終章 世界は愛で満ちてるっぽい
第43話 東山亮は (プロローグ)
たとえば、俺があのとき智咲を殴っていなかったら。
俺は、誰かと付き合って、誰かと結婚して、誰かと子供を作れたのだろうか。
そんな、堂々巡りの問いの中で、現在の自分を振り返る。
俺は、傲慢にもミササギを愛してしまった。
そのことに気が付いたのが入水自殺をしようとした日。一週間前のことだ。
それ以来、どこか宙に浮いたような生き方をしている。かつての生きづらさは時折垣間見えはするものの、概ね鳴りを潜めている。
無数の可能性が浮かんで、可能性のまま消えていく。
意味をなさない思考の断片の中で、それでも考える。
なんで、――――恋愛が、できなかったんだっけ。
俺はミササギのことを愛していて、ミササギも俺のことを愛していると言った。それで世界は完結している。世界も、案外美しいものだ。
人類の存在意義とは何だろう。
それは、【継承】だろう。
生命の歴史は、短い人生の集合体だ。先人の積み上げた知識、文明、技術を受け継いで、果てのない発展を目指す。一つ一つの人生に意味が見いだせずとも、いつか意味を与えてくれる人間がいると信じて、受け継いだものに自分の人生を積み上げて、その後に継ぐ。
そうやって、短い人生が積み重なってできたものを【継承】していく。それが存在意義だろう。
ならば、子供を作り、次の世代を生み出すのも人類に課せられた使命なんじゃないか。いや、人類にのみならず遍く生命に課せられた使命か。どちらにせよ、子供は大事だ。
あぁ――――ミササギに、きちんと告白しよう。
今はこの身を温めてくれるこの心の衝動、けれど、それが失われてしまったらきっと悲しいのだ。たまらなく悲しくて、寂しくて、きっと、壊れてしまうのだ。
愛の行き場が欲しい、この愛をきちんと見つめていたい。
彼女なら大丈夫だ、彼女となら大丈夫だ、きっと、大丈夫。子供だって作れる。どんなに辛いことがあろうとも、生きていける。むしろ彼女としか生きていけない。彼女と生きていきたい。
過ちを犯したとしても、リカバリーすればいい。だから――。
俺、は。俺は……? オレ、は?
「――――――――――――――――――ァ」
呼吸が出来なくて、目が覚めた。焦点が定まらない。自分の輪郭さええ曖昧で、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。ただ茫漠とした恐怖と、横たわる暗闇の中で浮遊感に包まれている。
ようやく自分の体の輪郭を捉え始めて、同時に吐き気がした。
暗闇の中で這いずるようにしてトイレに辿り着いて、便器の中に胃の内容物をことごとくぶちまける。ア……あ――。
「…………カはッ……」
口腔にこびりついた胃液と、歯の裏に引っかかった夕食の残滓。平衡感覚もあいまいだったが、しばらく壁に身をもたれかけていたら次第に回復して、自分の陥っている状況が掴めた。
見慣れたトイレ、見慣れた廊下、見慣れた玄関。間違いなく俺の家だ。
なにも変わらない風景の中で、ただ――。
「うッ……ぁ……」
思考の断片が引きずり出されて、そのおぞましさに胃が収縮する。先ほどの嘔吐で夕飯の中身はぶちまけたのか、胃液しか出てこなかった。
「ぁ……ぁあ……」
どれくらいそうしていたのか分からない。ただ壁にもたれかかって、焦点の合わないまま便器を見つめていた。時折吐き気がするも、もう出し尽くして空嘔に終わる。
俺は、何を考えていた――?
醜悪な我欲を押し付け、子供を作ろうとしていた。大丈夫? 何がだよ。
それじゃあ、同じだ。同じじゃないか。
――俺の、嫌っていたモノと。
何をやってるんだろう、俺は。今まで嫌っていたモノを受け入れて、何で嫌いだったかさえ忘れて、あまつさえ肯定して自らやろうとしていた。
拒絶反応。
この状況を端的に表すと、その言葉が最も近い。
妹を殴った。中学の頃にいじめを受けた。親が毒親と称されるものだった。それらに代表されるあの生きづらさを、否定しようとしていた。俺も、ああなってしまう可能性があるのに。
また、繰り返すのだろうか。
智咲を、妹を殴った時と、何も変わらない。
なあ、誰でもいいから応えてくれ。
生きてる意味のある人間っているのか? 生きてる価値のある人間っているのか? いなくないか? 生きるに値する世界か?
なあ、親父、母さん、なんで産んだんだ?
生まれてきて欲しかったとか、そんなエゴはどうでもいいんだよ。
幸せになってほしかったとか、そんな理想論どうでもいいんだよ。
なあ、何でだ? いつか久瀬先輩が言っていたようにコンドーム付け忘れたのか? それともミササギの家のように後継ぎが欲しかったのか? レイプか? 処女懐胎だったりするのか? なあ、何でだよ?
恨んでるわけじゃない。ただ、理由を問いたいんだ。
こんな子供を産んで、あんたらは幸せになったか? 満足か? こんなのでごめんな。
――それでも、人は、人がいる限り誰かを幸福にすることだって出来る。
違う、人がいる限り誰かを傷つける。傷は一生癒えないがが、幸福は一瞬なんだ。一瞬の幸福があるからこそ傷はまた痛む。痛みから逃れようとして、刹那的な幸福に縋る。みんな、誰かを傷つけて、傷つけられて、だからまた傷つける。
だから、ここで終わりなんだ。
こんな思い、ほかの誰かにさせたくはない。ましてや、ミササギや、俺とミササギの間に出来る可能性のあった子には、させたくない。
生まれたのは罪で、死ぬのは罰だろうか。いいや違う。
生まれたのは罪で、生きていくのが罰だ。いつか、死ぬ日が来たら、俺は笑いながら死ぬことが出来るだろう。ああ、俺は誰かを愛せました、と。
誰も傷つけたくないから、誰とも深い関係にならない。
もしも、これを愛と呼ぶのならば、世界に愛はひとかけらしかないのだろう。
「…………あー、生まれたく、なかったな」
そんなことをポツリと呟く。
どうして、だろうな。
考えてもキリがないので、壁に身をこすりつけるようにして立ち上がる。さっきよりかは幾分マシになった。廊下の先の玄関からは明かりが漏れていて、スマホの時計を見たら六時だった。いつもならこの時間に起きても二度寝するのだが、嘔吐のせいか目が冴えている。なにより腹が減った。
置いてあった食パンをそのまま食べる。案外オツなもので、パン本来の風味が味わえてなかなかおいしかった。普段ならジャムの味しかしないもんな。
やることもなくて、ベッドに戻ってゴロゴロしてみる。
「…………遊園地、楽しかったな」
どうでもいい呟きは、誰に聞こえるわけでもなく布団に吸い込まれていった。きっと、遊園地がさきほどの夢の主たる原因だったのだろう。幸せは一瞬で、だから信用してはいけない。幸福は判断を鈍らせる。
寝ようとして、やはり眠れなかった。
仕方ないのでスマホでマインスイーパーをする。三ステージ目で運が尽きて爆発したからやめた。爆発といえば、多分、自分の下駄箱が爆発したのって日本人高校生で初だろ。
しょうもない思考に、ちょっと笑って布団を頭までかぶる。
明日……今日は一学期終了式。明日からは夏休みが始まる。
まあ、俺にとっては停学期間なんですけどね。
ふと、頭の端にあいまいな思考が浮かび上がる。けれどそれに意識を向ける前に、思考は奥深くに沈んで睡魔に覆い隠されてしまった。
遠く、どこかで雨音がする。いつか聞いた雨音。思考の残滓が雨音に滲んで消えていった。
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