1章-終『贖罪』(後編)
1章‐終「贖罪」(後編)
佐山伊津美は、誰も居なくなった玄関の扉を見つめながら立っていた。
「ま、ママ…。ごめんなさい…。」
「………。」
「ま、ママ…?」
伊津美は、ゴミ袋の山にうずくまっている娘に振り返り、無表情で眺める。そして無言で歩み寄り、恵理奈の髪を鷲掴みした。
「……。」
「ま、ママ…い、痛いよ…。」
「…あんたが、あんたが…。」
少女は引っ張られている頭を抑え、母親の口元を眺めた。髪の毛を引っ張られ立たされた少女は頭をさげた。
「なんなのよ!?あの家族…あんたの知り合いッ!?」
「お、おばちゃんと、ゆうたちゃんは…。」
「へぇ…そうなの…。」
恵理奈の瞳に雫が流れ、汚れた床に落ちる。
そして、少女が伊津美の顔を伺う。彼女は"微笑んで"いた。
そしてその一瞬、少女の耳をつんざくように大きな音を立て、少女の右頬に衝撃が走る。伊津美は"笑顔"で平手打ちをした。
「はぁー誰?ゆうたちゃん?昨日、"彰人"から連絡あって、(なんで今日、恵理奈ちゃんいないんですかー?)だって…。」
「ん………。」
「ははッあんた、どこほっつき歩いてんだよ!」
「……お、おきゃくさんこわい…から…こうえん…にいってた…。」
もう一度、彼女は笑顔で少女の頬を叩く。そして、少女の腕を無理矢理掴みながら無機質な錆びたベッドの部屋へ追いやった。
「ま、ママ…い、いやだよ…。」
「うるさい!彰人はあの"中澤社長"の馬鹿息子なんだよ!ゴミのあんたにはわからないでしょうが!」
「おきゃくさん…いや…。」
少女は抵抗したが、大人の力には及ばず力なく部屋のベッドに押し倒された。
「もうすぐで、彰人くるから…あんたは"準備"しなさい!」
「……。」
虚しくも、すりガラス状の引き戸が乱暴に閉められた。恵里奈は昨日の事を想いだしながらうなだれていた。彼女の煙草の煙の匂いが部屋にも充満していた。
そして、恵里奈が項垂れていると、玄関のインターホンが鳴った。
少女は顔を上げ、音が鳴る玄関先に視線を送った。
「…………。」
「ツッ。今度は誰だよ!?アイツが来るのはまだ早いし…」
何度も何度も、悪戯に玄関のチャイムが鳴り、伊津美がぼやきながら向かう。しかし、今日は"いつも"と様子がおかしいと恵理奈は思った。
(かみさま、もしかして…きのう見たゆめがほんとうになったの…?)
そして、ガラガラと玄関の渇いた音で引き戸が開かれた。
伊津美は訪問者を確かめるとその"訪問者"を追い払う様に強気で言う。
「何度も、何度も!もう、出ていって!」
伊津美が訪問者をあしらい、"訪問者"に背を見せた瞬間、彼女の目の前を白い紐が降りる。
その紐を確認する間もなく、彼女の首に絡みつく。
「ぐが…ぉえ…がぁ…!?」
母と全身黒ずくめの"誰か"の陰影がすりガラスに映っているのが扉越しでもわかる様に、恵理奈には見えていた。
「ま、ママ…。?おきゃくさん…?」
「え…ぐぁ…り…な…にげ…で…!い…やなこど…させ…っ…ご…めん…ね」
伊津美の虫の息の様な声と、すりガラスの向こう側から執拗に物音が部屋中に響き渡る。
そして、彼女は首筋に食い込む紐を爪で解こうとするが爪は剥がれ落ち、わずかに残っている力で抵抗しようと手探りの状態で"武器"を探す。
「ま、ママぁ……。」
恵理奈はこの状況に硬直し続けていた。只久、戸に映し出している二人の影を見る事しか少女には出来なかった。
「グゥ…がぁ…あ…あぁ……。」
伊津美はシンクに乱雑に置いてあった包丁を見つけ手に取るが、彼女の行動を黒づくめの誰かは見逃すはずも無く、彼女の首筋ごとズタ袋の紐を背負う形で首を締め上げる。
彼女の全身と足は浮き、手元の力も抜け無性にも包丁は渇いた音を立てて、床に突き刺さった。そして、力尽きたのを背中で確認した黒ずくめの"誰か"は引っ張っていた紐を離し、彼女の"脱け殻"を下ろした。
彼女の脱け殻は、心臓が跳ねるほどの音を立てながら恵理奈の部屋に向かって扉と共に倒れた。
少女の視線には、能面の翁(おきな)を被って仁王立ちをしている黒づくめの誰かが居た。
そして、翁の足元には母親がうつ伏せで倒れている。
翁は不適な笑みを浮かべながら少女を見つめている。
「………。」
「………ま、ママ…?」
恵理奈は翁の傍らで石にされたかの様に動かなくなった"母親"を呆然と見つめていた。得体の知れない恐怖、緊張、不安に押し潰された少女は生暖かい液体を流し、失禁していた。
床をギシギシと不協和音を立てながら翁は歩み寄る。
「………だ…れなの…。」
「…………。」
恵理奈は震えながら翁の首元に目をやると、ぬっと少女を覗き込む様に顔を近づけた。声を出すなと言わんばかり人差し指を伸ばし、少女の口元に指を添える。たった今、一人を殺害した翁の革の手袋は生暖かく感じた。
その時、"二人"の沈黙を破るかの様にインターホンが2、3回鳴る。
「いずみさぁん。え…えりなちゃぁんいましゅかぁあ?グフ。今日はにげなぃでねぇ…」
「…………。」
「あれ……?鍵を開けてるなんて無用心でぇすよー」
「………だめ…。」
玄関の先に居たのは中澤彰人だった。彼は毎日少女の自宅を訪問し、日課でもあるかの様に手慣れた手つきで扉に手をかけた。
恵理奈は玄関先に目をやり、首をゆっくり振る。そして、むくっと立ち上がった翁は少女から視線をずらし、玄関先に背を向けながら首だけ声のする方へ傾けた。
ガラガラと玄関の引き戸を開けた彰人の表情は氷付く。
彼の目の前には伊津美の遺体が転がっており、家の中は鼻を着く様な異様な臭いが充満していた。
「うッ…!いっ……いずみさぁ…ん?な、なんででしゅか………」
「……。」
(だ、め………。)
そして彼は、いつもと違う光景、現実に戸惑いながらも部屋全体を眺めると、玄関の奥の部屋には恵理奈が居た。しかし、少女は声にも出さず涙を流しながら彰人を見つめ、首を振る。
男なのか女なのかも分からない、得体の知れない者が少女の前に立っていた。そして、翁は彰人に振り向きながらじわりじわりと歩み寄る。
「ひゃ……!くぅ…くるな!こっちくるなぁ…よ!」
「………。」
彰人はこの状況に戸惑いながらふらつくも、体勢を整えた。しかし、彼の足元はガタガタ震え、不適な笑みを続けている翁の姿を凝視した。
「お、お、お前がいずみしゃんを…こ、殺したんだな……っ?!」
「……………。」
「へっ…!?や、や、止めてぇ…。ぼ、ぼくを殺したと…ころで、で、おまえはま、まけでし!」
「……。」
「む、む、むしろ…あの…ッお、おんなの子を殺れょお!なんでー!なんでぼ、ぼくが!?」
彰人はベッドの上で硬直している恵理奈に視線をずらすと引き笑いしながら翁に命乞いをする。すると翁はピタリと動きを止め、何かに集中しているかの様に仮面が床を向いた。
そして、彰人も翁に吊られて目線を下に降ろすと、そこには床に突き刺さった包丁があった。ギラギラと冷たい輝きを見せている包丁の刃に彰人自身の憐れで醜い姿が反射して映っていた。
翁は右腕を伸ばし、包丁を抜こうとする。
「やめろぉ…!いやぁだ…。」
「……。」
包丁は床から離れ、刃は彰人に向けられた。そして翁は包丁の柄の底に左手を添えて、彼に突きかかった。
その一瞬足元がもつれたが彰人は逃げた。伊津美の家を振り返らず走った。
そして、二人だけになった空間。翁は少女を一度振り返り、乱暴に包丁を床に刺していくとゆっくりした足取りで背を向け、家を出て行った。
恵理奈は翁が出て行くのを焦点も合わない眼差しで確認すると、恐怖と緊張で身体は震えている少女は、四つん這いで母親に歩み寄った。
「ま…ママ…?ママ…。えりな…ママのことまもれ…なかった…いま、までわるいこで…ごめんなさい…」
少女は冷たくなった母親を揺さぶっても、ピクリとも動かない。そして、少女は"生前"の母親からの「ごめんね。」という言葉を想い、瞳からは涙がこぼれ落ちた。誰も居ない、独りだけしか居なくなったこの部屋で、少女は泣いた。
「はぁ…はぁ…なんなんだょー!アイツは!?はぁ…ぼ、ぼくとえ、えりなちゃんのじ、時間を…っ」
目を皿にして見る者、彼から距離を離れる者、彼の尋常ではない表情を通行人は好奇の眼差しで眺めていた。
「はぁ…はぁ…ち…くしょ…お、親父がいれば…あ、あんなや、ヤツなんて…!」
彼は住宅地の道辻の真ん中で、膝に両手を添え息を整える。
「な、なんで…ぼ、くが…む、息子のぼくがぁー………ッ!!!」
そして次の瞬間、車のクラクションとブレーキが擦れる音が彼のすぐ近くで鳴っていた。
昼下がりの住宅地に忽然と何かと何かが衝突し、"破裂"する轟音が響き渡った。
その音の根元は、黒色のセダンの乗用車が辻道で立ち止まって居た彰人を轢いた音であった。
彼が轢かれた辻道の真ん中に、大きな血溜まりが出来ていた。
高崎美留は息子の高崎裕太と手を繋ぎながら、家路へ歩いていた。彼女の右手には、少し膨らんだ紙袋と、裕太の濡れたズボンが入ったレジ袋を携えていた。
その紙袋はプレゼント用に赤と緑色のリボンで丁寧にラッピングされていた。リボンの脇にはメッセージカードが添えられ、宛先が"えりなちゃんへ🎅"と書かれている。
「お母さん…?」
「んー?」
「えりなちゃん、よ、喜んでくれるかな…。」
美留は微笑みながら息子を見つめながら頷く。
「うん!きっと喜んでくれるよ!でも、裕太よく頑張ったね…。」
「お母さん…ぼ、ぼく、こわかった…。」
「ううん…お母さんも怖かったから…裕太の勇気があったからこそ。えりなちゃんと、お母さんは救われたの…。」
「う、うん!わかった!」
息子は母親に顔を向け、ニカっと笑った。美留はそんな息子を見て大きく頷いた。
「さぁ!急いで"KEy"に戻ってお誕生日と、クリスマスイヴの準備しなきゃ!」
「クリ―スマス♪クリッスマスぅー♪」
二人は笑いながら繋いでいた手をふざける様に何度も振った。
そして、はしゃいでいると美留と裕太の前方からけたたましく、不安を煽る様な救急車と警察のパトロールカーのサイレンが近づいて来た。
「お母さん…パトカー!カッコいいー!」
裕太は指を差し、通り過ぎてくパトカーと救急車を見送った。美留の顔が一瞬曇る。
「もしかして…でも駐在のお巡りさんもいたからだい…大丈夫よね。」
「お母さん!そんな事より!お料理とか準備してえりなちゃんのお迎えいこう!」
「そ、そうね…!あと茉莉花ちゃんも来てくれるから行きましょ!」
彼女は息子を見つめると、笑顔で頷く。しかし、その笑顔の奥には不安と驚きが隠されていた。
二人は『喫茶店KEy』にたどり着き、裕太は部屋に着くなり、リビングのテレビを点けた。
そして、美留は恵理奈のプレゼントをそっと食卓テーブルに置き、キッチンに立ち腕捲りをすると料理を作り始めた。
『クリスマスイヴ!プレゼントランキングー!
皆さんが悩みそーなプレゼントを番組が紹介!それでは…!堂々の第いちぃ……』
〈緊急ニュース速報…〉
息子が点けたテレビにはクリスマスイブの特集が映っていた。
しかし、その番組を割り込む様に、報道ニュースのキャスターとワイプには二人が知らない男性が映っていた。
『番組の途中ですが…ニュースをお伝えします。本日未明。あの玩具メーカーの中澤裕二社長の御子息"中澤彰人(22)"氏、が通りすがりの乗用車に轢かれ…』
美留は耳だけ傾け、作業を続けている。息子はつまらなそうにリモコンに手を伸ばし、チャンネルを替えた。
そして、調理に夢中になっている美留の携帯電話に着信が鳴る。美留は携帯電話のディスプレイをる と"茉莉花ちゃん"と表示されていた。
「もしもし?茉莉花ちゃん?」
「もしもし!み、美留さん!テレビ見てましたか!?」
茉莉花の言葉は早口になり、何か慌てている様子だった。
「ん…どうしたの?茉莉花ちゃん。落ちついてゆっくり話して…」
「美留さん!?えりなちゃんのお名前って"佐山恵理奈"…ですか!?い、今テレビに恵理奈ちゃんが映ってるんです!」
「ま、茉莉花ちゃん!?本当に?!」
そして、携帯電話を右耳に掛けたまま息子に駆け寄り、
「裕太、ちょっとリモコン貸して?!」
「え、あはい。」
裕太はテレビのリモコンを美留に渡し、チャンネルを変えた。
そしてとあるニュース番組に替わった瞬間、見覚えのある風景、そして今日出逢ったばかりの"佐山伊津美"の写真が映っていた。
『…"佐山伊津美"(25)さん重体により最寄りの病院へ搬送されました。警察は加害者を死亡した"中澤彰人"(21)氏と関連があるとみて捜査しています。』
「もしもし!美留さん!大丈夫ですか…み」
彼女の右耳から通話中の茉莉花の声がしたが彼女と裕太は目を皿にしてテレビ画面に釘付けとなり。硬直していた。
そして、画面には救急隊員から毛布を被せられている恵理奈の姿が映っていた。
「お、お母さん…この子って…。」
「え、ええ…。恵理奈ちゃんだわ…。裕太!茉莉花お姉さんとお留守番出来る?!」
美留の額から冷たい汗が滴り落ち、真っ直ぐな眼差しで息子を見つめた。
「う、うん!お姉さんとお留守番してる!」
息子の言葉を聞いて美留は一瞬安堵の表情を浮かべ、茉莉花との通話を続けた。
「もしもし!美留さん!」
「もしもし!茉莉花ちゃん!ニュース見たよ…心配だから行ってくる!裕太の面倒頼めるかな…?」
「わ、わかりました!今から"KEy"に向かって裕太君とお留守番しています!」
「茉莉花ちゃん!ありがとう!」
大人二人の電話の内容が解らなくても、裕太は不安を感じていた。
美留がベージュのコートを羽織り、息子の頭を撫で家を後にした。
裕太はさっきまでの出来事に呆気にとられ、リビングで独り呆然としていた。
その空間には只、ニュースの音声だけが響き、流れている。
『尚、現場に居合わせていた"佐山恵理奈"(8)ちゃんは警察が保護した模様です!以前から母…』
2001年12月24日14:30分
その日から"佐山恵理奈"は忽然と姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます