俺の節句の祝い方。

Planet_Rana

俺の節句の祝い方。


『桃と梅と桜って、イラストならともかく現実に目にすると見分けがつかないものである』


 桜だと思って撮った写真が実は桃だった大学生の日記より――





 というわけで、本日は桃の節句。桃の節句といえば三月三日のひな祭りが浮かぶが、生憎我が家庭にはそのような高級品を備えておらず、赤いひな壇は勿論、三人官女も五人囃子も存在しない。


 現在目の前には手持無沙汰慰みに折り紙で制作した顔の無いメインキャラクタ。赤いハンカチの上に並べているのだが、頼りがいのあるネットで調べた所、この黒衣の方を左に置くか、右に置くかで関東雛か京雛に分かれるんだそうだ。


 では、関東にも京にも住んでいない自分がどうするべきかと考えたら、現代式の方をとることにした。国際的右上座方式、向かって左にお内裏様、向かって右にお雛様を配置する。


 ……やはり寂しい。


 仕方がないので、三人官女を桃色の折り紙で作る。


 お高いひな人形セットだと、この五人組で相当な値が付くのだろうが、今五分足らずで制作されたこの五人セットだと百円も取れないだろう。


 そういえば、ひな壇に飾られている屏風やぼんぼり、あと四角いモチ。その他は、えっと、嫁入り道具だったけ。

 黄緑の正方形を手に取りながら思えば、そうだ笛とか太鼓とか、結構用意しなければならない小道具が多いなと思い至った。そんなに器用な指先をしていないので作ろうとはしない。


 五人囃子も加わって、十名の大所帯となったお手製雛人形。顔の無い彼等を三角形に配置して、ひな壇が欲しくなる。

 ひな壇がないと、先頭の五人囃子が主役の様に見えるのである。

 視線誘導は大事だ。

 筆箱と消しゴムを並べ、その上に赤いハンカチをかけた簡易的階段。そこに作った雛たちを飾ると、まあまあ見れる雛段になった。


 三月三日の桃の節句。これは、女児の成長を願うものらしい。過ぎてしまった七草も、再来月やってくる子供の日も、七夕も、実は願いが込められた節句である。そして、意外だったのは九月九日。菊の節句――日常から忘れられたこれこそ、健康を願う節句だった。

 九月といえば月見の印象が強くて節句があるなど考えもしなかった。


 ……最後に七草粥を作ったのはいつだろう?

 こいのぼりを飾ったのは?

 短冊に願いをかけたのは?

 そも、月見の経験はあるか?


 大人になったから、という理由では説明がつかない文化離れのさいたる例を、身をもって実感する。


 桃と梅と桜は、常日頃から見ていないと、見分けがつかないものだ。


 液晶の灯りに照らされるひな壇を眺める。

 顔の無い紙人形が、十体。今日を祝うために作られた人形が、静かに鎮座している。

 怒りも、憂いも、顔の無い人形たちからはなにも読み取れない。


 しばらく眺めていると、視線は光を放つディスプレイへと流れた。簡素なひな人形に焦点が合うことはもうない。

 けれど、スマートフォンのスケジュールには予定が追加された。


 次は菖蒲の節句、五月五日。この日はチラシで兜でもつくろう。

 そうして予定の無かった一日を、最高のお祭りにしてしまおう、と。

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