第48話 東山亮は (5)
歩きながら、ふと考える。
俺はこれから、どうやって生きていくのだろうと。
未来と現在の間には、ただひたすらに茫漠とした空間が横たわっていて、それを埋めるために必要な【理想】が俺の中にはなかった。
理想、とはつまり生きる指針みたいなものだ。それがなければ進退すら叶わず、その場で立ち止まって時を過ごす。どれだけ小さなものであれ、理想は必要なのだ。
それがなかったから、停滞の中で、ただ生まれたことを悔やんで生きていた。
そうやって生きてきたことを、後悔はしていない。いまだに恋愛は出来ないし、ミササギと一歩踏み込んだ関係になるのは不可能だろう。俺の信条がそれを許さない。
それでも。
俺は、やるべきことが見つかった。
ただ愚直に、恋愛や、結婚、家庭問題に向き合ってきたからこそやるべきことがある。あの日々の生きづらさのおかげで、俺にはまだ出来ることがある。
そうして、出来ることを全て果たして、ようやく贖罪が叶う気がする。
「……悲しいな、ほんと」
腕の時計を見ると、時刻は午後八時になっていた。
あれから警察が来て、救急隊員が来て、事態はとりあえずの収束を見せた。そして俺は事情聴取を受けて、解放されたのが三十分前。カツ丼は出なかったので、さっきラーメンを食べてきた。
智咲の今後はまだ分からないが、今まで通りとはいかないだろう。結局、俺もまた後日呼ばれることになってしまった。
雨上がりの道をしばらく歩いて、次第に見知った建物が増えていく。どこか湿った埃っぽいにおいを肺一杯に吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
隣町から徒歩で四十分。ようやく家に帰ってきた。先ほどまで金銭感覚が揺らぐレベルのマンションにいたから、このアパートはどこか落ち着く気がした。
「ただいま」
返事はない。親父はまだ帰ってきていないのか。
「おかえり」
「うぉっ……いたなら返事くらいしてくれよ……」
親父は何を言うわけでもなく、食卓の椅子に座っていた。今はもう使われなくなった二つの椅子。親父はまだそれを捨てずに、そのままにしている。
「どうだ、」
「……何が」
ダイニングテーブルにはすでに開けられた二本のビール缶が転がっていた。親父は三本目をカシュッという小気味良い音を立てながら開ける。話が長くなりそうだったので、向かいの椅子に座って、開けたばかりのビールを親父からひったくって呷る。まあ、酔えればうまいのだろうが、癖の強い炭酸としか思えなかった。
「智咲と母さんは、元気そうにしてたか」
「…………ああ」
俺がビール缶をテーブルに戻すと、今度は親父がそれを呷る。普段は発泡酒だろうに。
「そうか」
言って、酒臭いだけの沈黙が訪れる。
俺は、言うべきなのだろうか。親父からアプローチをかければ、智咲も母さんも戻ってきてくれるかもしれない。でも、それでいいのか?
「なあ、何で母さんと結婚したんだ?」
慣れないアルコールで酔いが回ったのか、そんな言葉が口を突いて出た。前から疑問には思っていたのだけれど、直接聞くのは憚られるという理由で聞かなかった疑問。
親父は少しだけ目を見開くと、緩く瞑目してもう一度ビールを呷る。
「……幸せに、してやりたかったんだ」
俺よりもはるかに酔いが回っているはずなのに、その言葉にどこか遠くに呟くような憂いを感じた。目の前に座る親父は、いつもより小さく見えた。
幸せにしてやりたい、この願いほど傲慢な願いはないだろう。けれど、そう切り捨てることも俺には出来ない。
ふと、いつかのつり橋効果について思い出してみた。
単純なリスクを考えれば、一人ずつ渡った方が安全だ。けれど、人はそれを二人で渡ろうとする。相手にリスクを背負わせてまで、傲慢にも一緒に渡りたいと願うのだ。
もしかしたら、その傲慢さを許容することが恋愛の本質なのかもしれない。
「……そうかい」
「彼女、できたか?」
ふと、親父がそんなことを聞いてきたので、
「できないよ」
とだけ応えた。
親父がふらりと立ち上がり、台所へと消える。すっと出てきたと思えば、俺の前に柿ピーを置いて再び椅子に座った。二人で飲んでいたら残り半分になったビールを呷る。
「俺さ、恋愛が出来ないんだ」
なんということもなく、そう口にした。
「……ごめんな」
「べつに」
そっけなく答えて、柿ピーをバリボリ食べる。辛さとしょっぱさが併存していて、いい感じのおいしさを生み出していた。もしかしたら、これが人類の本質なのだろうか。
別々のモノが混ざり合い、さらにそれが別のモノと混ざる。そうして、多様性は多様性を保ったままいつか集束していくのだろう。なに柿ピーに人類の未来を見出してるんだろ、俺。
「……ごめんな」
「べつに」
そう言って、俺は自室に戻った。
・・・
生きていく中で、理不尽なことなんていくらでもあって、愚直に一つ一つと向き合っていくことはひどく疲れる。向き合わず、あきらめて、受け入れて生きていくのも、きっと良いのだろう。
シャワーを浴びて、自室のベッドに倒れこむ。
倦怠感と、足に残る疲労感。睡魔に身を任せて寝に入ってしまおうとも考えたが、 スマホを取り出してメッセージアプリを立ち上げる。
履歴の一番上に表示されていたミササギのアイコンをタップして、逡巡。
「……電話は、ダメだよな」
現在は夜の十時、こんな時間に電話をしたらまずいだろうと、大人しくメッセージを打ち込む。声は聴きたかったが、それはこちらの都合。押し付けるのは傲慢だろう。
【凪に話したいことがある】
そう打って、瞼に重さを感じた。今日はひどく疲れた。もう寝るか。明日から夏休み兼停学期間だから、たっぷり寝れる。
親父も、根幹では母さんと一緒なんだな。
ふと、そんなことを思った。
思考放棄し、傲慢にも我欲に身を任せた。そしてそれに相手を巻き込んだ。結論
としては、両親は俺がもっとも嫌悪するモノの象徴というわけだ。やっぱり、俺は恋愛が出来そうにない。
ピロン。
「……ん?」
沈みかけた意識が、少しだけ引き揚げられる。反射的にスマホを見た。
【なんだ?】
ミササギからの返信だった。
【明日、会いたい】
既読はついたが、しばらく返信はない。なんだろう、頭が熱い気がする。昼からずっと雨に当たったまま放置していたので、風邪をひいたのかもしれない。
しばらくの後、ピロン、と音がしてスマホを見る。
【いいよ】
軽く予定を決めた後に、次第に意識が溶け出していくのを感じた。疲労のせいで意識が限界を迎えていたのだ。さすがに今日は酷使しすぎたか。
【おやすみ。また明日】
ようやくそう言って、スマホを閉じようとしたとき、
【また明日】
そう簡潔に返信が来た。
ふ、と口の端に笑みが浮かぶのを感じながら、枕に顔を埋めて瞑目する。
「…………また明日、か」
恋愛。「恋」と「愛」が併存するもの。
それらの本質は「恋」がアクセルで、「愛」がブレーキなのだろう。アクセルを踏みすぎても事故を起こし、ブレーキを踏みすぎても進めない。どちらかが欠けても成立しないのだ。
だから、真の博愛主義者はずっとブレーキを踏む。
我欲を排し、衝動を抑し、傲慢を隠す。真に相手の幸せを願うのならば、何も行動を起こさないことが最適解だ。
だから――きっと、俺は人を愛せてなどいなかったのだろう。
秒針の音がする。もう、雨の音は聞こえなかった。
・・・
待ち合わせ場所は、無駄に暑い地学準備室。
夏休みとはいえ、部活動や夏期講習があるので学校は空いている。俺は昨日のサボりの件で呼び出され、ついでに成績表を渡された。中身は見てない。
「……おはよう」
「おはよう」
重いドアを開けると、先にミササギが来ていた。どこかぎこちない挨拶が向けら
れる。
開け放たれたドアからは夏の熱気を孕んだ風が入ってきて、蝉の大合唱が弾雨のように飛び込んでくる。どうか虫が入ってきませんように。
「それで、話しって……なん、だ?」
どこか不安げな眼差しで俺を見つめてくる。その弱弱しい視線に、ソファに座ることも憚られた。居場所なさげに胸の前で手が組まれたり、解かれたりを繰り返す。
「ああ、一つ提案なんだが」
そう前置きをして、継ぐ言葉までの間を開ける。
この期に及んで、まだ迷っている。
誰かの幸せを願い、誰かのために行動する。それは傲慢だ。その人の幸福を他人が断ずることそのものが間違っている。そんな資格、俺にあるはずがない。
資格がないのに、あると勘違いした、あるいは資格の有無すら意識しなかった人間が罪を重ねてできたのがこの理不尽な世の中だ。その一端を担うことになるかもしれないという恐怖が、あと一歩を繰り出そうとする足に絡みついてくる。
それでも。
――――結論だ。
「俺達と、暮らさないか」
「………………………………へ?」
風鈴の音が、ちりんちりんと涼し気に響く。部屋の隅に配置された扇風機のハネ
が風を切り、ヘッドを振るたびにモーター音が部屋を行ったり来たり。
豆鉄砲くらった鳩って実際はどんな表情するんだろうとか疑問を浮かべるレベルの表情で、ミササギは固まっていた。軽く見開かれたその瞳が、しばらくの後に揺らいだ。
「な、な、なな⁉」
「俺達と暮らさないか」
「に、二回も言うな!」
白く透き通るような頬が見る見るうちに紅潮していく。汗が首筋をなぞり、彼女の両手はさっきよりも所在なさげに胸の前を彷徨う。夏服のシャツの上からわずかに透ける肌色が妙に艶めかしくて、思わず視線を逸らしてしまう。
だがまあ、一歩踏み出したのだ。後戻りはできない。
「前に言ってただろ、父親と離れたい、って。なら、俺もやりたいことがある」
「そそそそんなハードなのは嫌だ!」
「何もハードじゃないでしょ……」
なにと勘違いしてるんですか。
「そ、そもそもだ! 付き合ってない男女が同棲とかダメだろ!」
「ごもっともで」
だけど、これが最適解だ。
ミササギの「父親と離れる」という願いは、別の形で解決したものの、あくまで別の形。彼女の願いは「一緒に暮らしていると互いに傷つけあってしまうから」という理由で生み出されたものだ。留学の延期では根本的な解決にならない。
だが、父親からすれば、別居するには一人暮らしは不安で、俺と同棲ではもちろんダメ。
なら。
「でも、安心してくれ。俺の行動は妹が監視する」
まさか妹の前で手を出す男がいるはずがない。そんなハードなプレイは嫌だ。
「……うぅん?」
ミササギは小首を傾げながら考える。考えながら、同時にそれを言葉にして問うてきた。
「つまり、私と、亮と、妹さんの三人で暮らす……?」
「そうだ」
「……出来るのか?」
「する」
「……そう、か」
ふう、と息を吐きながら、ミササギは椅子に深く腰掛ける。
智咲を、母親やあの男から遠ざけ、かつミササギの願いを叶える。そのためには三人で同棲するというのが最適解だろう。
彼女ら二人では緊急時の対応に不安が残り、それを解決するために俺が同棲する。隣に部屋を借りても良かったのだが、そこは高校生。金は有限だ。
「三食おいしいチャーハン付きだ」
ダメ押しにと料理男子アピールしてみた。
智咲を助けたい。ミササギの望みを叶えたい。そんな傲慢な願いを反映した案は、彼女にどう映ったのだろうか。緩く瞑目している彼女の瞼の裏に描かれているものを想像しようとして、けれどそれは無粋に思えてやめた。
しばらくの静寂。扇風機が首を振ること二往復。
ようやく、彼女は流麗なラインの瞼を上げて、
「…………せめて朝は別のにしてくれ」
そう言って、彼女は微笑んだ。
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