第44話 東山亮は (1)

 終了式、といっても特筆すべきことはなにもない。校長が「高野高校の生徒としての自覚を持って云々」と言ったらそれで終了。あとは大掃除と成績表をもらって帰るだけ。


 夏休みに片足突っ込んで浮かれている高校生が大掃除を真面目にやるはずもなく、適当に喋りながら箒をぶらんぶらんさせる。今朝の嘔吐のせいで倦怠感が抜けず、めっさ眠い。


「なあ東山」

「どしたよ」


 隣で箒をぶらんぶらんさせていた東寺が話しかけてきた。


「デートって、どこ行けばいいんだろうな」


 知らん。というかそれを考えるのがカレシの役目なのではなかろうか。


「多摩動物公園とか」


 多摩地域の憩いの場、多摩動物公園。コアラいるぞコアラ。周りは何もないけど。


「……暑くね?」

「んじゃ昭和記念公園」

「それも暑い」


 この時期だと、屋外のデートには暑さが付いて回る。滴る汗もまたいいんじゃないのとか思いながらも、長時間屋外にいるのは大変そうだ。となるとやはり。


「映画しかないな」

「やっぱそうだよな」


 学生にとって映画は身近なものだ。ドリンクとかを買わなければ千円で一本見れてしまう。ポップコーンを買っても二千円以内に収まるから良心的だ。空調も効いてるし。


「やっぱホラー映画……かな」


 どこか不安げに東寺が聞いてくる。瞳がなんか弱弱しくて、新しい扉がノックされかけた。


「なんでだよ……」

「ほら、ラブコメでデートと言ったらホラー映画だろ?」

「……確かに」


 キャーッて怖がって、距離が縮まるとかお約束だ。例によってまた「つり橋効果」のアレだろう。リア充の方々好きだねこのワード。


「俺、ホラー苦手なんだよね」

「別に、ホラーじゃないと、ってわけでもないだろ。彼女と話し合って決めるのが良いんじゃないか」


 めんどくさくなって、適当に応える。その様子で察してくれたらしく、彼はさっぱりと「そうだな、サンキュー」と残して去っていった。せめてもの償いに彼の背中を見送る。


 彼には申し訳ないことをしたが、それでいい。

 彼は一歩踏み出した。二次元とはいえ初恋の呪いを振り切って、ようやく三次元の恋ができるようになった。踏み出した方向が前なのか、はたまた後ろなのかはまだ断ずることが出来ないが、一歩踏み出すのは相当に大変だったはずだ。

 だから、踏み出せた彼と、踏み出してはいけない俺が一緒にいてはいけない。


「……………………トイレいってきまーす」


 ぽつり呟いて、箒を壁にかけて教室から出る。まさかトイレに行くはずもなく、そこらへんにあったゴミ袋片手に校内を散歩する。こうしておけばゴミ捨てに行っている人っぽくなるのでサボりはバレない。


 廊下も人は多くて、夏休み前の騒々しさが耳に刺さる。無意識のうちに歩調は早まっていき、気づけば特別棟の端にまで来ていた。さすがにここまで来ると人はいない。


「……いい、だろ……誰もいないって……」

「ゃ……誰か、来ちゃうよ……?」

「こんなところ……誰もこないって……」


 曲がり角の先から、甘い声が小さく漏れ聞こえる。ここは人通りなんて滅多にない。それは大掃除の現在でも同じことだ。使われている教室がそもそも少ないのだ。


 だから、セックスの場にはちょうどいいのだろう。


「…………ゆっくり、ね?」


 囁くような女子生徒の声が、雨音に混ざりながら聞こえる。


 まるで、あの時の再演だ。

 だからといってどうすることもない、彼らが思考放棄して性行為に及んだとして、あるいはその結果子供ができたとして、俺に何ができるだろうか。なまじっか、俺もミササギにキスをしてしまったことがある以上何も言えない。

 俺は踵を返すと、ふと発色のいい金髪を見つけた。彼女も俺のことを認識したらしく軽く目が見開かれる。


「あれ、先輩?」

「佐山か、こんちは」

「こんにちは、何やってたんです?」

「ごみ捨て」


 ふと、彼女は小首をかしげる。


「ごみ捨て場、反対じゃないですか?」

「…………迷ってた」

「まじですか」

「マジだ」


 視線を逸らしたら負ける気がしたので、彼女に毅然として向かい合う。別にサボってるのがバレたところでどうでもいいんですけどね。停学だし。


「……じゃあ、一緒についていってあげますよ」

「いや、いいよ」

「迷いませんか?」

「迷わない。大丈夫、人生の行く末も見通した」

「なんですかそれ」


 ぽかんとするも強引に納得して、引き下がってくれた。理解の早い後輩で助かる。


「じゃあな」


 言って、その場から立ち去る。

 しばらくぶらぶら歩いて、ついでだからとゴミ捨て場に立ち寄った。カモフラージュに役立ったゴミ袋くん、さようなら……君のことは忘れないゾ。

 ちゃっかり仕事をしていると、


「こんにちは、東山くん」


 人生経験豊富そうな声が背中に掛けられた。

 振り返ると、大宮先生がいつものジャージ姿で立っていた。授業ではたびたび会っていたが、こうして話すのは久しぶりな気がする。久瀬先輩が強姦未遂に遭った時以来だ。


「こ、こんにちは」


 ミササギは人を愛せる、という旨の会話が最後だったから、どこか気まずい。結局のところ彼の言ったことは間違いじゃなかった。


「どうだい、調子は」

「まあ、ぼちぼちです」


 ぼちぼちってどの程度なのか分からんけど。


「なら大丈夫だ」

「そうっすね」


 自殺未遂のことは知っていないのか、あるいは知っているのに触れないのか。真実は定かではないが、触れられない方がありがたいのに変わりはない。


「その……ミササギ、人をちゃんと愛せてました」

 

 せめてもの謝罪を込めて、つっかえながらもその一言を発する。

 抑制が愛の本質であるならば、彼女は十分に人を愛することができていると思う。俺とミササギは好き同士ではあるが、付き合ってはいない。それはお互いの信念を尊重してのことだ。


「うん、そうだね」


 そうして、ぱたりと会話が途切れた。その間隙にいつかの彼の表情を思い出す。彼が妻を取られたエピソードを語っていた時に見せた穏やかな顔。もしかしたら――


「じゃあ、大掃除がんばってね」

「あ、はい」

 

 結論が出る前に、大宮先生は行ってしまった。呼び止めるほどのことでもなくて、そのまま校舎内に戻ることにする。ゴミ捨て場は校舎裏にあって、当然ながら屋外だ。気づかぬうちに滲んだ汗と雨に濡れた肌、教室から漏れて廊下に充溢したクーラーの冷気が少しだけ肌寒い。


「――――――――先輩!」

「うぉッ⁉」

 

俺を視界に捉えると同時に、悲鳴にも似た叫びが耳を衝く。先ほども聞いた声だから、その主は分かった。けれども異様なまでに鬼気迫る声音に、思わず体が強張る。

 ばたばたと駆け寄ってきた佐山が、息切れして膝に手をつく形になる。髪をまとめて顕わになっているうなじには汗が張り付いて、呼吸をするたびに一滴、また一滴と地面に零れていく。


「ど、どうした⁉」

「先輩、これ……!」


 言って、見せられたのはスマートフォンの画面。もはや見慣れたメッセージアプリのチャット画面が表示してあり、半ば反射的に書かれた文字を読み上げる。


「――――新しい父親が、暴力」


 弾かれるようにして視線をメッセージの送り主の名前に向ける。心臓の音がひどくうるさい、時間が拡張されていき、その文字に意味を見出すまでに時間を要した。こめかみを嫌な予感が掠める。夏だというのに心臓が氷の手で握りつぶされたかのように冷たい。


【Chisaki】


 ごく普通のローマ字。小学生でも履修するレベルのそれを読むのに、永劫とも似た時間がかかった。


「……智、咲」


 掠れた声は、雨音に掻き消されて誰にも聞こえることはない。至近距離にいる佐山でさえ認識できなかっただろう。雨音だけがその空間にあって、現実と理想の間に帳を下ろしていた。 


 あの日。

 雨に煙る情景の中で、智咲を見つけた。

 あの時に俺は気づいたはずだ。彼女の痣に。

 それなのに。


「さっき、送られてきて、それで」


 チャットの履歴を見るに、佐山が俺たちとプールに行ったことを話したようだ。そこから一日空けて今日のメッセージ。これは、ただの思い上がりだろうが、それでもそう信じたかった。――智咲が、佐山を通じて俺に助けを求めたのかもしれない、と。


「先輩、どうしましょう、警察?」

「いや、ダメだ――」


 警察ではだめだ。時間を与えてはいけない。今すぐにでも対処しないと。

――夏休みに入ると、DVが加速する傾向にある。

 夏休み、当然ながら子供が家にいる時間が増える。それが親にとってのストレスになり、子供に対しての暴力行為が増える。暴力を振るうことが出来る時間が増えるのも要因の一つか。

 対応が少しでも遅れて、夏休みに突入してしまったら?


「…………クソっ」


 動けるのは、俺しかいない。


「先輩?」


 どこか不安げな面持ちで、佐山が覗き込んでくる。智咲はいい先輩を持ったな。


「……佐山、体調不良で早退したって俺の担任に言ってくれ。あと智咲の住所を送ってくれ」

「は、はい!」


 そう応えてスマホをスワイプする佐山に、続けて言う。


「あと…………ミササギと、久瀬先輩には言うな」

「え、」

「いいから、言うな。警察には、五時までに俺からお前に連絡がなかったら通報してくれ」

「でも!」

「任せた」

「……はい」


 智咲、お前も良い先輩を持ったな。


「――行ってくる」


 言い残して、繰り出す足に逡巡が残る。けれどそれさえ振り払って走り出した。湿気で制服のズボンが纏わりつく感覚がうっとおしい。靴を履き替えるのももどかしくて、よろめきながらもなんとか玄関を出る。


 雨が、夏服のシャツに滲む。

 地面を蹴るたびに雨水が跳ねて、体温と共に感覚を奪う。速く、もっと速く、刹那さえ惜しいほどの時間の中で必死に体を進める。傘なんて使わない。ただひたすらに走る。走る中で次第に自らの輪郭もぼやけていった。それでも、走らなければいけない。




 これは、贖罪だ。



 生きていくのが、ずっと後ろめたかった。

 智咲を殴ったあの時から、ずっと。

 俺の人生の結論はとうに出たのだ。智咲を殴った時、中学でいじめに遭った時、教室でセックスしている不良と女子を見た時、両親が離婚した時。それらすべてが、俺の人生の結論を補強していった。

 それでも、生き長らえてしまって。

 生きていく限り誰かを傷つけてしまって。それは久瀬先輩に対しても、ミササギに対しても、佐山に対しても――智咲に対してもそうだった。生きていく限り罪を重ねていってしまう。










 だから、誰かを救えたら、それは贖罪になるのではないかと、傲慢にも思い続けている。

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