ピアノの音が聞こえるよ

 理子りこ夏実なつみが教室に残っていると、いつものように足音が近づいてくる。

 ドスンドスンと巨人のように大きな音。


 ガラガラとドアが開いて、国吉先生がヌッと顔を出す。

「おいお前ら、いつまで残ってるんだ」


 理子と夏実にとっては、いつもの放課後の光景だ。

 だれもいなくなった教室で、ふたりでペチャクチャしゃべってると、国吉先生がはやく帰れと注意に来る。


「もうすこしで帰りまーす!」


 背が小さいけど強気の理子は、いつも国吉先生に、ちょっと生意気に返事をする。

 先生は理子の言葉なんか聞いてないようで、教室をキョロキョロ見回して、また大きな声で言う。


「いいかげん、はやく帰れよ」

「はーい」


 理子が返事をする。

 国吉先生がだまってジッと待ってると、気の弱い夏実が、ようやく返事をした。


「私も……理子ちゃんといっしょに、もうすぐ帰ります」


 国吉先生は小さくうなずくようにして、教室のドアを閉めた。

 ドカドカと歩いていく先生の足音を聞きながら、理子は、


「もうすこし残りまーす!」


 理子の言葉を聞いて、夏実は笑った。

 ふたりでケタケタ笑ってると、ようやく、あの音が聞こえてきた。


 ふたりは急に笑うのをやめて、おたがいの顔を見あわせた。

 やっぱり、この時間になると聞こえてくるんだ。




 北北西小学校、七不思議のひとつ。

 放課後に聞こえてくるピアノの音。


 ふたりがいつまでもダラダラ教室に残ってると、聞こえてくるんだ。


 ピアノの音は、ひとつ上の4階から聞こえてくる。

 音楽室だ。


 4階のいちばんつきあたりに音楽室があって、そこにはもちろんピアノがある。


「理子ちゃん……やっぱりこれって、幽霊のしわざかな?」

 おびえながら、夏実が聞く。ギュッと理子のそでをつかんでる。


「だいじょうぶだよ、たんなるピアノの音じゃん」

「でも、幽霊なんじゃない? 放課後にピアノを弾く人なんていないし……」

「だとしても、この幽霊、ヘタじゃない?」


 たしかに、聞こえてくるピアノはうまくなかった。

 たどたどしく、一音一音、たしかめるように弾いている。


 でも不思議だった。

 ヘタでもずっと聞いてると、耳が慣れてきて、ちょっぴり好きになる。

 ふたりとも、このピアノの音は、嫌いじゃなかった。


 もちろん夕暮れの校舎に聞こえてくるピアノなんて怖いに決まってる。

 だけどそれより、だれが弾いてるのか確かめたいという好奇心がわいてくる。


「ねえ夏実、音楽室に行ってみようか」

「やだよ、怖いよ~」


 理子は怖がる夏実を引っぱるようにして廊下に出た。

 赤い夕日に染まった廊下はシーンとしてだれもいない。

 もうみんな、帰ってしまったんだ。


 そんな静かな廊下に、ピアノの音が不気味に響く。

 さすがの理子も、ちょっと怖じ気づいた。


 夏実は泣きそうになって理子にしがみつく。


「理子ちゃ~ん……」

「だ、だいじょぶだって、ほら、手にぎろう」


 ふたりはギュッと手をにぎった。

 夏実だけじゃなく、理子の手も汗で濡れている。


 ふたりは廊下を歩いていって、ゆっくりゆっくり、階段をのぼりはじめる。

 段をあがるたびに、だんだんピアノの音が大きくなっていく。


「もうダメだよ~怖いよ~」

 夏実は怖すぎて、階段でしゃがみこんでしまった。


「ちょっと夏実、こんなとこで座らないでよ、ほら、もう少しで4階だから、ね」

 と言った瞬間、上の階のピアノの音が、ぴたりとやんだ。


 ふたりは無言で顔を見あわせる。

 どうしよう、と心の中でおなじことを考える。


 このまま階段をのぼるべき? それともさっさと帰った方がいい?

 理子が夏実にそう聞こうとしたとき、4階の廊下から足音が聞こえてきた。


「こっちに来る!」

 理子が言うのと夏実が叫ぶのは同時だった。


「きゃああ!」

 ふたりは階段を駆けおりる。


「だれかくる、だれかくる!」

 ふたりは心の中で叫んだ。




 つぎの日の放課後も、ふたりは教室に残った。

 昨日のことがあったから、はやく帰りたいと夏実は思ったけど、理子はむしろ興味がわいていた。


 今日もまた、巨人のような足音が廊下から聞こえてくる。

 そうだ、と理子は思った。

 昨日、4階から聞こえてきた足音は、聞きおぼえがあった。


 あの足音って……

 ガラガラと教室のドアが開いた。


「おいお前ら、いつまで残ってるんだ」


 また、いつもの会話だ。


「もうすこしで帰りまーす!」


 理子が国吉先生に言うと、先生はじっと教室を見た。

 理子は国吉先生を観察する。

 もしかして先生が……


「いいかげん、はやく帰れよ」

「はーい」


 理子は自分の推理に自信があった。

 きっと、そうだ。


 夏実も先生に言う。

「私も……理子ちゃんといっしょに――」


 先生は聞き終える前にもう廊下を歩いていく。

 ドスンドスンというあの音。そうだ、4階から聞こえた足音は……。


 理子と夏実は先生がいなくなったのを確認して、廊下に出た。


「先生はきっと4階にいったんだ」

 理子が言う。


「え、でも……」

 夏実はまだ、なんのことだかわかっていない。

 ふたりが階段をのぼりはじめたとき、やっぱりほら、聞こえてきた。


 ピアノの調べ。

 ポトンポトンと、不規則な雨だれみたいなテンポで、どこかさびしげな音。


 階段をのぼりきると、やっぱり音は、廊下のいちばん奥から聞こえてくる。

 そこは、音楽室だ。


 ふたりは廊下をゆっくり歩いていく。

 4階は、3階よりも壁や天井が古かった。


「4階は古いね」なだめるように、理子は話題をふった。

「うん、そうだね……」夏実はふるえながら返事をする。

「3階は前に、火事になったからね」

「うん、そうだね……」

「火事は3階だけだったんだね。あのあと壁も天井も直して、新しくなったからね」

「わ、私たちの教室もね……」


 ふたりは音楽室の方へ、だんだん、だんだん、近づいていく。

 たどたどしいピアノの調べが、どんどん近くなる。


 理子は思った。

 ついに、学校の七不思議のひとつが解明されるんだ。

 ふたりは音楽室の前まできて、ドアのガラス窓からそぉっと中をのぞく。


 夕日が、音楽室を真っ赤に染めていた。

 奥のピアノに、国吉先生の大きな体があった。


 先生は前かがみになって、右手の人差し指と左手の人差し指を使って、ポトポトと鍵盤を押している。

 先生が押すたびに音が生まれ、それらがつらなってメロディーとなっていく。


 理子と夏実には、その音が、なぜかとても、せつなく感じられた。

 どうしてだろう、国吉先生のうまくないピアノの曲が、心にひびく。


「理子ちゃん、だれかくる!」

 夏実の言葉にふり返ると、廊下を歩いてくる女の人が見えた。


「どうしよう?」

 と言う夏実の手を、理子はつかんだ。


 もう廊下の行き止まりだし、逃げ道はない。

 放課後まで残っていたんだから、きっと怒られる。


「こっち!」

 理子は夏実を引っぱって、音楽室に飛びこんだ。


 国吉先生はピアノに集中してる。

 下を向いて鍵盤をじーっと見つめながら弾いている。

 ふたりには気づいてないみたいだ。


 ふたりが音楽室に入って、机のうしろに隠れたとき、ドアが開いた。

 ガラガラと大きな音をたてたので、ピアノの音も止まった。


「あ、どちらの方ですか?」

 国吉先生はいつもとちがう調子で、入ってきた女性に聞いた。


「あの、私、国吉先生の代わりにクラスを担当させていただく、岸田佐江子と言います」

 岸田先生は、頭をさげた。


「ああ、そうですか、私の代わりの先生……。こんなときにすみませんね」

「いえ、そんな」

「いやね、子どもが生まれたんですが、うちの奥さんが調子悪くて……だからいっそ、男だけど育児休暇を取ろうということになりまして……」

「はい、聞いてます。ご家族を大事になさってるんですね」


 そう言われて国吉先生は頭をかいていたが、ふと、岸田先生を見た。


「でも、赴任されるのは夏休み明けからですよね?」

「はい、でも国吉先生が、こうやって毎日弾いてらっしゃるというお話を聞いて、あの……」

「聴きにきたんですか?」

「はい……」


 ハハッ、と国吉先生は笑った。


「なにも、ピアノを弾くことまで引き継がなくてもいいんですよ。これは私の趣味みたいなものなんで……校長も嫌がってたでしょ」

「あ、はい、こまってました」


 それを聞いて、国吉先生はまた大きな声で笑った。

 だけどすぐに、悲しい表情に変わった。


「私みたいなもんが、毎日放課後にピアノなんて、ねえ。弾いてる理由も聞いてますか?」

「はい、すこしは。でも、くわしくは……」

「火事があったんですよ。3年前。そんなに大きくなかったんだけど。でも、煙がすごい出て、ふたり……」


 国吉先生は言葉をつまらせた。

 それ以上は言いたくないようだった。だけど……


「ふたり、亡くなったんです。女の子で、仲が良かった。いつも、はなれずにいっしょにいて、放課後になっても、教室でずっと話してたんですよ。

 だから、あの日も、おそくまで残ってた。私はふたりに、『早く帰れよ』って言ったんです。そのときふたりは『もうすこしで帰りまーす』って。いまでもそのときの声や表情、どんなふうに言ったのか、どのくらいの時間をかけて言ったのか、忘れませんよ。

 もしあのとき、私がもっと強く言ってれば、ふたりはすぐに帰ったかもしれない。火事に巻きこまれなかったかもしれない……。いまでも、ずっと、そのことばかり思うんです……」


 国吉先生は大きな手で目を押さえた。

 そうしてゴシゴシ涙をふいて、照れくさそうな顔をした。


「だから、ふたりのために、ピアノを弾いてるんですか?」

「ええ。毎日、教室の前を通って、ドアを開けて、ふたりに声をかけてます。返事はきこえませんが、きっと、ふたりがなにか言ってくれてるような気がして。それから、ここにきて、ピアノを弾く」

「ショパンの『ノクターン』2番ですね」

「ええ、うまくないでしょ」


 国吉先生は赤い目で笑った。


「いいえ、素敵です」

「そのうち、うまくなると思ったんですけどね。3年弾いてもこの程度です。教員免許取るときは、ハハ、いまの奥さんに徹夜で教えてもらったんですよ」

「ふたりはきっと、先生のピアノ、毎日聞いてると思いますよ」

「そうでしょうか」

「先生の気持ちは、届いていると思います。明日から私、代わりに弾かせていただきます」


 岸田先生がぺこりとお辞儀をした。


「お願いします」

 つられるように、国吉先生もピアノの前に座ったままお辞儀をした。


「でも、私なんかでだいじょうぶでしょうか……」

「だいじょうぶですよ。ふたりともいい子でした。先生のピアノに文句なんか言いませんよ。むしろ、前よりピアノがうまくなって、喜ぶと思いますよ」


 国吉先生が大きく笑った。

 岸田先生もつられて笑った。


「ふたりのお名前、なんて言うんですか?」

「田中理子と、長野夏実です」

「理子ちゃんと、夏実ちゃん……」


 国吉先生は鍵盤に手を置いた。


 最後にもう一度、ふたりのために「ノクターン」が弾かれた。

 放課後の校舎に、ピアノの音が鳴りつづけた。




 つぎの日、夏休みに入った学校に、生徒はひとりもいなかった。

 それでも放課後、教室のドアが開いて、夏休み明けから赴任する岸田先生が、教室の中を見回した。


 夕日に染まった教室は静かで、だれもいなかった。

 岸田先生は、だれもいない教室に言った。


「もう、家に帰る時間ですよ」


 しばらく待って、また言う。


「理子ちゃん、夏実ちゃん、気をつけて帰ってね。でも、もしもうすこし残ってるなら、今日から私がピアノを弾くから、聴いてね」


 岸田先生が、音楽室に向かおうと、ドアを閉めようとしたとき、ふとなにか、聞こえたような気がした。


 先生は、笑顔で言った。


「ありがとう。がんばるからね」

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