孤独

 彼の不幸を知った僕は、激しく慟哭した。人間がためにこれ程哭悲こくひしたことは今までにない。思い返せば、こんな山の奥に一人で暮らしていて、しかも外見は成長しない。そんな者がただの人間であるはずもなかろう。シュウは僕が人ならざる何かであることに、とっくの昔に気づいていたのだと思う。気づいて尚、彼は私との交誼を温めてくれたのである。

 僕は、かつて大陸の東で読んだことのある古典を引いて、人の世について思いを馳せた。清廉なる伯夷はくい叔斉しゅくせいは山中に餓死した。顔回がんかいという賢人は飢餓の内に若死にし、有道の人と称された栄啓期えいけいきは貧窮にありて老いさらばえた。翻って盗跖とうせきなる大悪党は、盗み殺しに明け暮れながら天寿を全うしたという。

 ——人の世に、どうなどあろうか。

 もう、居ても立っても居られない。シュウの無念を思って悲憤した僕は、虎狼にも悪鬼にもなってやろう、と決めた。

 僕は山を下りるために屋敷の外へ出た。外は、シュウと出会ったあの日のように、しんしんと雪が降っている。僕は背から翼を生やし、夜闇に紛れて、滅するべき者たちの所へと向かった。

 山から市街地へ向かうと、眼下には不夜城のような光景が広がっていた。街中で明かりが煌々と灯る様は、人間が夜闇を克服し支配しているかのような様を思わせる。

 僕は一際大きな豪邸の庭に下り立つと、その窓を蹴破り侵入した。その部屋には、シュウを陥れた元妻がいる。今は再婚していて、別の男と同じベッドの中にいた。

 僕は斧を握りしめて二人に近づいた。二人が僕に気づいた時、すでに僕は女を斧の間合いに収めていた。

 男の方は果敢にも僕に掴みかかろうとしたが、たとえ大人の男が相手であろうと、僕が力負けするはずがない。僕は男を突き飛ばすと、無言で斧を振り下ろし、逃げ遅れた女の首を切り落とした。

 その後、僕は豪邸に火を放った。彼女の両親も、この屋敷にいる。彼らはすぐに殺すつもりはない。この炎でじわじわと焼き殺してやろうと、僕は思った。魔術で発した炎は、あっという間に屋敷中に燃え広がっていく。

 ——これは、僕の怒りの炎だ。

 僕は庭に出ると、燃え盛る屋敷をただ一人、眺めていた。夜空の下に炎が揺れる様は、とても美しかった。

 きびすを返して僕が去ろうとしたその時、ずどん、と、何かが破裂したような轟音が聞こえると共に、僕の腹に、今まで感じたことのない衝撃が走った。

 振り返ると、そこにはさっきの男がいた。いつの間に館を脱出したのか。手には、黒い筒のようなものが握られており、その先端から煙が上がっている。確か、銃という武器であったか……

「この悪魔め!」

 もう一度、ずとん、という音が鳴り、僕の体は後方に吹き飛んだ。これぐらいのことで死にはしないが、流石に無傷というわけにもいかない。腹を触ると、ぬるりという感触と共に、赤い血が右手に付着した。足元に積もる雪にも、赤い点がまぶされている。

 僕は腹を右手で押さえながら、再び翼を生やし飛び去った。もう一度、同じ轟音が黒い筒から聞こえたが、僕の体には何も当たらなかった。


 それから、百年の月日が流れた。シュウのことを知る者は。最早誰もない。彼には子がなく、また一家も離散してしまっている。そのため、供養する者のいない彼は、無縁塚に葬られた。

 人前に姿を晒したくはないが、それでも僕は毎年、彼の命日にはこっそり山を下りて、彼の骨が入れられた無縁塚に手を合わせている。それが、今年で丁度百回目になる。

 あれ以来、僕は再び孤独の身となった。元々、ずっとそうして過ごしてきた。そのはずの僕が、人恋しいと思ってしまうのは、やはりシュウのせいなのだろう。彼は、たった数年で、僕の心に大きな爪痕を残していった。体につけられた傷などは、すぐに治る。けれども、心に残された爪痕は、きっと、永久に塞がることはないのだろう。


 季節はめぐり、人の世は移ろい行く。僕の、彼を想う心だけは、連綿と続いて尽きることはない——

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とある魔族の孤独 武州人也 @hagachi-hm

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