第10話 東寺庸介にも悩みはあるっぽい(その6)

 死ぬって、こんな感じなのかな。


 体中の毛穴が全力で発汗している。春風はどこか遠くで吹いていて、木々の葉鳴りは聞こえない。

俺は、女子に肩を借りるという情けない状態になっていた。


「ひ……ふへ……うぷっ……」

「無理するな東山。君はよく頑張ったさ」

「うぃ……」


 カッコ悪すぎる。意識を緩ませると、すぐに胃の内容物をぶちまけそうだ。喉にはすでに胃酸と思しきものがまとわりついており、なんとも言えない不快感。

 人気のない所にあるベンチに運んでもらって腰掛ける。隣にミササギも座った。


「飲みかけですまんが……これ……」


 そう言ってミササギが差し出したのはミネラルウォーターだった。縋るように受け取り、逆流しかけていたものごと胃に流し込む。


「…………」

「ぷはぁ……死ぬかと、思った……」


 危なかった。今朝からロクなものを食べていないので、吐いてもそこまでグロテスクな画にはならないはずだが、軽く人権は失われる。

 くたばっている俺の様子を、なにやらミササギはじっと見つめている。


「わりい……尾行途中なのに……あと、みっともなくてすまん……」

「間接キス……」

「うん?」

「いや、その、間接キス、だなぁ、と」


 顔を上げてみると、ミササギは両手で顔を覆うように隠した。その指の隙間から、紅く上気した肌が覗いている。


「あぁ……すまん、新しいの後で奢る」

「君モテないだろう」

「そりゃ恋愛できないからな」

「だったらノープロブレムか」

「ああ、ノープロブレムだ」


 しかしミササギも、間接キス程度で赤くなる程度には男子に耐性がないのだろう。奇遇だな、俺も女子に耐性がないんだ、と心の中で呟いてみる。

 心臓はいつもより早く脈打つ。それはジェットコースターを乗り終えて落ち着いた現在でも続いていた。

 まぁ、俺も間接キス初めてだから緊張はした。社会的な死が目前に迫っていたのであえて無視したが、あんなふうに意識されるとなかなか気まずい。


「……気分は落ち着いたか?」

「あぁ、おかげさまでな」


 しばらくして、ミササギが問いかけてきた。答えると共に腰を上げる。

 時刻はすでに昼前だ、東寺たちの昼食のタイミングと合わせて俺たちも昼食を取ろうと、ミササギの方に目をやる。

 再開した盗聴からすると、彼らは現在ゴーカートに乗っている。

 ここからゴーカート乗り場まで、そこまで距離はない。すぐに向かえる距離にほっと胸をなでおろす。これでリカバリーしようのない距離を開けられていたら、ミササギに申し訳が立たないどころの話じゃない。


「ミササギ、ゴーカート乗り場だ」

「りょうかい、っと」


 腰を上げた彼女に、イヤホンの片耳を渡す。

 それを受取った彼女は、耳を隠していた髪を耳にかけ、流麗な動作でそれをはめる。


「ん? どうかしたか?」

「あ、いや? なんでもない」

 見惚れてた、なんて、死んでも言えないな。

 さて、尾行作戦の――



「――――ぁ」



 瞬間。


周囲の音が消え、時間と隔絶される。

 認識できる世界が、全てスローモーションに見える。


 一歩。

 一歩。

 一歩。


 前に進もうとする意識と、行動はどうしても繋がらない。

 視線の先に、ずっと囚われている。

 息が詰まる。なぁ、おい。なんだって、こんな。

 月日は、人を変えていく。

 前進であれ、後退であれ、停滞であれ、変わらない人などいない。

 そんなもの、とうに分かっている。

 かつて――そう、かつてあった家族は、もうないのだと。


「――ち、さき……?」


 まだ、視線は動かせない。意識は驚くほどクリアだった。


「母さ――」


 クリアな意識が、捉える。捉えてしまう。



「――――――――――――――――――誰、だ」



 漂白された世界が、どうしようもない現実を突き付けてくる。


 智咲――俺の、妹だ。


 母さん――俺の、母さんだ。


 あの、男は、誰だろう? 


 誰だ。誰だ。誰だ。


 加速度的に臓腑の奥から込み上げる、この感情はなんと言ったらいいのだろうか。

 絶望、否。失望、否。嫌悪、否。憤怒、否。驚愕、否。

 あの、男は、なんだろう?

 ひどい、虚脱感に襲われた。口の端から虚ろな笑みが零れる。


「――――山……東山……?」


 答えなんて、とうに出ている。

 視線の先では、妹の智咲が居心地の悪そうな笑顔を浮かべ、母さんと男は何やら楽し気に話していた。その様子は、ぎこちないながらも「家族」と呼べるものだ。

 再婚、したのだろう。


 中学二年の時に両親は離婚した。

 もう、あれから三年の月日が経った。新しい相手を見つけていても不思議ではない。

 ひょっとしたら、まだ再婚はしていないのかもしれないが、それは時間の問題だ。


 妹も、長らく見ていなかったから、大きくなったなぁ、なんていうオッサンじみた感想しか浮かんでこない。もう、中学二年生か。


 その姿に、その笑顔に、その仕草に、違和感がつのる。

 おおよそ、親睦を深めるためにこうして三人で遊園地に来たのだろう。

 母は、あるいは男は、こうすることで家族になれると思ったのだろうか。


――――あぁ、本当に、どうしようもない。


 大人は、きっと未熟だ。

 母とあの男の瞳には、俺の妹が、百円入れると動く不細工なマスコットキャラの乗り物ではしゃぐ子供のように見えるのだろうか。

 

 母とあの男の瞳には、俺の妹が、三人乗りゴーカートで喜ぶような子供に見えるのだろうか。


 母とあの男の瞳には、俺の妹が、ポップコーンを買い与えれば好感度の上がる子供のように見えるのだろうか。


 いつまでたっても、その瞳が像を結ぶのは【子供】の姿だけ。

 

 妹は、少し大人びている。

 あの家庭環境だったから、無理もない。

母親は時々ヒステリーを起こし、親父が傷つけないようフォローする。それはあくまでも母親を傷つけないように、だ。智咲、謝りなさい。ほら、智咲も謝ってるから、許してやってくれ。そうして、事態は何事もなかったように収束する。

  そんなことを繰り返されたからか、いつしか妹は空気を読むのが上手くなった。 

 居心地の悪そうな、けれど懸命に笑おうとする妹のその横顔が、あまりにも哀しくて。


 けれど。


 けれど――きっと。


 一番未熟なのは、それを許容できない俺なのだろう。



 人は、変わる。変わっていく。変わってしまう。


「なぁ、ミササギ、昼はパスタにでもしようか」


 それが、途方もなく恐ろしい。


「あ、あぁ、そうだな」


 もうきっと、彼女らと会うことはないのかもしれない。

 だから、俺は彼女らから視線を外した。


――――もう、終わりなのだと。そう告げるように。


・・・


『よーくぅん、くちぃにそーすつぃてるよぉ?』


 思わず吐きそうになったパスタを冷水で流し込む。あっぶねパスタにソース追加投入するとこだったわ。


 橋野は急速に東寺に対して距離を詰めているようで、気づけばあだ名呼びになっていた。ジェットコースター乗り場で聞いた時には「よーすけくん」だったのが今では「よーくん」である。


「……もはや間合いの詰め方が剣豪の領域じゃないか?」

「うん、俺もそう思うよほんと……」


 ミササギは、あきれ果てたようにずずーっとパスタを啜る。


『あっ! 私お水とってくるねぇー。あ、よーくんもいる?』

『あ、一緒に行くよ』

『いいよぉ、私一人でだぁいじょうぶ』

『いや、でも女子に行かせるのはわるいよ』

『いいの。ね?』


 ん、とミササギが顔を上げる。


「うおー。本性見えた。あの滲み出る威圧感やべぇな」


 今までの甘ったるい語感とは打って変わって、相手の提案を強引にねじ伏せるような語感だった。クラスのカースト高め女子によくある意見を強引に通す方法である。

 ふと、疑問が頭をよぎるが、すぐに消えた。

 橋野はカースト的にそこまで高くはない印象がある。

 まぁ、それ故にカースト高めの女子の言動を見る機会が多いのだろう。

 ふとした時に、「今まで誰かにされてきたこと」を誰かにしてしまうケースは珍しくない。


『あー、もしもし、聞こえてる?』

「あぁ、聞こえている。どうした?」


 東寺の呼びかけに答える。


「すまん、まずいことが起こった」

「どうした?」


 そう問うたのはミササギだった。


「あぁ、充電き――――」


 ぷつん。つー。つー。つー。

 言葉の続きはすぐに察せられた。

 充電切れそう。

 というか実際切れたわけだが。


「…………まずいな、どうする?」

「そんなこと私に聞かれても……」


 はぁ、とため息を二人同時につく。

 盗聴が出来なければ、特にできることはない。読唇術が使えれば何とかなるのかもしれないが、あいにくとそんな高等スキルはない。

 このままでは作戦の続行は不可能か。


「どうすっかな……」

「なぁ、一つ提案なんだが……」


 ミササギはそう言って、スマホを取り出した。


「連絡先、交換しないか?」

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