あの夏は暑かった、らしい。

ぜろ

あの夏は暑かった、らしい。

 二〇二〇年の夏は酷暑だった、と記載されている。この年は東京でオリンピックがあり、札幌ではマラソンがあり、その変革に人々が振り回されたのだという。開催地だけに仕事で生中継を見ることができない人も多く不満たらたらで、あちこちの部署が『乱』と称しては視聴覚室に閉じこもりテレビを見ていたのだそうだ。『乱』だけに政権交代には至らず、減給処分を受ける人間が多発しただけだったらしいけれど。

 『らしい』と言うのは私が二〇四〇年からこの時代を俯瞰しているせいだ。幽体離脱+タイムスリップ。ありがちなことだけど、私は飛び出していった飼い犬を庇って現在集中治療室にいる。軽トラックだったとしても身体にぶつかったらそこそこのショックを受けるんだろう。魂、と言うものも。

 しかしなんだって生まれてもいない時代に飛ばされたんだろう。お父さんとお母さんが結婚したのはもうちょっと前だし、私が生まれるのはもうちょっと後だ。スポーツはまるで駄目の運チ君だから勿論アスファルトが溶けるような夏の競技にも興味がない。スキーはちょっと滑られるけれど、それも実家が青森で冬の間のスポーツ教室で習うからだ。

 とにかく私はこの時代に何のゆかりもない。だからどうしたものかと困ってしまう。空の上からは夕焼けが人喰いの魔物のような口を開けているのが見えた。空。そう、私は浮かんでいる。けれどちょっとずつ降下して行ってるのは確かだ。とてもとても緩い速度で私は降下している。落ちたら死ぬのかな。それまでの延長期間? いやでもだからってなんで二〇二〇年。温暖化真っ最中でもそれを感じないのは良いんだけれど、なんだってこの夏に呼ばれたのか。呼ばれた。多分私は呼ばれたんだろう、時代に。なんて言うとニヒルな探偵さんみたいだけど、フーダニットでハウダニットでホワイダニットだった。落ちていくと小さな時計台が見えて、それがあの有名な札幌のものだとわかる。と言うことは青森でもないのか。東京でもない二〇二〇年がいったい私に何の用があるって言うんだろう。札幌。目を凝らすと巨大な公園が街を叩き割っている。あれだ、ビール祭りとかやるあそこだ。お父さんとお母さんと家族旅行で行った時に見たことがある。でもまだまだ届かない。頭を後ろにやると、存外簡単にころんっと身体は横たわった。親方、空から女の子が! 版権に響くからやめよう。半世紀も前の映画だけど、著作権はまだ生きている。

 ふぁ、とあくびが出て。眠いのかな、と思う。寝たら現実に戻るのかな。思いながら落ちながら、私は眼を閉じる。案外早く、睡魔は訪れた。


 わあああああああと言う歓声で目を覚ますと、私はまだ浮かんでいた。でも大分高度が下がって、その辺のビルなんかと同じ高さになっている。それでもゆっくりとした降下は止んでいない。手で目をこすりながら下を見ると、マラソンが始まったところだったようだ。最初は男子から。ひよひよなんとなく追いかけていると、見慣れた日の丸印を背負っている背中が妙に懐かしい。すい、と飛んでいくと、やっぱりまっすぐな背中でトップ争いをしているのは――


 私のお父さんだった。


 今はぷよぷよで会社員してるけれど、昔はすごかったんだぞ、と威張るのを聞いたことがある。いや凄いにしても凄すぎだろう。オリンピックだよねこれ。選考会とかじゃないよね。みんなそれぞれの国旗着けてるし。うーんと目を細めてまだ遠いその顔を見る。しゅっとしてスマートで、ちょっとだけ好みの顔だった。動画や写真じゃないとこんな風に見えるのか、ちょっと感心してしまう。そして沿道からハスキーな声援が聞こえるのに、私はまたちょっと身体をひねらせた。

 お母さんだ。今よりちょっと痩せてて私に似た――私が似た?――くっきりした二重瞼が汗を流している。お化粧はウォータープルーフだ、抜かりない。もうこの頃は夫婦だったから、チケットも都合してもらえたのかな、なんてあくどいことを考える娘です。うむ。

 がんばれがんばれ言われてるのも大変だろうなあ。折り返しに来て流石に疲れの色が見え始めるお父さんの顔が近くに見えて来る。国を背負ってるって大変だ。威信が掛かってるって面倒くさい。私はこういう才能がなくてよかった。磨かなくてはならないものがなくてよかった――と言うのも、ちょっとは嫉妬混じりかもしれない。何にも期待されないって言うのは結構きついことだ。何にもできることがないって言うのは切ないことだ。どろんこで駆けずり回る野球部とか、スパイクで足を怪我するサッカー部員とか。彼らは彼らの中の応援してくれる人のために頑張れている。じゃあ私は何だろう? 何のために生まれて、何をして生きるのか。いや死に掛かってんだけどさ。そしてこの歌詞も著作権まだ切れてないけどさ。

 でも。

 やっぱり叫んじゃうのはこの言葉。


「お父さん、がんばれー!」


 一瞬こっちを振り向いたような気がして、ぴゃっとなる。それから急速に私は落下していき――



「――ちゃん、純ちゃん!」

「……おかーさん?」

「奇跡だ、目を覚ました! すぐに検査の準備を!」

 目を開けるとそこは病院のようだった。薄青のナース服を着たおじさんや白衣のちょっと頭の寂しいおじさんがどたどた走り回っている。そして私の隣にはお母さんが。逆隣りには、

「がんばれ、純、がんばれ……!」

 あの時とは全然違うぷよぷよのお父さんが、手を握りしめていた。

「おとーさん」

「純、がんばれ、純!」

「オリンピックは結局何位だったの?」

 きょとんとした顔がおかしくて、私は笑ってしまった。すると内臓がちょっと痛くて目が余計に覚めて来る。ジョンは無事だっただろうか、私はお母さんに尋ねてみる。純の弟だからジョン。実にテキトーに名付けられた愛犬の事を。

「ちょっとご飯が減ったけど、元気にしているわよ。あなたの汗拭いたタオル持って行くとすぐに隠しちゃって。本当、しょうがない子……しょうが、ない子ッ」

「純、オリンピックの話なんて誰に聞いたんだ? 父さんそこら中に口止めして回ったって言うのに」

「まあ、ちょっとしたSFだよ。お父さん」

 純文読者のお父さんにはよく解らないらしかった。

 でも私は多分お父さんを助けに行ったんだろう。顎が上がって給水もままならなくなってたお父さんを励ましに。その方がロマンチックな解釈だ。うん、と私はまた眠りに入りそうになる。

「木原さん! 木原純さん! まだ眠らないでください、木原さん!」

 ……眠れたもんじゃなかったけど。

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