幸福の交差点
朝倉 潤は、小学校の頃に知り合った人で、世の中で言う幼なじみというやつだ。
当時の印象を言うと、真面目で人情深い人だった。
勉強を見てくれたり、一緒に遊んでくれたり、本当の兄見たいで、その頃ぐらいから兄貴と言って慕っていた。
しかし、俺が中学生になると、高校生になった潤さんは劇的に変わっていた。
チャラくなっていたのだ。
衣服に突然興味を持ったり、無駄に微笑むようになったり、女の子の関連する話しに過剰なぐらい食い付いてきたりとそれはもう劇的な変化だった。
けれど、それでも交流は続き、去年お互いに高校と大学の受験があったため一時的に会わなくなっていた。
けど、こんなにチャラくなるなんて思わなかったよ……。
黒い中折れハットが妙に決まっているから余計に腹立つ。
「なんでここに潤さんがいるんだよ」
「おい、お客さんになんてこと言うんだ。ごめんな朝倉君」
「いえいえ。悠人君も年頃ですし、思春期に入った弟だと思えばなに言われても嬉しいものですよ」
思わぬ親父の反論に、潤さんがなだめに入った。いちいちイライラするけどとりあえず歯を見せながら笑うな。
「そういえば、厨房を貸してとか言ってたね。マスター、僕の顔に免じて貸してやってはくれませんか」
「朝倉君の頼みなら仕方ないか。ユウト、使って良いぞ」
笑顔に会釈の潤さんに、後頭部をカリカリ掻いて微笑む親父。
一体どうして潤さんの力添えが必要なのか、というか息子の俺より潤さんが上なのかこれは。
力関係に不服を感じつつ、弟子に声をかけて厨房へと入った。
「おお! これが、喫茶店の厨房……」
「譲り物ばかりですよ」
オープンキッチンという仕様にも遊び心を加えたのか、コンロ以外は見せるスタイルで、フライパンは壁に大きさ順で並べられ、左から右へと小さくなっている。
床は水捌けの良いタイル張り。銀色に光るボウルや台所は年季を感じさせるくたびれた傷痕が多い。
特にこの店のシンボルみたいなサイフォンは、親父に割られた同胞達の意思を汲む意思を見せる様に今日も頭の水を沸騰させている。
厨房の入り口近くに置いている木のタンスを開け、落ち着いた緑色のエプロンを二枚取り、一枚を先輩へと渡す。
「厨房に入るんで、エプロンと頭巾をお願いします」
「はい!」
更に二枚の青い無地の布を二枚取り出して、一枚を渡し、自分の頭に三角頭巾を結ぶ。
髪の毛が料理などに落ちないようにするための準備だが、親父は三角頭巾を毛嫌いしていて、ある日、首まで伸びていた髪をバッサリ切って、何ともない風にただいまって短髪頭で帰って来た時は驚いた。
ちなみに、お客さんの料理に髪の毛が入っていたというクレームは今のところ入っていないらしい。
「先輩、準備できましたか」
「はい、出来ました」
エプロンを首にかけ、頭に三角頭巾で覆った先輩。
味気ない無地なのに、先輩が着ると妙に可愛い。
何て言うか、家庭的な可愛さというか、
「お師匠?」
「いや! なんでもありません」
キョトン顔で呼ばれて、自分の成すべきことを思い出した。
そうだ、今から料理を教えるんだ。見惚れてる場合じゃない!
意識を先輩から台所に移し、持ってきた袋から卵パックを取り出して、下の棚にしまってある鍋を取り出し、蛇口を捻って水で満たす。
そこに、卵を四つ程入れてコンロに置いた。
「ここから、色々教えていきますね」
はい、とコンロ前を先輩に譲り、コンロの使い方を教える。
捻って付けるタイプなので、押して付く家のコンロと間違って押すところを探した日があった。一瞬だったとはいえ恥ずかしかったな。
「こうですね。は! ボォってつきました」
火のついたコンロに小さいながらも驚いてる姿が何とも微笑ましい。
そうか、料理初心者ってこんなことにも驚くんだな。
親父がカフェを経営すると宣言したのは、俺が小学校三年生の時、当時八歳の俺は訳もわからずはしゃいでいたのを覚えてる。
普段台所に立たない親父が、悪戦苦闘で剥いた凹凸の多いリンゴは未だに忘れられない。
今にしてみれば、難しく見えた親父の教材を盗み見るようになる頃には、既に俺の料理への情熱は燃え始めてたのかもしれない。
まあ、今にしてみればだけど。
「あ、沸騰してきました」
「ようし、ここから八分待ちますよ」
冷蔵庫に貼り付いてるタイマーのスタートボタンを押して先輩に任す。
火の加減をたまにいじりながら、ぼぉーっと鍋の中身を見つめている。
八分が過ぎるのを楽しみにしながら待った。
「へぇー、最初に教えるのは茹で玉子かい?」
後ろのカウンター席に座る潤さんだ。
見ると、興味深そうにこちらの手元を覗いている。
「別に何でも良いだろ」
「まあね。にしても、最初に教えるのが茹で玉子ってなんだか味気ないというか、色気がないというか……」
う~んとうなる潤さん。
この人は料理を教えるのに何を求めてるんだ。
とりあえず潤さんはほっとく方針で、残る時間の間に玉ねぎと冷蔵庫からマヨネーズを取り出す。
「何か作るんですか?」
「はい。エッグサンドの具を作ります」
まな板の上に玉ねぎを一つ置き、取り出した包丁で真っ二つにする。
そして、頭とお尻部分の固い茎を切り落とし、するすると皮を剥く。
白い透明な玉ねぎに、縦と横に切れ込みを数ヶ所入れ、横にしてさっと刻む。
「お師匠、大丈夫何ですか?」
「何が?」
「玉ねぎを切ると、人は無性に泣きたくなるって都市伝説があるんですよ。お師匠は大丈夫なんですか」
沸騰した鍋の前で心配そうにフィルターの無い瞳が不安な色を滲ませている。
というか、都市伝説?
「それ、誰から情報ですか?」
「友達からです」
うん、ユニークな友達を持ったね。そしてその友達にからかわれてるね。
玉ねぎを切っていればそんな伝説三度の飯以上に遭遇するものなのに、この先輩はトースト以外の料理では本当に純粋だ。
ザクザク。
ブクブク。
粗いみじん切りでザクザクと細かくなっていく玉ねぎ。
音に合わせて鍋のブクブクという破裂音が小気味良く包丁のリズムと合わさって、即興のジャズセッションのような軽快で快活な音が厨房から奏でられる。
ピー、ピー、
冷蔵庫に貼り付いていたキッチンタイマーが鳴り、先輩が慎重にコンロの火を消す。
お玉をフックから取って、事前に用意したザルに卵を入れる。
「じゃあ先輩、卵の殻剥きもお願いします」
「これは家でもやったことあるので自信あります」
アチ、という小さな悲鳴が時折するのを背に受けて、買っていた八枚切りの食パン二枚をトースターに入れ、タイマーを回す。
「後は味付けか」
「フフ。こうして見てると夫婦だね」
「ばっ!? バカじゃねぇーの!」
あはは、と人を弄って笑う潤さん。手元にある黒い液体が入った陶器のカップを口に付け少し傾ける。
「うん、やっぱりここのコーヒーは美味しいな」
「特にこだわりはないっすよ」
何だったら豆を買ってる輸入ショップを教えてやろうか。
喉まで来た台詞を何とか留める。
じっと先輩の背中を見つめる潤さんは、はぁーと唐突にため息を吐く。
「彼女作ろうって張り切ってるけど、まさか悠人君に先越されるなんてな」
だから先輩は彼女じゃない。
って言うと、『そうなんだ。じゃあ悠人君って彼女いない歴更新中なんだね』とかいう嫌みを言われそうなのであえて言わない。むしろその方がこの人も苦しむだろう。
「お師匠、殻を全部剥きました」
つやつやの茹で玉子を二つ両手で持って剥けましたアピールする先輩に、はいと掛け声。
目の前のお客から離れられることを嬉しく思いながら、キッチンペーパーで玉子の表面を水気が無くなるように拭く。
そして、
「先輩、今から先輩の注意深さを確認します」
「えっ? どういう意味ですか」
疑問に答える代わりに、えいっ、と玉子を二つ切り分ける。
「あっ」
間の抜けた声がした。
先輩だった。
「ギリギリアウトですね」
玉子は、白身は程よく固まっているが、黄身の所々から固まり切れなかった液体が流れている。
半熟玉子だ。
「何で、あんなに注意して火加減に気を遣ってたのに」
「そこなんです」
さっと刃を入れ。玉子を細かくしていく。
「注意するあまり、火加減を弱めていましたよね」
玉子を玉ねぎの入ったボウルに入れ、塩、胡椒を適量加え、マヨネーズを大さじで二回加えて混ぜる。
「はい。けど、沸騰してる鍋の中を見ると、卵が動いていて、このままだと割れると思っちゃいまして、もしかして余計な心配でした?」
チーン、と焼き上がりの合図。
キツネ色のトースト二枚をまな板の上に乗せ、そこに新たなトーストを加える。
「いや、その心配はありますよ。動いてる卵同士が当たって割れることはあります」
酢を大さじで一回入れるとそんな心配もないという裏技がある。
でもそれを教えるのはまた今度にしよう。
トーストの表面に薄く粒マスタードを塗り、その上に玉子サラダを落とす。四隅に均等にスプーンの匙で伸ばし広げていく。
その工程をもう一度繰り返して、もう一つエッグサンドが出来上がる。
「反省とか見直しも必要ですが、まずは――」
重ねたトースターを、英語新聞風のペーパーで包み三角型に切る。
食器棚から取り出した皿の上に二つずつ乗せ、玉子サンドの乗った皿を笑顔と共に先輩へ差し出す。
「出来立てのエッグサンドを食べましょう」
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