ベートーベンの笑顔
どこの小学校にも、音楽室には、有名な音楽家の絵がかざってある。
バッハ、ベートーベン、モーツァルト、ショパン……。
たいていそれは絵ではなくて、絵を機械でコピーしたものだ。
近くで見るとよくわかる。手でさわってみてもいい。つるつるとした紙だから。
ところが、北北西小学校のベートーベンだけは違っていた。
バッハやモーツァルトの絵はコピーなのに、ベートーベンだけ本物の油絵なのだ。
それにまつわるウワサはあった。
数十年前、学校が開校したときに、有名な画家から贈られたものだという。画家は絵をひとそろい、セットで学校に贈ったのだという。そうして、そのあと、しばらくして亡くなった。
絵はひとつずつ盗まれた。なにせ有名な画家だったから。盗まれたあと、学校は代わりにコピーの絵をかざることにした。ひとつ減り、ひとつコピーに替わる。ついに、最後に、ベートーベンの絵だけが残った。
そんなウワサだった。だけど、証拠はひとつもなかったし、そもそもそんなウワサも、いまはもう、だれも覚えていなかった……。
*
その日、
むすっとした表情で、ホウキで掃いていく。
不機嫌というわけじゃない。
もともとこういう顔で、楽しいときも悲しいときも、表情が変わらないんだ。
それに、実を言うと江里は機嫌がよかった。
放課後、音楽室にひとりでいられるこの時間が、一日の中でいちばん楽しかった。
ほんとうは、掃除は一週間で替わるはずだった。
だけど江里が熱心に掃除をするから、ほかの人は掃除をしなくなり、この三週間、江里がずっと掃除をしていた。
江里が静かにホウキで掃いていると、まるで、この部屋が自分だけのもののように思われた。
大きなピアノ、棚にならんでいる楽譜、五線譜が描かれた黒板……。
たくさんのイスをながめると、まるで、だれもいないコンサートホールに、ひとりで立っているような気がした。
もしもこのあと、大勢の観客が入ってきて、イスが人で埋まったら……。
江里は空想した。
自分がピアノに座って弾きはじめる。
伴奏とともに歌いだしたら、きっと観客は、私の歌に聴きいってくれる。
江里は歌手になりたかった。
自分で作詞作曲して、自分で歌う。
たくさんの人に、聴いてもらいたかった。
江里はまた、ホウキで床を掃きはじめた。
掃きながら、そおっと歌いはじめた。
自分で考えたメロディーだ。
詩はまだないから鼻歌みたいになるけど、それでもいい。
大きな声を出すと、廊下を歩いてる人に聴かれるから、内緒話のように、静かに歌った。
そうして床を掃いていって、音楽室のうしろまできたときに、止まった。
見ないようにしよう。
江里は、それをなるべく見ないようにしてチリトリにゴミを集めた。
ぜったい見ない。
そう決めていた。
うしろの壁にかざってあるのは……音楽家の絵だ。
その中にある、ベートーベンの絵……。
学校の七不思議は知っていた。
音楽室で授業があるとき、男子が話してるのを聞いた。
「ベートーベンの絵って目が動くんだってよ」
「ウソだあ」
江里もウソだと思った。
だから別に、ベートーベンの絵は怖くなかった。
なのに絵を見ない理由は……。
男子の声が、江里の記憶の中から浮かびあがってきた。
六年生になったばかりの、いやな記憶だ。
「ベートーベンの絵って、秋田江里に似てるよな」
「ホントだ、そっくりだあ!」
「秋田はベートーベン!」
「秋田はベンさん!」
思い出しながら、江里はチリトリに集めたゴミをゴミ箱に捨てた。
いやな記憶も、いっしょに捨ててしまいたかった。
あれ以来、江里は男子から「ベンさん」と呼ばれてる。
たしかに江里の顔はむすっとしている。口の両端が下がっていて、ぎゅっときつく口を結んでる。
目と目のあいだに力が入って、なにかをにらみつけてるようにも、なにかに苦しんでるようにも見える。
そんな顔がベートーベンの絵に似てるのだと、男子はからかった。
江里は女子からも、笑ってるように見えないと言われていた。
それは、小学校に入ったときからずっとだ。
そんなふうに言われていると、だんだん笑うのもいやになってしまう。
しだいに心を閉ざすようになり、いまはもう、笑うのをやめてしまった。
音楽室の掃除は終わった。
江里が廊下に出ると、同じクラスの男子がふたり、通りがかった。
こっちを見て笑ってる。
通りすぎながら、なにを言いあってるのか、江里にはわかる。
「音楽室からベンさんが出てきた」
そう言って笑ってるんだ。
悲しみを抑えるために、顔に力を入れた。涙が出ないように……泣いてるところを見られないように。
でもそうやって顔をしぼませたら、よりベートーベンに似てしまうかもしれない。
江里は引き返して、だれもいない音楽室でひとりで泣いた。
ここならだれにも見られてない。だいじょうぶだ。
そう思って泣いた。
*
次の日、となりのクラスが音楽室を使ったあと、妙なウワサが流れた。
ベートーベンの目が動いたらしい。
見たのは二組の男子で、いつもはしゃいでるうるさい子だったから、最初は信じる人はいなかった。ただのウワサで終わっていた。
だけど、江里たち三組が、午後の授業で音楽室を使っていると突然「きゃああ!」という悲鳴がして山井今日子が倒れた。
先生の指揮でリコーダーを吹いていたみんなは、いっせいに今日子を見た。
床の上でばたばた手足を動かして痙攣してる。
先生があわてて今日子を連れ去ったあと、残されたみんなはウワサした。
霊感のある今日子はきっと、ベートーベンの目を見ちゃったんだ。
みんなリコーダーの演奏に集中してたけど、今日子は二組のウワサを聞いて、一瞬、うしろの壁を見たんだ。
そのとき、かざってあったベートーベンの目がぎょろりと……
動いた?
江里は思った。動くんなら目じゃなく顔も表情も全部動かせばいいのに。
私とぜんぜん違う表情になれば、みんなから「ベンさん」なんてバカにされないのに。
けっきょく、今日子はもどってこなかった。
親が迎えにきて、タクシーで帰ったらしい。
音楽の時間が終わって、みんなが教室にもどったとき、江里は居心地の悪さを感じた。
なんだろう? なに?
見まわすと、教室のすみで、男子の何人かが、笑いながらこっちを見ている。
江里が見ると、男子たちはさっと目をそらした。
そうしてうしろを向いて笑いあってる。
いやな気持ちだ。すごくいやだ。
休み時間が終わって、先生が教室に入ってきた。
みんないっせいに席にもどる。
そのとき、江里の横をさっきの男子が通りすぎた。
「ベンさんの呪いだ」
男子の声が聞こえた。
え? どういうこと?
男子はふたつ前の席に座って、ニヤリと江里をふり返った。
授業がはじまっても、先生の言葉がなにも入ってこない。
「ベンさんの呪いだ」
さっきの言葉がよみがえる。
私のせい?
そんなわけない。
だってあれはベートーベンの絵だし、私は……私は秋田江里だし……顔だって……あんな顔じゃないし……。
これからまた、変なことを言われるんだ。
男子たちにバカにされて、からかわれて。
きっと、クラスの女子も助けてくれない。
自分では不機嫌なつもりじゃないのに、みんな私が不機嫌だと思ってる。
みんな私の顔を見て、避けてるんだ。
放課後、音楽室に向かう足が重かった。
掃除をしないといけないけど、音楽室にいるところをだれかに見られたら……
またバカにされる。「ベンさんの呪い」って。
廊下をのろのろ歩いていたら、なんだか学校が、いつもと違うように思われた。
放課後って、こんなにさびしかったっけ?
みんな、引いていく波のように家に帰っていく。
だんだん、学校が眠るように静かになっていく。
陽が落ちはじめ、だんだん暗くなっていく。
江里は、だれにも見られてないのを確認して音楽室に入た。
しんと静まった教室に、机やイスが幽霊みたいにならんでいる。
うしろにある用具箱から、ホウキとチリトリを出した。
なるべく、うしろの壁を見ないようにする。
ベートーベンの絵を見ないように。
音楽室の前の方から、ホウキで掃いていく。
聞こえるのは、さっさっさと言うホウキの音だけ。
江里は、いつもみたいに歌わなかった。
口を固く結んで、とにかく早く、掃除を終わらせたかった。
ホウキで掃きながら、だんだん、うしろへ移動していく。
どうしてみんな、私に冷たいんだろう。
私の顔が変だから? ベートーベンに似てるから? むすっとしてるから? 笑わないから?
楽しかったはずの音楽室の掃除が、こんなにいやで、苦しいなんて。
もうやめたかった。
先生に言おう。
掃除が終わったら、今日が最後だって言いにいこう。
それから、なるべく音楽室に近よらないようにして、音楽の時間は仮病を使って保健室にいって、みんなに「ベンさん」って言われないようにしよう。
それでも言われつづけたら……もう学校にいられない……。
音楽室なんて嫌いだ。学校も嫌いだ。みんな嫌いだ。
ベートーベンもモーツァルトもバッハもショパンも、クラスのみんなも……なにより自分がいちばん嫌いだ。
こんな顔の自分が嫌いだ。
いつも不機嫌な顔をした、笑えない自分を消してしまいたい。
気がつくと江里は音楽室のいちばんうしろにいた。
もうぜんぶ掃き終わったんだ。
目の前に壁があった。
見あげると、音楽家の絵がかざられている。
一番左に、ベートーベンの絵がある。
むずしそうな顔をして、なにもかも嫌ってそうな顔をして、眉をよせて口をぎゅっと結んで、人生で一度も笑ったことのないような顔をして。
私みたいだ。
江里は思った。
「笑いなよ!」
突然、気持ちが口からこぼれた。
ベートーベンに向かって吐き出した。
「笑えばみんな、好きになってくれるかもしれないでしょ!」
江里は叫んだ
「笑いなさいよ!」
だれもいない音楽室に、江里の声が響いて、消えた。
そのとき、ベートーベンの目がぎょろりと動いた。
「あっ!」
左から右へ、目が、なにかを追うように動いた。
ウソでしょ?
もう一度見ると、目は右を見ている。
あれ? いつもはどっちを見てたっけ?
右? 左?
とまどっていると、ぱらぱらとなにかが落ちてきた。
なんだろう?
見ると、ベートーベンの口の両端が、ぎこちなく上がって、頬の部分が持ち上がっていく。そのたびに絵の具が剥がれ、ぼろぼろと落ちてくる。
もしかして、笑ってる?
ぎゅっと結んでいた口が左右に開いて、強くよせていた目元も、おだやかに垂れ下がっていく。でも……
「ダメだよ!」
江里は叫んだ。
だって、ベートーベンが笑顔になるにつれて、絵の具がどんどん剥がれていく。
「笑っちゃだめ!」
笑えって言った自分を後悔した。
「もうわかったから!」
江里が言っても、ベートーベンの笑いは止まらなかった。
頬の絵の具が剥がれて、穴が開いた。
目元からぼろぼろと、涙みたいに落ちていく。
「もうやめて……」
江里の目からも、涙がこぼれた。
「もう、わかったから……笑い方、わかったから……」
最後に、雪崩(なだれ)みたいにどさどさと、ベートーベンの顔が一気に落ちてきた。
あっ、と江里は逃げた。
床に、粉々になった絵の具が飛び散った。
すごい音だった。
ゆっくり見あげると、ベートーベンの顔はなくなっていて、額縁と、汚れたキャンバスだけが残っていた。
*
翌月、ベートーベンの絵は、ほかの音楽家と同じように、コピーの絵に変わった。
それから、ベートーベンの目が動くのを見た人はいなくなった。
江里はいまも、音楽室の掃除をしている。さっさっさとホウキで掃きながら、ひそかに、歌手になるために、静かに歌ってる。
たまに壁を見ると、コピーになったベートーベンが、むすっとどこかを見つめている。あれ以来、何度話しかけても、笑うことはない。
江里はベートーベンに向かって、口をにかっと広げ、ぎこちなく頬をあげてみる。まだ引きつった顔だけど、こうやって練習をつづけていたら、いつか人に見せられる笑顔になるかもしれない。
きっと最初に笑顔を見るのは、ベートーベンだ。
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