第47話 東山亮は (4)


 呆然自失としたまま、どれくらい経ったのか。


 細い腕が背中から回されて、ほのかな体温が冷え切った体に広がっていく。あまりに華奢なその体は、ともすれば折れてしまいそうで、俺に彼女を抱きしめる資格はないように思えた。


「…………ごめん、智咲」


 何に対しての謝罪かは、自分でも分からない。


「ううん、助けてくれて……あり、がと」


 互いの言葉にぎこちなさを感じ取って、しばらく言葉は紡がれない。少し離れた場所で横たわる母親を起こす気にもならず、ただ男の上で沈黙する。

 男は、まだ脈がある。気絶しているだけだろう。


 その傷ついた顔に、なんとも言えない感情が湧き上がる。暴力でなくとも、解決する方法はあった。

 警察に通報するも、児相に連絡するも、解決手段はいくらでもあったのだ。

 俺は無力なのに、傲慢にも自分で何とか出来ると思った。自分が何とかしなければいけないと思った。ただ、自分の未熟さを棚上げして。傲慢にも自分で解決しようとした。

 

その結果がこれだ。


 何も学ばず、罪を重ねて、結局誰かを傷つける。


「……智咲」


 発した声は、想像以上に弱弱しかった。


「な、に?」

「警察と、救急車を呼んでくれ。あと――」


――うちで、一緒に暮らさないか。


 そんな言葉を、言おうとしていたのに。

 残酷なまでの理想と現実の乖離。その間に茫漠と横たわる空間を眺めているだけで。その言葉を継ぐことが出来なかった。そんな資格、ないしな。


「いや、なんでもない。ガムテープ、あるか?」

「う、うん」


 彼女は腕を解いて立ち上がると、玄関の方に行ってガムテープを取ってきた。礼を言って受け取ると、彼女はスマホから電話をかけ始める。

 それを尻目に、俺は男の腕と足を縛る。


「………………問題は、この後、か」


 智咲は警察か児相に保護、という形になるだろう。

 だが、あまり信用はできない。大人に対する根本的な不信感が邪魔をして、智咲を保護されるのは気が進まない。もしも、またこの男と暮らすことになったら、それこそ意味がない。

 かといって、うちに呼ぶ資格が俺にあるのだろうか。


「……お兄ちゃん、電話したよ」

「ああ、ありがとう――」


 ふと、連絡を終えて話しかけてきた智咲の体が、大きくよろめく。


「お、おい⁉」


 しゃがんでいた状態から立ち上がって、倒れかけた彼女の体を抱きとどめる。軽い体は疲弊した俺でも十分に支えられて、あまりの軽さに目を見張るほどだった。とりあえず、近くにあったソファに座らせる。


「ごめんね、ちょっと、疲れてたみたいで……」


 そう言って、寂し気な笑みを見せる彼女。


「…………ごめんな、智咲」


 あの雨の日、もしも俺が踏み込んで、彼女を助けようとしていたならこんな事態にはならなかったのかもしれない。ただ、後悔だけが募る。


「ううん、ありがとう」


 そう言って寂し気に微笑む彼女に向ける言葉を探す。彼女の綺麗な黒髪は、先ほど掴まれたせいで乱れていた。俺が来なければ、こうはならなかったのだろうか。


 人生、悲しいことばっかりだ。

 なるほど、恋愛なんていう脆弱なものに縋りたくなるのも分かる気がする。あれは一種の麻薬なのだ。相手の存在を認め、自分の存在を認められる。そうでもしなければ、自分を保てない。自分を認識してくれる他人が必要なのだ。

 恋愛にでも縋らないと、やっていけないな。


「なあ、智咲」

「うん?」


 窓の外に視線を送りながら、問うた。


「智咲は、どうしたい?」

「……どう、って?」


 遠くに、少しだけ晴れ間が覗いた。ここは十三階。ベランダに出たらなかなか気持ちよさそうだ。眼下に見える景色は、どんなものなんだろう?


「この人たちと離れて生きていくか?」


 あえて、俺の――もとの家に来るという選択肢は提示しない。


 ここで大切なのは彼女の意見だ。今度こそ誘導尋問にはならないよう、注意深く言葉を選んでいく。


「それとも、……ほかにしたい生き方とかあるか? 留学とか、そんなの」


 戻ってこないか、とは言えなかった。


「私は……うん、どうしたいんだろうね?」


 また、彼女は寂し気に笑う。

 その表情を見て、悟った。

 彼女は、望むことを諦めたのだ。俺と同じように思考を巡らせ、この世界の仕組みについて考えた。そして知った理想と現実の乖離は、諦観でしか繋ぎとめることが出来ない。


 理想に手を伸ばさないことで、理想に手が届かないのだと知るのを避ける。

 劣悪な家庭環境――いや、劣悪ではなくても、家庭環境が子供に適していなければ自然こうなる。子供にとって大人は圧倒的な強者だ。始めは抗うことも出来るが、次第に不可能を悟って諦める。はじめは一時的な諦観だが、何度も繰り返されればそれは身に沁みついた生き方になる。生き癖ともいえるし、それのせいで心に負荷がかかればそれは『生きづらさ』と言ってもいいのかもしれない。

 そこから脱するには、どう――。

 ふと。


 脳裏によぎる、光景があった。


 艶やかな黒髪と、夕暮れの残滓が照らす透き通る肌。流麗な瞳のラインと、薄い桜色の唇。藍に流れる薄雲はどこか郷愁を誘って、彼女の周囲に浮遊した埃は残照に輝く。


 もう一度、彼女に問う。


「なんか、ないのか? 好きな生き方だ。別に、実現不可能だっていい」

「うーん…………ない、かな」

「……そっか」


 彼女が、もしも言葉を継いだ時のために数秒の間を取る。


――『生きづらさ』を引きずって、引きずられて、日々を過ごしてきた。

――なら、抱えて突っ走ればいい。

――――『生きづらさ』そのものが俺の生き方なのだと、そう胸を張って宣言しよう。


「じゃあさ、」


 望むことが出来なくても、構わない。

 たとえそれが恐ろしくても、構わない。

 俺も同じだ。望んでしまえることがひどく恐ろしい。

 だから。























「俺と、この世全てに立ち向かってくれないか?」

「…………へ?」

 


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