『せつなモノガタリ』(学校の七不思議・妖怪……)
島崎町
泣ける学校の七不思議
トイレの花子さん
悲しかった。
わたしは悲しくなると図書室にいく。どうしてなんだろう、自分ではわからないけど、涙を流したいとき、静かな図書室にいく。
涙をこらえながら図書室に向かっていると、
「
さっき教室で、いっしょに帰ろうって言ったわたしに、遙香が突然そう言った。
どうして黙ってたの? 早く言ってくれたら、いっしょにいた時間をもっと大切にしたのに。もっともっと遙香にやさしくできたのに。
思い返すたびに涙がこぼれる。カバンからハンカチを出して涙をふくけど、止まらない。
1階の廊下のいちばんすみ、さびしい場所に図書室はある。ドアを開けると、たくさんならんだ本棚や、中央の広場にあるテーブルやイスが、夕陽に赤く照らされてる。
図書室にはだれもいない。静まりかえって、まるで廃校になった小学校みたい。でも、わたしにはその方がよかった。だってひとりで泣ける。
わたしは貸し出しカウンターの前を通って、中央の広場に向かった。広場の丸いテーブルにはイスが4つあって、そのうちのひとつに座った。
あれ? テーブルの上に、本が1冊、招待状みたいに置いてある。手にとって中を開こうと――
「その本借りるの?」
えっ? 見あげると、テーブルをはさんだ向こうのイスに、見たこともない男の子が座ってる。
だれ?
わたしはあわてて目をぬぐう。もしかして涙がまだ残ってるかも。
「その本、借りるの?」
男の子が、わたしをじっと見つめて聞いてくる。あ、全身真っ白なのに、瞳だけが青い。しかもきれいに澄んだ青色だ。
わたしは泣いてたのがバレたくなかった。だからその場しのぎに、
「う、うん。いま、貸し出しカードに名前書くから……」
と言ってしまった。どうしてだろう、どうしてこんなこと言っちゃったんだろう。
しかたなくわたしは、カバンから筆箱を取り出した。本の最後に袋が貼ってあって、貸し出しカードが入れてある。わたしはカードを取り出して、エンピツで自分の名前を書いた。「
「でもまだその本、どんな話か知らないよね?」
男の子はやさしい声でささやきかけてくる。わたしはその声につつみこまれそうになる。
「う、うん……」
わたしは表紙を見た。『泣ける学校の七不思議』って書いてある。
「これ、学校の七不思議の話なんだね」
「そう、泣ける学校の七不思議」
「ホントに泣けるの?」
「きみしだい。僕、その本を何回も読んだから、全部おぼえてる。泣けるかどうか、ためしに聞いてみる?」
「うん」
あっ、と思った。どうしてそんなこと言っちゃったんだろう。自分が思うよりも先に「うん」って言っちゃってた。男の子はすぐに、
「じゃあひとつめの話ね――」
と語り出していた。
いつの間にかわたしは、夕暮れの図書室で話を聞き始めることになった。
「七不思議のひとつめ、タイトルは……『トイレの花子さん』」
* * *
「花子さん、早く入りなよ!」
北村ハナの背中が押された。
押されたというより、叩かれた。
ハナはよろめきながら、廊下から女子トイレに入れられた。
背後でドアが閉められる。
バン! まるで悪魔を閉じこめるみたいに、強く。
不安で、ハナの心がぎゅっと縮む。
ひんやりとした湿った空気が体にまとわりついて、すごく気持ちが悪い。
「ヒヒヒヒ……」
ふり返ると、廊下に通じるドアの向こうから、笑い声が聞こえる。
曇りガラスの向こうに、黒い影が三つ、笑いながらゆれている。
廊下からミキの声がした。
「花子さんにはトイレがお似合い!」
ハナはいつも「花子さん」って呼ばれ、いじめられてるんだ。
「開けてよ!」
ハナはドアにすがりつく。でも……
「花子さんの家はトイレでしょ! ヒヒヒ!」
笑い声がさらに甲高くなって、まるで、魔女のような声になった。
ここから出してほしい、早く出して!
四階のトイレにはウワサがあるんだ。怖いウワサが……。
ぎぎぎ……
ハナのうしろで、音がした。
えっ!? 私しかいないはず、なのに……。
ぎぎぎ……
個室のドアが、開く音だ。
四階のトイレは誰も使わない。だからさびて、嫌な音がする。
ぎぎぎぎぃ……
どうしよう、どうしよう。だれかいる。だれかが個室のドアを開けている。
ハナはふり返れない。必死に、廊下に通じるドアにしがみついた。
「出して!」
でも、外から押さえられたドアは牢屋みたいに頑丈で、ハナを外に出してくれない。
ことっ……
ハナのうしろで音がした。
ことっ……ことっ……
足音だ……。
だれかがこっちに歩いてくる。
さっきのミキの言葉を思い出す。
「花子さんにはトイレがお似合い!」
北北西小学校で、人知れず語られる、あるウワサ……。
学校の七不思議。
人の力では解明できない、不思議な七つの現象。
その一つは……
トイレの花子さん。
夕方、四階の女子トイレ、三番目の個室に現れる。
ハナの首元で、声がした。
「ねえ……」
うわあ!
「ねえ、ここから出して……」
氷みたいに冷たい声が、首元にひんやりかかった。
ゾクゾク寒くなっていく。
「私を、出して……」
「きゃあああ!」
トイレのドアを強く引く。
ドアが開いて、ハナは廊下に飛び出した。
ミキたちの姿はない。
ハナは廊下を走った。
夕日に染められて、血が噴き出してるみたいに赤い廊下を、全力で。
*
次の日ハナは、またいじめれるんじゃないかと、いやな気持ちで学校に行った。
でもおかしい。
六年三組の教室に入ると、ミキたちはハナをちらっと見ただけで、別の話で盛りあがっている。ほかの子たちも、そわそわ落ち着きがない。
なんだろう?
と思ったハナの疑問は、朝の学活で解決された。
担任の千田先生が、みんなに言った。
「となりの二組に、教育実習の先生が来ることになりました」
それでみんな、そわそわしてたんだ。
ミキを見ると、隣の子と楽しそうに話してる。
ミキはこういう新しいことが好きだから、きっと教育実習の先生のことで頭がいっぱいなんだ。
一時間目が終わると、ミキたち三人はすぐにとなりの教室へ走っていった。
見たくて見たくてたまらないんだ。
休み時間が終わるころ、ミキたちは興奮していた。
まるで、アイドルのコンサートから帰ってきたファンみたいだ。
きゃあきゃあと教育実習の先生のことを話している。
「華村ゆか先生って言うんだって! すっごくかわいくて素敵だったあ」
ミキが興奮してしゃべってる。
華村ゆか先生っていう名前なんだ……とハナはぼんやり思った。
かわいくて素敵な先生だなんて、自分とは違う種類の人なんだな。
*
そうして三週間がすぎた。
ミキたちは休み時間になるたびに、先生を見に行った。
ハナは、ミキたちが三組にもどってくるたびに、先生の評判を耳にした。
「ゆか先生ってかわいー」
「ゆか先生って、この学校の卒業生なんだって!」
「じゃあ私たちの先輩だね」
「私もあんな風にかっこいい大人になりたいよー!」
ハナにとってうれしかったのは、ミキたちがゆか先生のことに夢中で、ハナのことをあまりかまわなくなったことだった。
たまにいやなことを言ってきたり、物を隠されたりするけど、以前に比べるとすごく減っていた。
このままずっと、ゆか先生が学校にいてくれたらいいのに。ハナはそう思った。
ハナとは違う理由だったけど、ほかの子たちもみんな、同じ気持ちだった。
だけど教育実習の、最後の日がやってきた。
一ヶ月の実習期間はあっという間で、三組は担当のクラスじゃないのに、泣き出す子までいた。ミキたちもやっぱり、わかれを悲しんでいた。
放課後、ハナは帰りが遅くなった。
多目的室の掃除をひとりでやっていたからだ。
ほかの子は、ハナだけに押しつけて帰ってしまった。
掃除が終わって、廊下を歩いていると、陽気な笑い声が聞こえてきた。
六年二組の教室からだ。
中から、何人かの声が聞こえてくる。
声と声の間に、ひときわきれいな笑い声が聞こえた。
きっと、ゆか先生の笑い声だ。
花壇にひとつだけ美しい花が咲くように、明るく楽しい声が聞こえる。
ハナは、その声だけで先生のファンになってしまいそうだった。
ミキたちが、あんなに熱心に二組に通っていた理由もわかる気がした。
二組の中を、のぞいてみたくなった。
ゆか先生の顔を、見たくなった。
みんながあんなに慕って、あこがれる先生の顔を……。
ハナは、ドアのガラス部分から、中をそぉっとのぞいた。
「花子がのぞている!」
廊下から声がした。
見ると、三組の教室からミキたち三人が出てくる。
ミキたちはまだ三組にいたんだ!
「私たちに隠れて、ゆか先生と話そうとしてたんでしょ!」
ミキが怒ってる。鬼のような顔だ。
「ちがうよ私……」
「花子はトイレがお似合いなんだよ!」
そう言ってミキが三組の教室に入って、すぐに廊下に飛び出してきた。
私のカバンだ! ハナはすぐにわかった。
ミキはハナのカバンを持って廊下を走り、階段をあがっていく。
手下の二人もミキを追っていく。
きっと四階に行くんだ。四階のトイレに……。
ハナもミキたちのあとを追った。
四階まで行くと、ミキが、女子トイレの中にカバンを投げ入れたのが見えた。
私のカバン!
「ヒヒヒヒ……」
ミキたちが、ハナを見て笑った。
ひどい……。
ハナの横を、ミキたち三人が通っていく。
「トイレの花子さん」
すれ違うとき、ミキが耳元でささやいた。
三人は、階段を降りていく。
きっと二組に行って、ゆか先生と話すんだ。
みんなの大好きな先生と、最後の別れを楽しんだり悲しんだりして……。
ハナは、四階の静かな廊下で、ひとりぽつんと立っていたけど、しばらくして、ようやくトイレの方に歩き出した。
心の中で、涙がにじんだ。
カバンを拾って、家に帰ろう。
私はずっと、ひとりぼっち……。
女子トイレのドアを、ぎぃっと開けた。
暗かった。
入るのが怖い。
この前、トイレの中から聞こえてきた声を思い出す。
「ここから出して……」という声。
トイレの床には、カバンと、教科書やノートが散らばっている。
入りたくないけど、拾わないと帰れない。
ハナは恐る恐る、トイレの中に入った。
もう夕方だった。
考えたくないのに、どんどん浮かんでくる。
七不思議……夕方……四階の女子トイレ……三番目の個室……
そして、トイレの花子さん。
手が震える。
いちばん手前に落ちていたカバンを拾った。
ドキドキ、ドキドキ、胸が鳴る。
なにも起こりませんように……。
だれも、出てきませんように……。
ハナは教科書を拾って、顔をあげる。
だいじょうぶ、トイレの中には、だれもいない。
三番目の個室のドアも、だいじょうぶ、閉まったままだ。
一瞬だけ安心して、それからまたノートを拾う。
教科書を拾って、ノートを拾って、カバンに入れていく。
ようやく、全部拾い終わった。
よかった、もうだいじょうぶ。これで帰れる。
安心してトイレを見まわすと、まだひとつ、落ちていた。筆箱だ。
それが、トイレのいちばん奥、三番目の個室の前に、置き去りにされたみたいに落ちている。
ハナはゆっくり、歩き出した。個室の前を通る。
ひとめの個室……ふたつめの個室……。
もう少し、あとひとつだ。
ハナは、みっつめの個室の前に来て、筆箱に手をのばした。
ぎいいぃ……
三番目の個室のドアが、ゆっくり開く。
ハナは、拾う姿勢のまま、固まった。
おそるおそる、ゆっくり、横を見ると……
個室の中に、トイレの花子さんがいた。
赤い吊りスカートをはいた、白い服の女の子。
黒髪の下に、大きな黒い目がぎょろっとある。
すごく大きな目だ。吸いこまれそうだ。
「ここから出して……」
花子さんが悲しそうに言った。
大きな目から、大粒の涙がぼとぼとと落ちている。
どうしよう……どうしよう……。
動けずに固まってると、花子さんが、一歩前に出た。
うわああ!
ハナは筆箱を拾ってカバンに入れた。
逃げよう! 早く逃げよう!
ドアへ走ろうとしたとき、腕をつかまれた。
痛い!
花子さんがすぐ横に立っている。黒い目がハナをじっと見てる。
「ここから出して……」
「いやあ!」
手をふりほどいて、走る。
倒れかかるようにドアにしがみつき、ドアを開けた。
ハナが廊下に飛び出すと――
「だいじょうぶ?」
声がした。
え!?
顔をあげると、すらっとした女性が立っている。
長い髪が、夕陽を浴びて輝いてる。髪だけじゃない、顔もきれいだ。それに大きな目。
この人、もしかして――
「ゆか先生……教育実習の華村ゆか先生ですか?」
「そうね。でもそれも、今日でおしまい!」
はきはきと、気持ちのいいしゃべり方だった。
見とれていると、「あはは」と先生は笑った。
口の端がきゅっとあがってかわいらしい。みんなファンになるはずだ。
ゆか先生が、大きな目でこっちを見つめてくる。
そんな目で見られたら、溶けてしまいそうだ。
あれ? ハナは思った。この目、見たことがある。
「ねえここで、なにしてるの?」
先生が聞いきてた。
「あ、あの、私……カバンがトイレに……」
ゆか先生が、ハナが抱えてるカバンを見た。
汚れている。
「あなたも、いじめられてるの?」
ハナは答えられなかった。
自分がいじめられてることを、だれかに言うことほど、惨めなことはない。
それが言えないから、ハナはずっと、ミキたちにいじめられたままなんだ。
先生にも、親にも言えない。
「私も昔、いじめられてたんだ」
ゆか先生が言った。
「え!? でも……」
信じられなかった。
こんなに素敵な先生が、いじめられてたなんて。
「私、この学校の卒業生なんだよ」
「はい……」
「私がここに通ってるとき、いつもいじめられて、いつもこの、四階のトイレに閉じこめられてた。私はトイレで泣いてた。いじめに負けて、ずっと泣いてた」
私と同じだ、とハナは思った。
「ねえ、ここに、トイレの花子さん、出るんでしょ?」
あっ!
ゆか先生が言ったとき、気がついた。
ゆか先生の目と、トイレの花子さんの目はおんなじだ。
大きくて、吸いこまれそうな目だ。
「わ、私……ハナって名前だから……『トイレの花子さん』って言われて……トイレに閉じこめられるんです……」
ハナは初めて、そのことをだれかに言えた。
どうしてだろう、ゆか先生になら言えた。
先生は、悲しそうな顔をしてほほえんだ。
「私もおんなじ。華村ゆかだから、華の字が違うのに『花子さんだ』って言われて、ここに閉じこめられてた」
先生も、そうだったんだ。
「でもね、昔は、トイレの花子さん、いなかったんだよ」
「え?」
「今はこのトイレに出るんでしょ。教育実習で十年ぶりに学校に来て、そのことを聞いて、私、わかったことがあるの」
「なにが……」
「トイレの花子さんは、あの日、私がここに捨てた、私の心だって」
驚いて、ゆか先生を見た。
先生は、トイレのドアを見つめてる。
「私、いつもいじめられて、このトイレに閉じこめられて、ずっと泣いてて。でも、ある日誓ったの。自分の弱い心を、ここに捨てようって。弱くて、泣き虫で、惨めで、自信のない心をここに捨てて、トイレから出たら、新しい自分になろうって。いじめになんか負けない、強い自分だけ心に残そうって。そう決意して、私はトイレから出た」
「……それから、変わったんですか?」
「うん、変わった。がんばって、いい友達も作って、先生になるために勉強して、それでまた、ここに帰ってきた。そしたら、私の、あの日捨てた心が……私の弱い心が、トイレの花子さんになって、あれからずっと、ここで泣いてるって知った。そのことを知ってから、私、ずっと迷ってて……でも今日が、教育実習の最後の日だから……」
自信にあふれてるゆか先生の顔が、不安げになった。でも……
「私、自分の心を取りもどそうと思うの。ひとりぼっちのままにしてた、私の弱い気持ちを取りもどして。もう一緒になっても大丈夫だから……。私、弱い心と一緒に生きていけると思うから」
先生は、ハナに言っていると言うよりも、自分に言い聞かせてるみたいだった。
そうして先生は、トイレのドアを開けた。
ハナは、先生の背中を見つめていた。
ゆか先生は、ゆっくり、中に入っていく。
夕陽が赤く、燃えるように照らしている。
先生がトイレに入ると、ドアが閉まった。
廊下でじっと、ハナは待った。
しばらくすると、トイレの中から、泣き声が聞こえてきた。
ゆか先生の泣き声だった。
あのきれいな先生から想像できないような、体の中からわきあがるような、大きな泣き声だった。
泣き声が止んでから、ハナはそぉっと、トイレのドアを開けた。
ゆか先生の背中が見える。
先生が、赤い服を着たトイレの花子さんを、しっかり抱きしめていた。
「ごめんね……ずっと、ひとりにしてごめんね……」
先生の腕の中で、トイレの花子さんが静かに消えていく。
どんどん姿がうすくなり、最後に、ゆか先生の体の中に溶けこむように、すうっと見えなくなった。
「先生……」
ハナが、背中に声をかけた。
立ちあがってハナの方を見たときにもまだ、ゆか先生の顔には涙が残っていた。
廊下に出ると、先生の涙は、夕陽に照らされてきらきら光った。
とてもきれいな、涙だった。
「さ、帰ろう」
ゆか先生が言った。
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