第七話「のぞみと過去」

『僕と一緒に来てくれないか。僕には君が必要なんだ』 

スポットライトに当てられた男は、誰かに向かって話しかけた。しかし男の視線の先は何もない暗がり。男は舞台でたった一人。それでも男は暗がりに向かって手を伸ばす。

すると下手の舞台袖から誰かが出てきた。スポットライトの手前で止まったために顔ははっきり見えないが、その影から小柄な女であることが分かる。

『さぁ、君もこっちに来るんだ。君は影に留まるような人じゃない。君こそ光の下に出るべきなんだ』

女はその言葉に手を伸ばしかける。しかし途中で引っ込めて首を振る。

『過去の事なんてどうでもいい。僕は気にしない。だから……』

『そうはいきませんわ』

今度は上手の舞台袖から派手な女が出てきた。その女は従者を連れて、ためらうことなく男のスポットライトの中に入る。

『あの女は嘘つきでひねくれ者です』

そう言って派手な女は男の腕にスルリと自分の腕を絡ませる。

『あんな女より、わたくしの方があなた様にお似合いだわ』

『そんな、彼女はそんな人では……』

『ああ、なんとお優しい方。それでもね』

大仰な語り方をし、体を1回転させながら影の女に近づく。回転の途中で古い毛布を掴んで。

『この女は自分で影を選んだのですよ。それならそれらしく振舞って頂かないと』

そう言って持っていた古い毛布を影の女に頭から被せた。

『それに!』

派手で大仰な女は男の元に戻ったかと思いきや、今度はその胸に飛び込む。

『あんな女を選んだら、あなた様の輝かしい光にだって影を落とすことになります。あの女もそれが分かってるから、あなた様に近づかないのですわ』

そして大仰な女は影の女の目をジッと見つめて言う。

『ねぇ、そうでしょ?豊崎先輩』


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「のぞみさん!」

のぞみはカウンターでボーとしてたところを呼びかけられて、ハッと我に帰った。

「は、はい!いらっしゃいませ!」

「どうかしたんですか、のぞみさん。体調でも悪いんですか?」

のぞみに声をかけたのは大祐だった。

「あ、大祐くん」

「大丈夫ですか?体調でも悪いんですか?」

「ううん、大丈夫大丈夫。また本借りていくの?」

のぞみは話題を変えるように手を伸ばして大祐の持っている本を受け取ろうとする。

「あ、はい」

そう言って差し出した本は、ハリソン・ゲル著、番場博史訳の『沈黙の翼』。ハイジャックを題材にした航空パニック小説だった。とても古い本だが、出た当初は世界的なベストセラーとなり、今でも根強い人気がある。

この本を受け取った瞬間、のぞみは固まってしまう。まさかこのタイミングで大祐がこの本を持ってくるとは。

またもや不自然な間ののぞみを大祐が覗き込む。

「のぞみさん、本当に大丈夫ですか?何かあったんですか?」

心当たりがあるのぞみはドキッとしながら平静を装う。

「うんん。本当に平気だから。ちょっと雨が続いて憂鬱なだけだよ」

「そうですか?それだけならいいんですけど。いや、憂鬱なのはよくないか……」

自分で言って自分で突っ込む大祐に少し笑いながら貸出作業を進める。

「今までSF小説とか戦争ものをよく借りてたから、新しいジャンルだなーと思って」

「そうですか?そうかな?」

「なんでこれを借りようと思ったの?」

「いや、たまたま深夜にやってた映画を見て面白かったんで、原作も読んでみようと」

『沈黙の翼』は出版されてからすぐに映画化され、それも大ヒットした。そしてその後の航空パニックや乗り物を題材にしたサスペンス映画の元祖と言われる程になった。

「そっか」

のぞみは本の表紙をジッと見てから、「はい」っと大祐に本を渡した。

「じゃあ、のぞみさん。あまり無理しないでくださいね」

そう言って帰っていく大祐にのぞみは手を振りながら、本のこと、そしてあの読み聞かせの日に小山真由美(こやままゆみ)に会ったことを思い出してた。


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「あれ?豊崎先輩じゃないですか」

先輩呼びをされるのが久しぶりだったのぞみはびっくりし、呼ばれた方に振り向いた。

「……小山さん?」

「そうですよ。久しぶりですね。卒業以来ですか?」

真由美は楽しげにしゃべるが、思いがけない再会にのぞみは返事を返せないでいた。

「あ、こいつのことも憶えてます?健太ですよ。川里健太(かわさとけんた)」

「お久しぶりです。豊崎先輩」

真由美の後ろに立っていた男が申し訳なさそうに顔を出した。

やはりのぞみは声が出せず、かろうじて会釈だけする。

「先輩もここで雨宿りですか?奇遇ですね」

「あ、いえ……」

のぞみは思わず名札を手で隠そうとする。

「あ、そのエプロン。先輩、ここの職員だったんですか」

のぞみは真由美と目を合わせることができない。

「へー、先輩。小説とか物語が好きでしたもんね。それで私たちの劇団に来たんだし」

その言葉にのぞみは真由美の顔を見る。

その顔は、昔を懐かしむというより、過去を蒸し返すような表情だった。

「おい、今さらその話はいいだろ」

後ろから健太が口を挟む。

「その話ってどの話?もしかして小笠原先輩のこと?」

確信犯のような顔で真由美は小笠原瞬(おがさわらしゅん)の名前を出した。

健太は呆れるようにため息をつき、のぞみは真由美の顔を見て息を飲む。

「私は全然そんなこと考えてなかったけど。そんな話もしてなかったし。ねぇ?先輩」

確かに話していたのは劇団のことだ。しかしのぞみにとって劇団とは小笠原瞬のことだったし、小笠原瞬は劇団の団長だった男だ。

だから劇団の話になれば小笠原瞬のことが脳裏に浮かぶのは当然。真由美もそのことを分かってて劇団の話を出した。

「それに先輩にはもう関係ないことですもんね」

その真由美の笑顔にのぞみは思わず視線を外す。

その態度が真由美をイラっとさせた。詰め寄るようにのぞみに近づく。

「まさかとは思いますけど、関係ないってこと、分かってますよね?」

「ちょっと、その辺にしとけよ。こんなところで……」

確かにここは人目につきすぎる。一歩引いた真由美は、そのまままた雨の中に出ていこうとした。

「あ、そうそう。これも豊崎先輩には関係ないことですけど、小笠原先輩が一時帰国してるそうですよ」

そう言って真由美は歩いて去っていき、そのあとを健太が追いかけていった。


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のぞみは本を棚に戻す作業を行っていたがなかなかはかどらない。今もいつの間にか手が止まっていた。

まさかここに来て小笠原瞬の名前を聞くとは思っていなかった。小笠原瞬はのぞみの大学時代の先輩で、劇団サークルの団長。そして卒業後にそのまま舞台役者になり、今は舞台の勉強のためにアメリカに留学している。真由美から一時帰国していると聞いてどうしても気になって調べたところ、アメリカで舞台役者として成功して、凱旋公演で日本に戻ってきているらしい。

最初は周囲に反対された夢を立派に掴んだというわけだ。


そんな小笠原瞬とのぞみを繋いだのが、先ほど大祐が借りていった『沈黙の翼』だった。


のぞみがまだ大学二年の頃。

友達のあまりいなかったのぞみは、食堂で一人で本を読んでいることが多かった。

その日も昼休みに一人で『沈黙の翼』を読んでいた。そこに瞬が声をかけた。

いきなり向かいの席に座られたことにのぞみは非常に驚いた。それにそれまで瞬のことなんて全く知らなかったし、普段男から声をかけられることがなかったから尚更だ。

瞬が興味を惹かれたのはのぞみが読んでいた『沈黙の翼』。世界的なベストセラーで映画化されたとは言え、それはかなり昔の話。当時の若者の間ではあまり知られていなかった。その原作をのぞみが読んでいたから気になったのだ。

大学一年の時から瞬は演劇サークルに入っており、三年生だった当時はそれなりに重要な役も任せられるようになっていた。

役者の面白さ、舞台の奥深さが少しずつ分かってきたころ、瞬は一つの目標を掲げた。それは大好きな『沈黙の翼』を舞台でやることだった。

「でも航空パニック小説を舞台でやるって難しくないですか?」

誰もが思いつきそうな簡単な疑問を口にしたのぞみに、瞬は目を輝かせて構想を熱く語った。まだまだアイデアは断片的なもので、予算も度外視された構想だったが、瞬の熱意は十二分に伝わるものだった。


「それはまだまだ先の話だけど」

そう言って瞬は立ち上がって身を乗り出し「今度やる俺の舞台見に来てよ」。


これがのぞみと瞬の始まりだった。

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