど、どこ行ってたんだ。帰ってこない……で。何も言わないままで……」
言葉が続かなくなった僕に、彼は持っていた荷物を慌てて脇へ置きあたふたと、不器用そうに言葉をかけてきた。会話に論理的な筋道を示す彼がこんな風になる所に人間味があった。
すっかり憔悴しきった様子の僕を気遣って、彼は部屋へ通してくれた。過剰に執着し部屋にあげてもらうなど無神経だが、今日ばかりはそれに甘える。それにそれが目的であって、そうせねば解決しないことがあるのだから。
窓を開ける彼の背に僕は短刀直入に言った。
「ショーンが留守の間、人を探しているっていう男の人が来たよ」
「僕を?」と目を丸くし聞き返す彼に僕は唇を引き締め、続ける。
「誰を探しているとは聞かなかった。ショーンが前に言っていた話が本当なのか、僕は真意を知らないからすごく不安だったよ」
息を継いで
「あの男は君と関係あるの? 君は今、誰かから追われている?」
イエスかノーで答えられる質問だ。これにさえ答えてくれば僕の中の疑問はいくつか消える。そして見えてくるものもあるだろう。
ショーンは立ったまま両手の指を合わせなにか考えているようだ。そしてこちらに目を向け一呼吸してから申し訳なさそうに言った。
「関係ないよ。僕が追われることはない。」
子供に神経をかなり使わせたらしいことを悟った彼は「何から話せばいいか……」と足下を見つめる。そして片手を握って額につけると
「今、エディに説明しなくてはいけないことがあるのはわかっているんだ……。まず一つは僕がこの村に滞在する理由だね。それとその原因となる出来事だ……。ずっと隠しているつもりでもなかったけど、随分君を悩ませてしまったみたいだ」
窓から差す西日が彼の顔に不自然な影をつくっていた。
「よければ話してほしいな。大人の人相手に生意気だと思うけど、僕が聞くことで少しでもショーンの負担を減らせたなら、いいな」
ショーンは静かに頷いた。
「最も新しい雇い主との出来事だ。僕が運転手をしていた家の婦人に、僕は刃物を突きつけられた。そればかりかその数日後に直接の主人に……その婦人の夫なんだけど、その人からも恨みを買ってしまってね。その夫は本気で僕を殺そうとした」
彼は僕への悪影響を気にしてか、そろそろと言葉を選んで話しているようにみえた。
ことの次第はこうである。
雇われ運転手の彼は、主人である夫以外の家族を乗せて車を出すこともしばしばあった。その中に主人の妻も勿論いたわけである。
ショーンは持ち前の観察力で婦人が夫との仲に悩んでいることを知った。朗らかな人柄のショーンは婦人の悩みを聞き、少しでも屋敷を出ている間の気分転換になるよう努めた。しばらくして夫婦仲は更に悪化し婦人が始終夫に怯えていることも聞かされた。
善意でなにかしてやりたいと思うショーンに対し、婦人はそれとは違う特別な思いを彼に寄せ始めていた。彼女は徐々に夫よりも一介の運転手を愛するようになっていったのだ。
「笑ってくれ。婦人がそんな風に思っていたとは。彼女はとても真面目に夫と向き合っていたし気持ちを隠すのが上手な人だった」
ショーンは落ち着いた声色でそうつけ加えた。婦人は気持ちを心の底にひたすら隠し平静を装いつつも、本音はその思いを英才な彼に気づいてほしかったのだ。そして、それがある日限界を迎えた。
「彼女は急におかしくなり持っていた鞄から、料理用の包丁を取り出した。バックミラー越しにそれを確認した時、彼女は言ったんだ。私を夫の元から離れさせてくれ、愛してくれと。僕の不甲斐なさが彼女をあんな風にしてしまった」
後部座席からガタガタ大きく震える刃先を襟元につけられ、屋敷に戻ったら夫と話す場に立ち会うことを約束し、婦人を落ち着かせた。夫の前に引き出され婦人は半狂乱に、夫は怒りに顔を染めた。ショーンに掴みかかる彼を使用人たちが必死にとどめ、その日のうちにショーンは屋敷を去った。
使用人仲間の助けで身を隠したショーンだったが、ある晩皆が寝静まった頃重い気持ちを風にさらそうと河の畔に立った、その時だった。
耳元を熱い鉛の弾がすめた。
同時に破裂音が響き水面にさざ波がたつ。雇い主である夫が居所を探り当て発砲したのである。夢中でかくまってもらっていた河川敷の小屋に飛びこむと、自我を失ったように乱射される音を聞き続けた。
騒ぎになり通報された夫は翌日逮捕され、それに至った経緯も説明された。ショーンに関しては夫婦間トラブルの被害者として判断が下された。婦人は精神を病み都会から田舎へ移り住むこととなり、それまでの間は婦人に近寄らないでやってほしいという、かつての仲間の意見からショーンも都会を離れることに決めたのだ。
「これが、僕がここにやって来た理由だ。情けなくて話す気にもなれなかったけど、聞いてくれたのが君でよかった、と思う」
歯切れ悪く言う彼にかける言葉に悩んだ。
「ショーンは悪くないじゃない」
下手な慰めになってしまうが言わないよりいいかと思った。窓際のデスクに腰を預けていたショーンは、顔はそのまま緑色の目だけを動かしてこちらを見た。
長引きそうな沈黙を打ち切ったのはショーンだった。
「婦人が引っ越すまでの時間がここでの滞在期間だった。ここ数日は都会に戻って次の生活を始める準備をしていた。あ、婦人はすでに移住したと連絡を受けたから出かけたんだよ?」
「わかっているよ。それに僕がどうこう言えることじゃない」
「君も気持ちを押し殺すばかりではだめだよ。人間はそんなに強くない」
優しかった人間が恐ろしい変貌を遂げた例を、実際に目の当たりにした人が言うことは、もの恐ろしさが一層強かった。
「人はたくさん秘密を抱えている。弱いところを隠して嘘をついて、自分をつくりあげている。僕だって生きていく中で少しずつ鎧を集めてきた。その鎧の下を知ろうなんて、正しいのかな……」
人の本質を探ろうとする彼の無意識の情動と、それが叶わなかった先の事件との狭間における葛藤である。
また、少しの沈黙。
「できる人間がすればいいんじゃない。婦人はショーンが話を聞いてくれて嬉しかったはずだよ。本音って一方的に知ることじゃないもの。片方がよびかけてくれてそれに応えたいって思った時、心を開いて話ができるんだ」
僕はそうだった、と言うのは気恥ずかしく伏せておく。いつか自分が言った言葉を引用して励まされた彼は、わずかにはにかんでみせた。
「君のおかげで思い詰めていたものが軽くなったよ。いや、正直君と出会った時からどこか新鮮な気持ちだったんだ」
「純粋な田舎者をからかうのはやめてよね」
「からかってないよ。君は真面目過ぎるんだ。もっとジョークとか言った方がいいぞ」
明るさを取り戻した彼を見て僕もほっとする。子供の自分が心配しなくても、この人は大人なのだからしっかり立ち直ってやっていけるというのに。
いつもなら自分の中で反響し消えていく言葉を素直に出してみる。
「心配した」
「……ありがとう。ごめんね」
これだけの少ない言葉で、そこにあるかわからなかった僕の心が、触れられそうなほど確かに満たされた。
「そういえば、あの時ウッドになんて……」
と言いかけた言葉にかぶせ階下からから悲鳴が聞こえた。
二人は顔を見合わせそちらに意識を集中させた。途端にけたたましい足音を響かせ誰かが誰かを追うように駆け上がって来る。
僕が扉を少しだけ開けると先日見た隣人の女性が肩で息をしている。こちらに気づくと飛びついてきて扉をつかみ
「かくまって!」
と叫んでショーンの部屋に転がり込んだ。そしてご丁寧にびたりと扉を閉めた。僕はその反動で外にはじき出され、追いついてきたあの大男と対面した。
大男は恐ろしい剣幕でこちらへやってきたと思ったら
「俺の恋人なんだ! だけど彼女は他の奴と、しかも複数人とできてるみたいで。俺は彼女を諦めた方がいいのか、それともまた俺の所に戻ってきてくれるのかわからないんだ。だから話してほしいんだ! このままじゃお互いだめだって!」
と悲痛に訴えた。
ひとしきり説明してくれて、大体の理解ができたところで女性と取り残されたショーンのいる扉の奥を見つめる。大男が取り乱し彼女の名前を呼んでは拳で扉を叩き始める。
これでは彼女も出てこない。まずはどうにかして彼を止めなくてはならない。
すると男の騒ぐ声で聞こえづらいが、中から扉を押し開けようとする衣擦れのような音がした。僕ははっとして咄嗟に男に叫ぶ。
「お兄さん! 正しいノックの回数は?」
「ええ??」
突然の謎の問いかけに男は面食らったように振り返る。その時扉を殴りつける手がとまり、その一瞬をついて外開きの扉が男に向かってはねあがった。
男は顔の横でそれを受け止め、衝撃でよろりと座りこんだ。
その間に中からショーンが出てくる。その後ろに隠れるように女性もいた。伸びかけている男を見下ろしたじたじとして「やるね運転手さん」と言うと、「ハンドルは意外と重たいんだ」と呼吸を整えながら答えた。
そして苦悶の表情のまま、
「あなたの気持ちはよくわかります。彼女も話し合いの場は設けたいようですが、二人きりというのは、嫌なようで……」
と彼女の代わりに話すショーンに
「……おまえ誰だよっ!」
と男が泣き叫ぶ。こればかりは彼の思いに僕も同感である。この男は論理的に行動する性質に見えたが、思わぬところで旅立っていくのが理性である。
「おまえが彼女を!」
振りかぶる巨漢を相手に紳士は素早く通用する技を見切ったらしい。
瞬時に両膝をつき、その姿勢のままくぐらせた手が向こう側の力を吸収した。
驚くべきはその後、動作の勢いを利用して自分より大きな相手を持ち上げた。時間にして何秒もかかっていないあっという間の出来事にほとんど目が追いつかなかった。
投げた後、立ち上がって向きを変えると
「落ち着いてください。僕はただの隣人です。お節介なのは承知ですが二人が望むなら、ちゃんと話し合いができるよう尽力したい」
と、なおも抵抗する男を押さえつけながら話しかけた。ショーンの肩越しに女性が立ち、
「ジョニーごめんなさい。私、つい……」
としおらしく謝った。それを聞くと男は「エミリー……」とくぐもった声で呼びかけては嗚咽を漏らし始めた。四人を取り巻く気まずい雰囲気の中、
「あんたたち、なにやってるのよ」
と現れたのは大家であった。かなり大きな音がたっていたはずだ。気づかれないはずがなかった。ショーンが簡単に事情を話すと彼女は救世主のごとく二人の男女の話し相手を買って出た。老年の大家さんの話なら二人も落ち着いて聞くかもしれない。僕らは大家に二人を任せることにした。
老婦人がひとまず嵐のような男女を連れて去った後、僕は気が抜けて
「彼女の言った『つい』がなんだったのか、僕にはわからないや」
と言う。少年の疑問に大人の紳士も
「僕もわからない。彼女の思いをはかるには時間も情報も足りない。けれど彼の方は互いの思いを知ろうとしていたね。まずは知ろうとすること、人に興味をもつことが愛の始まりじゃないかな」
わからないけどね、と彼はつけ加える。
この人の論理と哲学とを織り交ぜる見解についていくのは毎回大変だったが、そんな考え方もありなのだと思う。理想と現実は対であると同時に切り離すことはできない。
それと似ていて論理と哲学、言い換えると感情は互いに両極端であるのに、それでいてとても近いものなのだ。
これは後から知ったことだが、僕を自室に送り届けた後、話し合いをする三人をショーンは訪ね、穏便に交番へ場所を変えさせたようだ。
真面目だったジョニーもきっと精神的に参って、いつ理性を失うかわからない。それによって傷つく三人それぞれのことを心配し選んだ結果であった。警察の名を出したときジョニーもエミリーもはじめは嫌な顔をしたというが、結論から言えば第三者の目があることで客観的に話し合いを進められたらしい。
彼は時に現実を突きつける。しかし現実を生きるからこそ生まれる強さがあり、現実を受け入れる時に優しさが必要になるのだ。
翌週、ショーン・ブラウンは小さなトランクを持ってアパートを去った。日曜日のよく晴れた朝だった。
駅へ向かうバスに乗るため停留所まで僕は見送りを申し出た。その道中、最後となるだろう会話で
「最後に聞きたいんだけど、ウッドにはあの時なんて言ったの?」
「ええ、大したことじゃないよ」
はぐらかす彼を僕がじっと見上げて黙っていると
「君も見かけによらないねって」
「見かけに? どういうこと?」
「だってそうだろう? 僕の知らない部分の彼がきっとたくさんいるんだ。それを見つけてあげる時間は、残念ながら僕にはなかったけど」
ふうんと聞きながら彼の思想にまた触れる。
じきに停留所に到着し、彼のもうひとつの荷物を手伝って持っていた僕はそれを彼に渡す。彼はそれを手に取るのを少々迷ってから、
「どうしようか本当に悩んだのだけど、君に渡すことにする」
そう言って包みからシャーロックシリーズの新刊を取り出した。それを僕は受け取り、嬉しさと動揺とが入り交じった気持ちになった。
「いいの? でも、これで僕は都会に出かける用事がなくなっちゃった」
彼はというと「都会なんてそんないい所じゃないぜ?」と笑う。
「排気ガスだらけで一日中煙っている。洗濯物も干せやしない」
「誰かさんに見られて部屋を特定されることもなくて済むね」
と言ってみる。ひらけた空に笑い声がからっと響いた。
やって来たバスの二階の天井がないのや、掲げられたなにかの看板の文字を見上げて、僕は珍しい乗り物を観察する。乗り込む時彼は
「それじゃあねエディ。いつも心に余裕を忘れるな」
と言って車中へ消えていった。発車に備えて一歩後ろに下がると、着席した彼はこちら側の窓から窮屈そうに覗き、僕の名を呼ぶ。
「あと人は信じるなよ」
「どうして?」
「さあね!」
彼は最後まで楽しそうだった。
人は見かけによらない、本当の自分は鎧の下に隠している。そんな言葉を思い出す。僕はまたあの紳士にからかわれたのだろうか。しかしそれでもいいのだ。これから僕の進む道しるべは、彼の見せてくれた生き様であり、その心の持ちようなのだから。
黒い車体が動きだすのを待って、
「いつも心にジェントルを」
澄んだ空の中を進み、どんどん小さくなっていくそれに向かってそっと呟いた。彼という在り方に、相応しいであろうその名を贈る。バスの中の人物に、この一ヶ月の感謝を込めて。
あとがき
本作は私が初めて挑戦した短編作品でした。荒削りの拙い文章であったと思いますが、ここまで読んでいただきありがとうございます。
さて、この作品中何度か登場する「ジェントル」という言葉は元来イギリスの身分階級を表す言葉です。しかし、今日皆様も想像できるであろう紳士的な人物、または振る舞いのことをさす言葉とも知られます。本編では英国紳士という型紙を体現したような登場人物ショーン・ブラウンが、自身の生き方、思想を基に話を展開させます。そして彼と出会うことで、その独特な在り方に惹かれる語り手の少年エディは、子供ながらに人の世の渡り方を考えていきます。度々二人の論点になるのは「人は見かけによらない」「真意は自分の鎧の下に隠している」ことです。エディはウッドへ悔しい思いも案ずる思いも、これまで言えずに黙ってきました。そのウッドもまた、そのような行動の背景になにかを抱えていたのかもしれません。ショーンは人を分析する観察眼に優れているにも関わらず、婦人を救えなかった過去をもちます。人は誰しもなにかを隠しては、上手くつきあい、苦しみ歩んでいます。けれど人間は弱いものです。認めてほしくて、解放されたくて誰か誰かともがいています。ショーンもまた、年若いエディに自分の心の淵を見せては助けを求めていたのではないでしょうか。最後に、エディは憧れの紳士の論理であり、哲学である考え方ないしは信念を、彼の生き方の風格も含めてジェントルと呼びます。我々が彼の様になにか一つ、自分の信念として定めるものができたなら、それらはきっと自分を、人を、守ってくれると思います。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
ハロージェントル 坂本治 @skmt1215
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