熱砂

坂本治

熱砂

 


 閉店時間まであと一時間ほど。今日は残った仕事も少なく、早くに帰宅できそうだ。

店内の接客作業が落ち着いたので、明日の食材発注などの事務作業を片付けることにする。簡易的な事務所に引っ込み、パソコンに向かっていた。

 葉山夏彦は、都内に展開する喫茶店チェーンの一つの店舗を任されている。入社して五年のころ、昇進を遂げ店長を務めるようになった。現在は店長歴八年となり、通う店舗の業績を伸ばすべく奮闘する毎日だった。

 現在の担当店舗は内装の落ち着いたクラシカルな雰囲気の店内だった。暖色のライトと、流れるクラシック音楽が人気であったし、葉山のお気に入りの点でもあった。ここで会社こだわりのコーヒーを提供する。


 店内の扉の開閉を知らせるベルが数回鳴るのが聞こえた。接客する学生アルバイトの若い声も聞こえてくる。もう一度時計を気にすると、すでに午後九時をまわっている。このくらいの時刻には、帰宅途中わざわざ喫茶店へ寄って行くお客さんも少なくないことを、長年の経験から把握していた。

 仕事に追われた人々に、遅い夕食を提供することで彼らの生活の手助けができることが、ひとりよがりだがやりがいだった。

その客の他まばらな客の話し声や、クラシック音楽、食器の音をBGMに作業を進めていた時だ。店内のカウンターに設置したコードレスホンが鳴った。事務所にいた葉山はそちらに向かおうと立ち上がったが、すぐに革靴のかけ音が聞こえ、バイトの大学生がコードレスホンを持ってきてくれていた。

「店長、お電話です」と差し出される。

 ありがとう、とさっとつぶやくと、受け取って通話ボタンを解除する。

 会社のルールでは、その時間帯に働いていた最も勤務年数のある者が、電話を取るのが決まりだった。アルバイトしかいない日ならば、その中で経験値の高いものが出ればよいのだが、店長がいるならば自分が出なくてはならないのだった。

「お待たせしました。喫茶メーデー日本橋店でございます」

 四十歳手前にもなると年の功で電話に出るにも、そこまで緊張しなくなる。いつもの通り決まったフレーズを述べる。

 用件としては忘れ物をしただとか、予約はできるかとか、まれにバイトの応募だとかがある。昼間ならそれらに加え本社からの連絡ということもあるし、身構えているのだが、今回のように遅くの時間にかかってくるとなると、忘れ物の問い合わせだろうか。


 しかし、電話口の相手の言葉は、葉山の予想するものとは全くかけ離れたものだった。




 仕事帰りの警官、反町零士はネクタイを緩め、幼馴染と開放的な居酒屋で向き合っていた。

「それで、いたずら電話じゃねえのか?」

半分ほど空になったグラスを持ち上げて尋ねる。

「それが、そんな感じにもとれなくてさあ」

 色のはげた小さい机の向こう側では、喫茶店の店長をしている葉山が、納得いかなそうに皿の上のミョウガをかき集めている。

 葉山と反町は同じ中学校を卒業した後、同じ高校に進学した。そのよしみで三年間よくつるんでいたのだが、葉山は大学に、反町は高卒で警察に就職したことで疎遠になっていた。

 しかし地元が同じなだけあって、互いが三十歳を超えたころ、偶然スーパーマーケットで再会した。高校時代を長く過ごした仲だけあって、すぐに懐かしさを混じえた喜びが起こった。

 その後は頻繁に連絡を取り合うようになり、反町の結婚式にも葉山を招待した。今は反町に家庭があるし、葉山も大概仕事に勤しんでいるようだから、ごくたまに飲みにいくほどのつきあいだった。

 その誘いもどちらからすることもなかった時期に、珍しく葉山から会おうと連絡が来た。盆も近く、反町の妻子も一足先に実家へ帰省していたことから、今夜の誘いを承諾した。

 けれども何やら相談したいことがある、というのが好奇心でもあり、胸に引っかかることでもあった。真面目ゆえに、考えなくてもいいようなことに気をとどめる旧友の性格を知っていたからだ。

 また余計なことに心配を募らせているんじゃないか。

「助けてくれって、そう言ったのか?」疑り深い感じで、反町は電話の相手が言った言葉を復唱し、葉山に聞く。

「ああ」と真剣な表情でうなづく葉山。まだ丁寧に、残った細切れのミョウガを忙しなく箸でとらえている。

「おまえ、そんなのいちいち信じていて、店長務まるのかい」

溜息混じりに相談事に対し返事を返す。とはいえ、もう少し状況を把握せねば、決めつけることもできない。


「そいつの特徴は? 他に何を喋った?」聞くだけ聞いてみようと、こちらから質問を振る。「うん」と葉山は視線を上げて、その時のことを思い出そうとしているようだった。

「声は成人にしては高めな感じ。男だとは思う。切羽詰まった風な様子で、けど慌てているともいえないような。どうしようかわからなくて困ってて、やっとこさ誰かに声をかけた、みたいな感じ?」

「疑問形にしてるんじゃねえよ。聞いたのはおまえだろう」

 記憶が薄れつつあるのか、記憶に自信がないのかはっきりしたことを言わないものだから、ふわふわした話を聞かされただけであった。軽く微笑んでは呆れてしまう。葉山の話も人の多い都内じゃよくある出来事に思えた。

「いや、俺だけじゃないぞ。うちのチェーン店の何軒にも、同じような電話がかかってきているんだ」次の皿に移りつつ、なんてことないように言ってくる。

「はあ? それを先に言えって。それじゃあ、なにか。どの店舗にも電話をしちゃ、助けて助けて、って言っているのか?」

 大事なことだろうが、どうして言わないのか、つい拍子抜けしてしまう。

「内容は、言葉の運びだとかが違うんだけどな。いつもかかってくるのは遅番の時間で、大まかなことは、『助けてくれ、話を聞いてくれ』ってことらしい」なんなんだろうな、と不思議そうな顔をする。

 ずっと会社のこと一本で働いてきたからか、葉山はまだ結婚していない。独り身ということによる余裕からか、どこかまだのんびりしたところを感じさせる。今も、なくなったグラスを見つめ、注文しようかどうか悩んでいるようだ。


 まだ時間は午後八時ころであったから、もう少し話を聞こうと、葉の分も一緒に、ビールを二つ頼んだ。

 電話のことをすごく気にかけている、というよりかはなにか引っかかるといった感じの葉山に続ける。「もう情報が会社の中で、共有はされているんだな」

 うなづくようにしてから「あまり大事にはしていないけどな」と控えめにいう。

「内容が内容でちぐはぐした感じだし。若い奴のいたずらだろうって、言っているよ。先週の店長会議でその話が持ち上げられて、深入りしない方針になった」

 やはり、いたずらという見方ではないか。この程度のいたずらなら割と少なくない。反町の所属する署でも、そういった悪ふざけによる相談がよせられては、生活課が対応に追われている。

しかし、まあ、犯人を探し出すことは不可能に近いし、効率のよい作業ともいえない。多くの相談が、直接誰かを脅かす危険性のないものだと判断されれば、苦情の一つとして処理されてしまう。

 心ばかり警備を強めたり、把握しておいたりと心構えの領域である。


 管轄内で最近あったものでいうと、ラーメン屋のゴミが匂うという周辺住民からの苦情があった。一回目までは警察署から注意喚起をラーメン屋に行うのだが、これが二件、三件と苦情を入れられてしまうと、直接警官がそのラーメン屋まで話をしに行く義務が発生する。

 行かなければならない、といって行った所で何か解決するかというとそうでもない。ゴミは気を付けても夏場の腐敗は防ぎきれない。かといって住民にも我慢を強いらせるのは酷な話だ。警官が駆けつけてできることなどたかが知れていると、そういう時に切に思う。

 自分が訪ねた時ラーメン屋を営業させていた従業員の中の責任者は、まだ十代の大学生アルバイトの女の子だった。店長や正社員がシフトに入っていない時間帯に警察に押し入られ、何事かと緊張を顕わにしているのが見て取れた。反町はなんだか申し訳なく思ったのだ。


 このような例が多いのだが、喫茶メーデーにかかってきた電話については少々レアケースだ。同じチェーン店内をシラミ潰しにしているのなら、その意図に奇怪なものを感じる。

「何店舗くらい、その電話は来ているんだ?」

「ここ二週間くらいの間に九店舗あったらしい。俺の店にかかってきたのはその内五件目。五店舗の店長らが不信に思って、会社に報告したところ、そういう事態だと発覚したようだ」なかなか難しくなってきたと、数字を頭の中で整頓する。

「九店舗中まず五店舗に電話。それが発覚した後にも、電話は続いたってことだな?」確認するように聞いて、続きを促す。

「そう。上層部から店長各位に、そういった電話をとったら応じないよう通達がされたんだが、それ以降にも電話を受けた店舗はあったということだ」葉山の話す情報に耳を傾ける。

「電話はいつも遅番の時間に来るんだ。アルバイトが電話をとって、翌日以降店長に報告しているケースもあるから、全ての人間から話を聞けているわけでもないみたいだ」新しいジョッキの水滴を見つめては、知っていることを話してくる。

 運ばれてきたジョッキに手をかけながら反町は「しかし、おまえの店はたまたま、おまえが出たんだな」と奇妙な電話に出てしまった葉山店長に、同情の気持ちをこめて声をかける。

「それが、俺の店舗では、俺が電話をとった夜以前に、その類の電話をとっていたアルバイトの子がいたんだよ」

「なに! 二回もかかって来ていたってことかよ。」

 だから、なんで重要そうなことを先に言わないのか。ほとほとあきれてしまうが、気を張っていないところが彼の長所でもあるし、現にその一本の電話を気にしてやっているのはやさしさなのかもしれない。いや、実際一本どころの回数ではないようだが。

「その様子だと、他の店舗にも重複してかけていそうな風だな」不思議な話だが、どうこうできるものでもないとまだ残りの多いジョッキを傾ける。

 何がしたいのか犯人の意図に、共感できないままだ。

 葉山はというと、温厚そうな一重の目をどこかに向けぼんやりしているようだ。

「おまえが気にすることでもないだろうよ」と見かねて、励ましの言葉をそえる。「警察には言ったのか?」

 現職の警官である自分の職業をこの様に言うと、妙に他人事のような言い回しになってしまうのだが、一応聞いてみる。

「いいや。悪ふざけかもしれないし、なにか店のことを脅かされているわけじゃないからね。ただ話がしたいだけ、みたいにもとれるから寂しくてそういうことをしているのかもしれないけど、従業員にとっては仕事に差し支えてしまうから今のところは気にしないように、ってだけ」まるで自分に言い聞かせるような口ぶりになっていた葉山を、指摘するのをよした。

「きっと今に飽きて落ち着くさ」と後ひかないように、反町はキリよく言う。

 しかし姿が見えない相手というのは、なんだか気味が悪い。どうしてそんな行為に及んだのか、想像するにも、情報は何もない。

 残念ながら相談を聞いても、俺にはしてやれることがありそうにもなかった。

 一気にジョッキの余りを胃袋に流し込み、つかの間の友人との飲み会を終了に向かわせる。帰っても家には誰もいないと言っても、明日も通常通り勤務がある。みんなを見守る警察として仕事に支障をきたしてはいけない。

 正面の気のいい友人の方をちらと伺うと、空き皿をじっと見ては悶悶としているようだ。「どうした。自分の店の料理の方が旨かったか?」なんて冗談半分で言うと

「なんか、引っかかるんだよなあ。心あたりがあるような」

思いつめてというほどでないが、なにか思い出せないことを引っ張り出そうとしている感じだった。

 葉山のその真剣さに、湧いてくる執着心の出所を、突き止めてやりたい気もした。


 飲みの帰り際ふとよぎった考えを、言うべきでなかったと後悔した。

「なんだか、誰か探しているみたいだよな」その電話のやつ、と言ってしまった時にはもう遅かった。

 葉山は驚いたように目を丸くした。

 反町は自分の発言が、なにかオカルト的な意味合いを含んだものとして言ったのだが、実際に自身がそんなことを信じているはずもない。

 ただ現実に電話を受けている葉山に対し配慮のない言葉だったかなと反省した。皺もでき始めたいい齢の男が、そんな話に怖がるとも思えなかったが、もし実在する人間が荒業を使って誰かを探しているとしたら、そんなもの気持ちが悪い。

ましてや、顔も知らぬ相手と簡単につながれる時代、いつ何者かが自分の居所を探り当てているとも知れない。

 慌てるこちらに対し、葉山はその意味がわからなかったのかもしれない。

「幽霊ってことか?」と随分間をとってから聞き返してきた。

 そう思っていた方が、変に考え込まなくてよいと「ああ、お盆だしな」と笑っておくことにした。

 しかし帰路につき、眠るころになってもまだ、瞼の裏では喫茶メーデーの怪事件のことが同心円を描き回っていた。




 店にかかってきた妙な電話のことが気にかかりながら、葉山は数日後店長会議に出席した。冒頭で本社の社員から各店舗の店長たちに、今回のいたずら電話の件が話された。しかし情報共有がなされた後は、それほど長く議題には扱われず、あくまで知っておいてくれというものであった。

 葉山はどこかわだかまりを覚え、電話のかかってきた店舗の店長らにそれとなく聞いてみることにした。

 彼らの中には自身が受話器を取った者もいれば、バイトが対応したという者もいた。危険なことを言っていたわけでもないし、何かを要求されたわけでもないので、会社の方針通り気にする風でない、といった感じの人間が多かった。葉山が執拗に尋ねるのを、珍しいことに気分が高揚し浮ついているととらえ、軽蔑の視線を送る者もいるのを肌で感じていた。

「日本橋店さんは何回ほどかかって来たんですか?」店長らの中でも付き合いの長い、池袋西店の店長が聞いてくる。

「二回でした。一回目はバイトがとり、二回目は私がとりました」

「そうですか。私のところは三回ほど、かかってきましてね。一度目と二度目はバイトの子が出ましたが、三回目は私が居る時でした」細いフレームの眼鏡を押し上げながら、思い出すようして言う。それから続けて

「妙な電話があったと報告は聞いていたんですがね、何分はじめ二回の電話がかかってきた時、店はてんてこ舞いだったようで。バイトの子らもゆっくりとは、とりつげなかったようなんです。『また別日ご連絡いただいてもいいですか。』と伝えて早々に切り上げたらしく、その後何回かかかってくるに至ったようです」

 繁忙時につきことわった対応を、あしらわれたのではなく丁寧に話に付き合ってくれる気があると、みなしたのだろうか。いずれにしても不可解だ。そうまでして何を聞いてほしかったのかわからない。どの従業員たちも、はっきりとした相談は受けていないのだ。

「あたしの店は一回限りで、その時もあたしが出ました」京王八王子店の店長が、人のよさそうな表情でこちらに気づいてやってきた。

「店長さんが出たきり、ですか……」葉山はつぶやく。

 会議が終わってもまばらに残っている者たちに、そんなことにいつまでも現をぬかすなと、一括を入れて会議のまとめ役がオフィスを後にした。葉山らを除いた者たちも、営業に関する意見交換などを切り上げて、荷物をまとめはじめる。

「皆さん多くを言わないからわからないですけど、何だか店長が出たら次の店舗にかける、みたいな法則があるように思いませんか」

 親しい池袋西店の店長が帰り際、ぼそりと言う。驚き彼の方も見ると、同年代ということもあってか、葉山をからかうようないたずらな瞳がレンズの奥で光った。

 葉山は少々むっとして、「まさか」と返す。池袋西店の店長も、それを聞くとすぐに、年相応の落ち着いた笑顔を見せ、店長らしい物腰でスーツを整えると、行きましょうといった風に促してきた。

 見ず知らずの電話越しの彼を心配していた気持ちが、解決しない状況に押し込まれ揉まれる内に、得体のしれない恐怖を呼びつつあった。

 考えすぎてしまったのだと気持ちを切り替え、秋から始まるキャンペーン企画の資料を鞄に詰め込み、本社ビルを後にした。

 それから暫く、葉山の担当する日本橋店に例の電話がかかってくることはなかった。やはり店長である自分が出たことが、終止符となっているのだろうかと、また要らぬ詮索をしてしまう自分をたしなめる。

 

 その後数日は新商品の準備に追われることもあり、あまりその件に関して気をとられることもなかった。

 しかし、またしても多店舗に助けを求める電話が来ていると聞いて、古い友人に相談してみることを思い立ったのだ。それが警察官になった反町である。

 久しぶりに連絡をとり葉山が夕方あがれる日を提案すると、反町は自身の勤務時間の終わりの時間と調整しつつ、会ってくれることを約束した。相談があることも伝えると、少々身構えたようだったが、承諾してくれた。

 互いに姿は年齢とともに変化しているが、気が合うことは高校生のころと変わらず、気軽に飲んではすぐにお開きにできる関係が、息抜きに丁度よかった。

 午後七時ころ落ち合うと、簡単に近況報告を済ませる。葉山の家族は夏休みを利用し、奥さんの実家に長く泊まりに行っているらしい。葉山は勤める警察署の三交代があるらしく、いまもなお、当直を気にしては生活リズムに気をつかっているらしい。同級生であるのに葉山と比べると、反町の体型は屈強そうでたくましく、頼りがいのある感じがする。


 高校生の時から正義感が強く、やさしさもあった葉山が警察官になる道を選んだ時、少しも意外ではなかった。困っている人を助けるんだ、という目標を掲げる反町少年は、教師たちの目にも理想的な生徒に映っただろう。

 誰かのために働きたいというまっすぐな意思を示すのに、少なからず勇気がいるが、葉山も心の底では同じような目標をもっていたのは親友である反町の影響が大きかった。

「悩みでもあるのか」と向こうから尋ねてくれる声色だとか精悍な表情が、反町少年の姿を思い返させる。葉山もなにか困っているわけではなかったし、記憶も曖昧になりかけていたから話しづらかったのだが、反町の相槌に合わせて話し出す。

 話していると今回の件について、事実が整頓されていったが、犯人の意図については二人とも明らかにできなかった。 

「どうにかできないかねえ」と無茶だとわかりながら反町に言うと、彼は「地元の署勤務の巡査じゃ、力がなさすぎる」と、寂しそうに薄く笑った。

 真面目ゆえに気にさせてしまっては申し訳ないと、それ以上は口をつぐむ。そんな反町もこちらの情報に耳を傾けては、話が緊迫したものでもないと安心したからか、面持ちを緩めて付き合ってくれる。

 反町の様子につられ自分も安心が強まってきたのだが、心配とは違うなにかが、胸に引っかかって仕方なかった。ぼうっとしては、あの夜を思い出す。

 反町がビールを二杯頼んだ。いつもなら〆に向かう頃合いだが、この注文をしたことで、久しぶりの誘いをぞんざいにしない彼の性格が見て取れた。

 午後九時ころ、電話をとったのもこれくらいの時刻だったと、頭をよぎりながら会計に向かう。大人にしては少し早い宵の時間に、互いの仕事を気づかって帰路につく。


 別れ際、反町は柄でもないことを言っていた。黒、白とはっきりしたあいつが、電話の相手を幽霊だというのだ。そんな話、もちろん葉山も信じたわけではないが、たしかに一連の奇妙さにはそういって不確かなものの存在がしっくりくる。

 一人暮らしのアパートに帰ってきて、少々の家事をこなす。部屋干しにしていたYシャツはしっかり乾いていたので、襟を直してまたハンガーに掛け直す。喫茶店の厨房に立つこともあるその制服は、ビジネスマンのように真っ白な青さはなく、所々にコーヒーの染みやトマトソースがついていた。けれど長年やってくると、それらが自分の仕事に対する誇りとも思えてきて、かわいいものだった。

 明日の仕事は店を開店させる時間から入っていた。朝六には喫茶店の最寄り駅に降り立たなくては、間に合わない。

 早起きは正直得意でなかったし、夜のシフトの方が幾分かやりやすいのだが、早朝のバイトはなかなか皆やりたがらないのが現実だった。早く寝ようと、翌日に備えた支度をし、億劫になる前にシャワーを浴びる。

 

 浴室から出てくると、窓から入る夜風を求めて居間のソファに腰を下ろす。近くにあったテレビのリモコンで電源を入れると、ちょうど今日のニュースの総集編をやっている。

 甲子園球児たちが一生に一度の戦いに青春をかけて、暑いグランドに立っている。勝敗だとか、エースの話だとかを取材するリポーターに、コメントを求められている高校生たち。自身が彼らと同じ年ごろだった日は、年々遠くなっていくのに、年が巡る度若者は現れるのである。

「あ」

 気づいてしまった。ふとしたこの瞬間のひらめきが、あの電話の正体を悟ってしまった。生温かい夏の風が、背中に張り付くTシャツ越しに肌をなぞる。

 画面の向こうの球児たちが、まぶしそうな表情でこちらを見ているのが、まるで睨んでいるようだ。あの時の高校生の、恨めしそうな瞳と似ている。



 早朝から厨房で本日分の料理の下準備をしていた葉山は、昨晩会った反町のことを考えていた。いや訂正すると、反町ではなく、反町に話そうか話さないかという用件について考えていた。

サンドイッチ用のハムを持ったままフリーズしていた時、

「店長、店長。それ取ってください」と提供作業をしていたバイトに声をかけられる。

「ん? ああ、申し訳ない!」手元には出来上がり、運ぶようコールしたにもかかわらず、そちらに出すのをすっかり忘れられた小倉トーストがあった。

 厨房側から、店内の接客をするバイトの手の届く所へその皿を出す。

 朝の店内は、ガラガラというわけではなく、毎日来てくれる常連で思いのほか賑わっている。店内一人、厨房一人で回しているこの時間帯に、体力のある学生バイトが入ってくれることはありがたい。

 

 店長を任されるようになって、彼らのようなアルバイターにも何人も出会ってきた。毎年入っては誰かが辞め、若者層の移り変わりは激しい。

高校・大学生らは長くても三年か四年で卒業していくので、時間がたてば記憶がどんどん上書きされ、一人ひとりのことはよく覚えていない。

 その中で覚えている子が何人かおり、唐突に昨日の晩、思い出してしまったその子の思い出は、あまり掘り返したくないものであった。

 高校一年生で働いていた彼は、前田葵といった。前田はすこぶる元気な部類でもなかったが、よく勤務時間が重なる従業員とは、笑顔をまじえて接せるくらいの愛嬌はあった。

 慣れない相手や、時に横暴な感じの来店客にまでツンケンしてしまう点が改善点ではあったが、無口ゆえなかなか理解されない彼の良さが活かされるよう、葉山も祈っていたことがあった。

 つまり前田少年の日ごろの仕事に対し、何か問題があったということはなかったのだ。当時の店長葉山との関係は、仕事をする上でいたって普通だったのに加え、彼の人柄は好印象に思っていた。

 その彼がバイトを辞めたのは、他ならぬ葉山の指示だった。

 ある日前田は閉店作業をしていた際に、金庫の金を持ち出したのだ。過去に同じようなことがあったかは定かでないが、同日勤務していたアルバイトの証言で事が発覚した。報告を受け前田に尋ねると自分がやったと言った。その一回だけだと言う他に、彼は見苦しく言い訳をしたり、学校に言わないでくれなどと懇願することもなかった。

 どうしてそんなことをしたか尋ねても「金が必要だった」などと話すだけで、何の用途に使うとも言わなかった。とった金額は大した額ではなかったし、勤勉に働いていた方だったから、毎月の給与もそこそこあったはずだ。

 しかしどんな理由であっても、会社の決まりに従う以上、金銭の持ち出しは強制退社の処置が該当した。店長である自分がその処置をする中で、警察や本社にまで報告しなくてはいけないことが、何より気が重かった。

 それほど彼はよく働いてくれていたし、葉山自身が働き詰めでシフトを埋められない時も、かなり貢献してくれた。その彼が何に悩み、それに至ったか疑問であった。

 前田と同じ高校のバイトに、暫くしてから彼の様子を聞いてみると、不登校になっていた事実がわかった。

 俺は自分がとった処置が、不安定な高校生の気持ちを崩してしまったのではないかと、自責の念に囚われた。やってしまったことが本当でも、どうしてそうなったのか、彼のことを何も知らない大人であったことを悔いた。 

 バイトといえど、仮にも社会に出る場でそのようなことをしたのは、どんな理由であってもペナルティがあって然るべき、その法はわかっていた。上司は先生ではないという、学生が耳にタコができるほど聞かされるその意識が必要なことも頭では理解していた。

 ただその関係の希薄さが、互いに踏み込まない関係性であったがために、後々へ消化不良の尾を引かせる原因となった。

 

 例の電話はあの時を境に、前田の経歴に汚点をつくり苦しい世界に引き込んだ葉山を、探し当てようとするものだったように思えてくる。

 そんなことあるはずないと思うのに、一度思いついてしまうとなかなか頭から離れないのである。こんな日は、考え事ができないくらい店内が忙しければいいと思うのに、天気が悪いせいか常連以外の客足はそこまで増えなかった。

 馬鹿げていると思われるだろうが、もう覚えてもいない前田の声と、電話の声は似ているように思えるのだ。当時から四,五年たって若干声変わりしたみたいな声を、耳でなく心のどこかで覚えているような気がしたのだ。

 こんな話を反町にしたら迷惑でないか、それを考えていた。

 彼に話して解決できることではないが、前田のような青少年たちの犯罪防止に関して、現職の警官である反町に訴えかけておくことは、全くお門違いでもないだろう。

 しかし本当は、前田の不審に気づいてやれなかった自分の懺悔を、誰かに聞いてほしいのかもしれない。今回の一件だって、電話の向こうのSОSに、葉山たちは何をしてやれるわけでもないのだ。

 人間は無力だ。また増えそうな懺悔を背負って、一人でも多くの客の腹を満たせるよう、静かに意気込んだ。

 時間帯で音楽の変わる店内で、現在流れるBGMが、店名の由来の交響曲第三番変ホ長調『メーデー』であることが、非常に皮肉的だった。




 曇り空の一日、今にも降り出しそうな空を見上げて、反町巡査は用事から戻り署内の入り口をくぐる。

 書類の確認をしてもらいに受け付けカウンターに寄る。知り合いの警官に朝の挨拶をしがてら、対応してくれた女性警官の指示で必要な事項を埋めていく。

 ボールペンを走らせながら、自分のしている仕事がどこまで高校生の自分が思い描いたものと重なっているか、ふと考える。

 町が平和なことはいいことだし、公務員がするべき仕事が生活の円滑化であることも、それが正義とかでなく一つの『おしごと』であることも、この齢まで働いていればいい加減わかる。

 どんな仕事も夢だけでは食ってはいけないのである。しかし、困っている人間を助けたい信念を、手放したわけではない。

 葉山が受けたあの電話がもしいたずらであったとしても、内容が偽りであったとしても、その行為自体が誰かのヘルプのサインであったらと、反町だって気にかけている。何とも思えない行為や言葉が、実は他の意味を持っている、なんて考え方をなんといっただろうか。

 たしかパラフレーズだとか言って、フランス修辞学や音楽の技法として使われると、いつだったかクラシック好きの葉山が教えてくれた気がした。そういったことにめっぽう弱い反町は、人間っていうのは、どうしてそんな面倒なことを考えついたのだろうと、理解に苦しむ。

葉山もきっとその点で、姿の見えぬ誰かを心配しているのだろう。まさに見えない亡霊を追って、俺たちは迷走させられているのかもしれないな。

しがない会社員の雇われ店長である彼が、やさしさからした心配が無駄であればいいと願うばかりであった。


 書類から顔を上げ、正面のガラス戸を見ると見慣れない姿があった。

 運転免許更新やら、講習会の高齢者たちであふれる午前中の署内に中高生くらいの少年が立っていた。

 反町と目が合うと、まだ幼い顔立ちをした彼はこちらに近づいてきた。

 その一件大人しそうな少年に、受け付けの警官も気づいただろうけど、平日の昼前にやってきた彼を警戒して、こちらの様子を見守る。

「親を刺してしまった。」

 かすれた声だったけれどはっきりと言ったその声が、早めの声変わりを迎えた彼自身のものであるのだと、咄嗟に思った。

 中学生くらいにも見える背丈の少年は、困ったように、助けてくれなかった周囲を呪うように、言葉少なに意思を主張していた。

見過ごされてきた静かな反抗心が、濡れた黒目にたたえられていた。それを見た俺は、人間とは無力だと思った。



 署に出頭した少年は十五歳になったばかりの中学生だった。家庭環境に悩みを抱え、それは形成途中の思春期の心の成長を偏らせた。

 妙に大人びた風な精神をしていたと話す教師もいれば、子どもらしい一面もあった、未熟な点が多かったなど様々な声があがった。

 それだけ彼を知っていながら、周りの人間は彼の力になることができなかったのだろうか。いや、事件が起こってからしか動くことができないと卑下される俺達には、なにも言えなかった。

 彼の親も、すぐに病院に搬送されたことで回復に向かっているという。傷もそれほど重傷でなく、少年の突発的な行動だったことが、結論として出された。

 報告書には、少年のした行為の事実しか残らない。その思い、動機、苦しさは決して多くの者には知られないのだ。彼の家庭についてよく知らない第三者がどうこういえることではないが、わずか十四年しか生きていない少年に刃物をもたせるにいたった、その状況は誰が作り出したか考えるべきだ。

 警察は使えない。それで結構だ。

 警察だから無力なのでなく人間だから無力なのだ。それでも身近で困っている人間を救ってやれる可能性は、周囲の人間の方がいくらか高い。 

 人間の視野は狭く、時に見えているはずのものも見ていない。交通課でよく騒いでいる運転違反者も、見えていなかったと、口をそろえて言うのだ。

 たしかに見えていないことに、偽りはないかもしれない。ならばその意識を変えて、少し大変な生き方を選んでみよう。自分の店にかかってきた電話のメーデーを、誰かの心の悲鳴だと心配してやまない、どこかの店長みたいな面倒な生き方の方が俺はいい。

 自信をもて葉山。おまえの心意気がいつか、誰かを助ける日が来るかもしれない。俺もそうするから、どうかそのまま変わらずにいてくれ。


 その数週間後、悪ふざけでいろんな飲食店に電話をかけまくっていた集団が捕まった。彼らの罪を法はそこまで重くできず、せいぜい注意といったところで終わってしまうだろうが、今後の世の中を疑心暗鬼にさせる奴らを撲滅していくことが、現在の俺の目標だ。

 人間は人間らしく、遠回りして不器用に生きている方が熱くていい。

 決勝まで勝ち進んだ球児たちは、熱砂の舞う中、真剣な瞳を輝かす。彼らを応援する吹奏楽隊の演奏は、大ホールでこだます音響よりも高らかに、甲子園の空に響いた。

              終わり


あとがき

 読んでいただきありがとうございます。

 喫茶店店長と、警察官、仕事は違えども信念は同じという点を読み取っていただけたら本命です。

 自身の近くにいる人だからこそ、家族、友達、仕事仲間を今一度よく見つめるように、手がふさがっていない時ならば、差伸ばそうと思える心意気を、常にもっていたいものだと考え作品にしたためました。

 最後まで読んでくださり、改めてお礼申し上げます。


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熱砂 坂本治 @skmt1215

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