ゆく人来る人結びます 道端の小さな神様のお話
犬上義彦
第1話 おばあちゃんと道端の神様
二月、おばあちゃんが亡くなった。
八十五歳だった。
私が生まれたときからずっと一緒に暮らしてきたおばあちゃん。
お花が大好きだったおばあちゃん。
ついこの間まで元気で、毎日楽しそうに庭の花の世話をしていたのに、癌が見つかったときは末期で、あっという間だった。
春になったらパンジーがたくさん咲くのを楽しみにしていたのに。
私は中三で高校入試の直前だった。
でも、放課後は毎日のようにお見舞いに行っていた。
急激にやせていくおばあちゃんを見ているのは辛かった。
「美森、受験勉強大変だろ。毎日来てくれなくても大丈夫だよ」
骨と皮ばかりになった手でおばあちゃんは私の手を握りながらいつもそう言っていた。
「私は大丈夫だよ。これでもちゃんとやってるよ。模擬試験で第一希望もA判定だったんだから」
バレバレのウソだ。
「美森ももう高校生になるんだねえ」
「明倫館高校に受かったら、おばあちゃんも入学式に来てよ」
「そうだねえ。退院したら、美森の制服姿だけでも見てみたいねえ」
面会時間が終わって私が退室するときにおばあちゃんはいつもベッド脇の引き出しを指さした。
「美森、引き出しを開けて」
引き出しの中にはお財布が入っている。
「お財布を取ってちょうだい」
おばあちゃんは私の手からお財布を受け取ると、震える手で千円札を取り出す。
「来てくれてありがとうね」
私の手に千円札を握らせておばあちゃんはふっと微笑む。
私はうまく返事ができなかった。
お金が欲しくて来ているんじゃないというのは事実だけど、そう言ってしまうのはかえっておばあちゃんの好意を否定するようで言いにくかった。
かといって、喜んで受け取るほど無邪気な子供でもなかった。
「大丈夫だよ。お小遣いたくさんあるから」
「いいの。おまえのものだよ。とっておいて」
私は罪悪感に胸がきゅっと締めつけられた。
「美森にはこれくらいしかしてあげられないから」
引き出しを開けてくれと一度目に頼まれたときは、何か売店におつかいでも頼まれるかと思って言われたとおりにお財布を渡してしまったけど、二度目からはさすがにためらった。
でも、おばあちゃんは病人とは思えないような力でそんな私の腕をつかんだのだ。
私は怖くなって言われたとおりにしていた。
私に何かを渡したいという強い気持ちがおばちゃんの生きる希望みたいなものだったのかもしれない。
だから私は断るのをあきらめたのだ。
曖昧な表情を浮かべるしかない私をじっと見つめて、おばあちゃんは一瞬だけ柔和な笑顔を見せる。
「今度、おまんじゅうを一緒に食べようね」
そう言うと、私にお財布を引き出しにしまうように言って目を閉じる。
ほんのついさっきまでおしゃべりしていたのに、目を閉じたとたん、おばあちゃんはかさかさに乾いた病人に戻ってしまった。
人が衰弱するのはこういうことなんだと、せめて病室を出るまでは泣かないようにしていた。
私はいつも千円札をぎゅっと握りしめながら病院を後にしていた。
おばあちゃんはもう普通のものを食べられなくなっていたから、お母さんにおまんじゅうを買っていくのはやめなさいと言われていた。
私はもらったお金を全部貯金箱に入れて、机の引き出しにしまっておいた。
最後にお見舞いに行ったとき、いつものように千円札を私の手に握らせながら、おばあちゃんはぽつりとつぶやいた。
「さんばんめ」
意味は分からなかった。
意識がもうろうとして、もう言葉が分からなくなっていたのかもしれない。
ただ、その時のおばあちゃんは安らかな微笑みを浮かべていた。
それが私とおばあちゃんの最後の思い出になった。
千円札だけで三万円が貯まった頃、おばあちゃんが亡くなった。
今思えば最後の言葉は『さんまんえん』の聞き間違いだったのかもしれなかった。
でも、それならそれで少しさびしい気がした。
お金が欲しくてお見舞いに行っていたわけではないのに、誤解されていたんだろうか。
おばあちゃんの気持ちが分からなくなってしまった。
その日、私は高校受験当日で、知らせを聞いたのは試験が終わった後だった。
おばあちゃんはその数日前からもうすでに意識がなくなっていて、話しかけても反応はなかった。
そろそろ覚悟をしなければと言われていたから付き添っていたかったけど、受験も大事だった。
でも結局、解答用紙に『鶴咲美森』と自分の名前を書くのさえ手が震えてしまって試験どころではなかった。
会いたかったな。
最後にちゃんと「今までありがとう」って言いたかった。
でも、仕方のないことだった。
お母さんの話だと、最期は眠るように安らかだったそうだ。
私は第一志望の明倫館高校に落ちた。
お見舞いに行っていたからという言い訳だけは絶対にしたくなかったけど、おばあちゃんには申し訳ない結果となってしまった。
なんとか決まった進学先はすべり止めの海浜高校だ。
正直、行きたくなかった高校だ。
お母さんもお父さんも葬儀や埋葬の手配やらご挨拶なんかで忙しくて、私の受験結果に関してはあんまり話題にはしなかった。
「頑張ったけど残念だったねって言ってあげたいけど、忙しくてなぐさめてあげる余裕もないからごめんね」
それは親なりの配慮だったんだろうと思う。
実際、私の方も家事を手伝ったり、いろいろなことをしなくてはならなかったから、おばあちゃんの死の悲しみも、受験に落ちた苦しみも、かえって少しは気が紛れるようだった。
三月に入ってすぐに中学の卒業式を終えると、いつもより少しだけ長い春休みを迎えた。
庭ではおばあちゃんの植えたパンジーの株が大きくなっていた。
昨年末、入院の前日に植えたものだ。
私も土を掘り起こすのを手伝った。
思えば、あの時、もうおばあちゃんは力を出すことができなくなっていたんだろう。
そんなそぶりも見せずに両手で包むようにしながらパンジーの苗を植えていた姿が思い出される。
「終わった花を摘んでやると、次の新しい花芽がどんどんできるからね」
最初はそれがかわいそうな気がしていた。
でも、そうしてあげないと株が弱ってかえって花が咲かなくなってしまうから、そうしてほしいとおばあちゃんに頼まれていた。
その時植えたチューリップの球根も芽を出していた。
私の気持ちとは関係なく、少しずつ春が近づいていた。
高校入学まで時間はたっぷりあるのに、何もやる気が起こらなかった。
友達に誘われて夢と魔法のテーマパークに行ったり、話題のおしゃれスポットまで買い物に出かけたりしたけど、心はそこにはなかった。
私は『ごめんね、おばあちゃん』と謝り続けていた。
今日は近所のショッピングモールに海浜高校の制服を作りに行くことになっていた。
お母さんは仕事がたまっていて出勤していたから、私一人で行かなければならなかった。
三月半ばでまだ桜の花はつぼみが膨らみかけたところだけど、時折吹く風が春の陽気を運んできていた。
私はボーダーのカットソーに薄手のパーカーを羽織って出かけた。
ショッピングモールはこの春に開業したばかりで、私もまだ一回しか行ったことがない。
話題のお店がけっこう入っていて、土日は駐車場が満車になるほど混雑している。
今日は平日で、そんなにお客さんはいなかった。
ふだんより長い春休みはこんな時にありがたいけど、暇そうにフードコートで談笑しているお年寄り達を見ていると、おばあちゃんのことを思い出してしまう。
私が生まれて十五年、おばあちゃんはいつでも私をかわいがってくれた。
うちは両親が共働きだったから、おばあちゃんが親代わりに面倒を見てくれていた。
何でも応援してくれて、私の話を楽しそうに聞いてくれた。
小さい頃は一緒に近所のスーパーに買い物に行ってお菓子を買ってもらったり、編み物を教えてもらったりした。
私がピアノを習いに行くときに使っていた手提げ鞄を作ってくれたのもおばあちゃんだ。
楽譜の入る大きさのちょうどいい鞄は案外売ってなくて、おばあちゃんの作ってくれた布製手提げ鞄を私は愛用していた。
キルト地に毛糸で編んでくれたチューリップが貼り付けてあって、かわいくてお気に入りだったわりに、背が低かった頃はよく底を引きずりながら歩いてきて、穴を開けちゃっていたものだ。
でも、次の週のレッスンまでには必ず当て布をして直してくれていた。
おばあちゃんはいつも私のことをよく見てくれていたんだ。
あ、涙が出てきた。
私はトイレに駆け込んで個室で涙を拭いた。
だめだ、涙が止まらない。
おばあちゃん。
やさしかったおばあちゃん。
会いたいよ。
もう少し生きていてくれても良かったじゃん。
どうして……。
つらいけど、泣いてばかりもいられない。
制服を作りにいかなくちゃ。
個室を出て、洗面台の鏡に映る自分に向かって暗示をかける。
泣いてちゃだめ。
おばあちゃんのことを思い出すときは笑顔、笑顔。
特設会場の制服コーナーには様々な高校の制服見本が並んでいた。
自分の行く学校よりも先に明倫館高校の制服が目に入ってしまった。
ああ、行きたかったな。
頭のいい子が集まる高校で、制服はかわいいし、文化祭も盛り上がっていたし、全国レベルの活躍をしている部活も多い。
それにくらべて我が海浜高校ときたら……。
いまさらどうにもならないけどね。
店員さんにどこの高校ですかと聞かれて、海浜高校の制服をお願いしたとき、心の中にぽっかり穴が開いて砂時計の砂が落ちていくようにさらさらといろいろな感情が飲み込まれていった。
喜びも悲しみも寂しさも何も感じなくなっていた。
受け入れなくちゃ、現実を。
制服の採寸が済んだころにはもう気持ちが切り替わっていた。
もしおばあちゃんが生きていたら、私はちゃんと高校生活を笑って話せただろうか。
海浜高校で頑張るんだ。
そうじゃないとおばあちゃんに申し訳ない。
ちゃんと天国でも私を見守ってくれているはずだから。
時間が余ったのでお店をいろいろ見て回った。
カフェの併設された本屋さんがあった。
好きな作家さんの新刊を買おうかと思ったけど、今はちょっと泣ける系の小説は読みたくなかったから、やめた。
食品街の和菓子屋さんの前で私は立ち止まった。
よくおばあちゃんがおまんじゅうを買っていた『樋ノ口屋』があったのだ。
わざわざ電車に乗ってデパートに買い物に行ったときだけお土産に買ってきて、本当にうれしそうにお茶をすすりながら食べていた姿を思い出す。
ここの栗饅頭は私も大好物だ。
おばあちゃんはいつも家族の人数分よりも一つよけいに買ってきた。
「お供え物だよ」と言っていた。
こんなに近くにお店ができたなんて、おばあちゃんに教えてあげたかったな。
ショーケースの中の栗饅頭を見ながら私はまた泣きそうになってしまった。
「すみません、栗饅頭を二つください」
小さいわりにずっしりと重いおまんじゅうの袋を胸に抱いて私はショッピングモールを出た。
ショッピングモールの南側は私の住む住宅街で、北側は開発されていない昔ながらの田園地帯になっている。
私は間違って北側から出てしまっていた。
見慣れない風景に戸惑ったけど、ちょうど春の風に吹かれて道端に菜の花が揺れていて、気持ちがほっこりとした。
すぐそばに農業用水が流れていて、その土手にはつくしが生えていた。
ひょいと跳べば渡れるくらいの幅の川で、ちょろちょろという水の音が聞こえる。
幼稚園くらいの男の子がおじいちゃんと一緒につくしを摘んでいる。
ときどき用水路の中をのぞき込んで、魚がいると叫んだりしていて楽しそうだ。
そういえば私もずいぶん昔におばあちゃんとここにつくしを取りに来たことがあったっけ。
あれは幼稚園の頃だっただろうか。
ショッピングモールができて風景が変わっていたから気がつかなかった。
お散歩日和だったので、私は中に戻らず、ショッピングモールの外をぐるりと回って家に帰ることにした。
用水路沿いに歩いていると、一本だけ芽吹く前の桜の木が立っていて、その根元に菜の花がまとまって咲いている一角があった。
そこには古くて小さな石碑もあった。
『道祖神』と書かれている。
苔や泥で汚れた石碑は菜の花に埋もれてしまうくらいの小ささで、風化して文字も消えかけているから見過ごしてしまいそうだった。
石碑の横に、座るのにちょうど良い大きさの岩が置かれていて、そちらの方が目立つくらいだった。
岩の側面はでこぼこしているのに、上面はつるつるだ。
おそらく、長い年月の間に道行く人たちが休憩していって、そうなったんじゃないだろうか。
私も岩に腰掛けてみた。
思った以上に座り心地がいい。
膝の上におまんじゅうの袋を置いてからスマホを取り出して、気になったことを検索してみた。
道祖神というのは、昔の人が村の境界や街道沿いに置いて、道中の安全を願ったものらしい。
へえ、そうなのか。
横にある石碑の裏をのぞき込んでみると、荒く削った文字で『天保』と刻まれている。
歴史の時間に『天保の改革』って習ったっけ。
江戸時代の三大改革。
松平じゃなくて、誰だっけ。
何も思い浮かばない。
スマホで検索してみた。
あ、水野か。
こんなんだから高校に落ちるんだな。
ふう。
ため息なんかついちゃった。
こんなに素敵な春の陽気なのに。
でもまあ、この石碑は今から二百年近く前に作られたものらしい。
けっこう古い物なんだね。
石碑のそばに乾いた泥で汚れた湯呑みが転がっている。
私は汚れをはたいて石碑の前に置いて、鞄に入れてあった保温ボトルのお茶を注いだ。
ささやかですが、どうぞ。
こんなことをしてもなんにもならないのは分かっている。
なんとなくおばあちゃんならこうしそうだなと思ったのだ。
「おまえさん、何か悩み事でもあるのか」
え?
振り向くとおじいさんがいた。
「あ、いえ、その……」
おじいさんは白装束で、お地蔵さんにかぶせそうな笠をかぶって杖を持っていた。
持つところが渦巻き雲みたいになっていて、仙人さんが持っていそうな形だ。
テレビで見た旅をしながらお寺を巡る人たちに似ている。
お遍路さんって言うんだっけ。
顔はしわくちゃなおじいさんで背は低いけど、腰は曲がっていない。
「おまえさん、ため息なんかついておったじゃろ」
声も張りがあって、良く通る。
見た目の印象のわりに意外と若々しい。
「あ、まあ」
知らないおじいさんに急に話しかけられて、どう返事していいのか分からなかった。
人の良さそうな感じで、このあたりの農家の人なのかなと思った。
ただ、それにしては格好や雰囲気が変だ。
おばあちゃんがよく見ていた時代劇に出てくる役者さんみたいだ。
「おまえさん、うまそうなものを持っておるな」
袋の中を透視したかのように、舌なめずりをしている。
あれ、案外、ずうずうしいおじいちゃんなのかな。
「あ、これはその……」
おばあちゃんにお供えしようと思って買ってきたものだ。
でも、それを見ず知らずの人に説明するのは気が進まなかった。
悲しい話をしなければならなくなる。
「おまえさん、鶴咲さんのところのお孫さんじゃろ」
え?
どうして知ってるの?
「あのう、おばあちゃんのお知り合いですか」
「よく花を供えに来てくれておったぞ」
「あ、そうなんですか」
思いがけずおばあちゃんの知り合いと分かって、不思議な縁を感じた。
「ここの菜の花を植えたのも、鶴咲さんじゃよ」
「え、そうなんですか」
それは知らなかった。
「雑草がのびたときには草取りもしてくれてのう。よくおまえさんの受験の話をしておったもんじゃよ」
「え、おばあちゃんが?」
「明倫館高校とかいうところに行きたがってるけど、頭が追いつくかと、さんざん心配しておったわい。あの子はいつも大丈夫って言ってるけど、全然勉強なんかしてるところを見たことがないって嘆いておったな」
うわ、おばあちゃん、ごめん。
顔に出てしまったのか、おじいさんが鼻で笑う。
「なんじゃ、そうなのか」
「そうなんですよ。明倫館高校は落ちました」
「それでため息をついておったのか」
「まあ、それもあるし、いろいろですね」
おじいさんが前に回り込んで私の顔をのぞき込んだ。
「その栗饅頭をくれたら悩みを解決してやるぞ」
はあ。
……そうですか。
解決ねえ。
ていうか、おじいさん、誰?
「なんじゃ、おまえさん、わしを疑っておるな」
「おじいさんはこのあたりの人なんですか」
「ここの者じゃ」
「ここ?」
ああ、このあたりの畑の地主さんってことなのかな。
私の考えを見透かすように、おじいさんが岩を杖で指した。
「おまえさんが今座っておるじゃろ」
今私が座っている?
座っているのは岩だよね。
ちょっと頭が混乱してきた私に向かっておじいさんが杖を向けた。
「その岩がわしじゃよ」
岩?
「はあ?」
「わしは道祖神じゃ」
ドウソ・ジン?
ジンさんなんて、ちょっと名前がかっこいいおじいちゃんですね。
「ドウソさんですか?」
「物わかりの悪い娘じゃ。そんなんだから高校にも落ちるんじゃろ」
あ、ひどい。
その通りだけど、面と向かって言わなくてもいいじゃない。
「わしは道中の安全を見守る神じゃ」
それはさっきスマホで検索しました。
いくら説明されても何を言ってるんだかよく分からない。
「神じゃと言っておるのが分からんのか」
うん、分かるわけない。
私は神です。
アイアムアゴッド?
完全に変わった人だ。
「変わった人ではない。人ではないのだからな」
こっちの心の中が見えるの?
「分かるぞ。本来なら、こうして姿を現して話などせずとも通じ合うことはできるのじゃが、人の姿の方が話しやすかろうと思うて出てきたのじゃ」
えー、なんか、不気味。
超能力?
「おまえさんも頑固じゃな。神だと言っておるだろうに」
まあ、適当に話を合わせておくか。
「道祖神さんはずっとここでみんなのことを見守ってきたんですか」
「そうじゃ。わしはその岩を依り代としてずっとここにおった」
依り代?
「神社のご神木や、山にある巨大な夫婦岩みたいな物じゃよ。神様が宿るとされていて、みんながお参りしておるじゃろ」
ということは、今私が座っている岩に神様が宿っているってこと?
「だからそうじゃと言っておるではないか」
じゃあ、今、私、神様の上に座ってるの?
「失礼な娘じゃろ。だからこうして注意してやろうと思って出てきたのじゃ」
「え、あ、すみません」
知らなかったとはいえ、私は謝った。
「素直でよい。まあ、そのまま座っておれ」
「え、でも」
「昔は旅人がこうして休憩していったものじゃよ。座り心地が良かろう」
確かに。
岩で固いはずなのにお尻が痛くならない。
ちょうど人が座るとしっくり来るような形になっているからだろうか。
「おまえさんはお尻がでかいからちょっとはみだすかもしれんがな」
余計なお世話です。
おじいさんは私の表情を見てニヤリと笑いながらまた後ろに回ると、私の両肩に手を置いた。
突然触られてびっくりしたけど、あたたかくて優しい感触だった。
「目を閉じるがいい」
なんでとは思ったけど、どうせそれも見透かされるんだろうと思って素直に従った。
暗いまぶたの裏に菜の花の風景が浮かぶ。
その景色の中で、私は道端に立って通り過ぎていく人々を眺めていた。
着物を着た人が歩いている。
江戸時代みたいだ。
村人達がみんなで土を掘っている。
この用水路を工事しているときの光景らしい。
道祖神さんの声が聞こえた。
「このあたりは新田開発で水路が作られてな。その時からずっとこうして人々が汗を流して耕してきた土地なのじゃよ」
へえ、そうだったのか。
肩に荷物をかけて笠をかぶった男の人がやってきた。
岩に腰掛けてタバコをふかしていく。
キセルという道具だ。
テレビの時代劇で見たことがある。
また、風景が変わる。
現代だ。
私の知っているこのあたりの景色だ。
誰か来た。
あ、おばあちゃんだ。
「おや、美森も来ていたのね」
おばあちゃん、どうして……。
喉が詰まって言葉が出ない。
死んじゃったのにとは聞けなかった。
道祖神さんがおばあちゃんに声をかけた。
「鶴咲さん、こんにちは」
「おじゃまいたしますよ。今日もいつものをお持ちしましたよ」
「おお、これはありがたい。樋ノ口屋の栗饅頭は最高じゃよ」
おばあちゃんは岩に腰掛けて膝の上に袋を置いて中から栗饅頭を二つ出した。
「美森も一緒に食べなさい。おいしいから」
おばあちゃんは私に一つ差しだした。
「でも、おばあちゃんの分がないじゃない」
「私はいいのよ。美森が喜んで食べてくれたらそれでいいの」
おばあちゃんはそういう人だった。
誰かが喜んでいる顔を見るのが好きな人だった。
私は遠慮せずに受け取ってぱくりと口に入れた。
しっとりとした皮の中にごろりと大きな栗が入っている。
ほっこりとした食感の栗を取り巻くこしあんはやや粗めの舌触りをあえて残してあって、絶妙な甘さを引き立てつつじんわりととろけていく。
「おいしいでしょ」とおばあちゃんが微笑む。
うん。
揺れる菜の花を眺めながら道祖神さんももしゃもしゃと口を動かしている。
「おばあちゃん、あのね……」
私は高校に落ちたことを言おうとした。
でも、なんと言っていいのか分からなかった。
「ねえ、美森」
私のかわりにおばあちゃんがゆっくりと話し始めた。
「なあに?」
「もうすぐ桜が咲くねえ」
「うん、そうだね」
「桜の花が咲くとお出かけしたくなるじゃない?」
もう今年はおばあちゃんとお花見には行けないんだね。
「雨が降ってるとみんな残念だねなんて言うでしょ」
うん。
「でもね、いつも晴れているわけじゃないし、雨も降らないと困るじゃない。晴れとか雨には本当は意味なんかないのよ。どっちも桜なんだから」
そうだね。
「晴れの日に桜を見た人は、雨の日の桜を見ることができなかっただけ。雨の日の桜はつまらないなんていう人は、桜の花じゃなくて、雨しか見ていないのよ」
おばあちゃんが私に手を差し伸べる。
手をつなぐとおばあちゃんの手はあたたかかった。
つやがあってふっくらと柔らかい手だ。
小さい頃、この手を握って、よくお散歩に行っていたものだ。
おばあちゃんの話が続く。
「その時はたまたま雨だっただけ。それなら、雨の桜を楽しめばいいの。その時の自分の時間を楽しまなかったらもったいないじゃない。雨の日でも桜は桜。つまらないのは自分」
まわりの風景が雨に変わる。
不思議と体に雨は当たらない。
雨のかわりにおばあちゃんの言葉が心の中にじんわりと染みこんでいった。
「私、明倫館高校、だめだったんだ」
おばあちゃんは私の手をさすりながらにっこりとほほえんでくれた。
「残念だったね。でも、今の自分には縁がなかっただけだから、あんまりがっかりしなくていいのよ。美森のかわりに他の誰かが喜んでくれているんだから。今回はたまたま席をゆずってあげただけ」
それはでも、正直、ちょっと悔しいな。
「そうかもしれないけど、人が喜んでいるのを自分のことのように楽しめれば、自分が悲しくて辛いときもそれを受け入れることができるのよ」
そういうものなのかな。
「頑張ったけどできなかったのが悔しいのは、それは当たり前よ」
うん。
「でもね、頑張っても、今の自分にはできないこともあるからしょうがないのよ。まだほかにも頑張らなくちゃいけないことはいろいろあるでしょ。次はそれを頑張ればいいのよ」
「うん、頑張るよ」
「美森は優しい子だから、競い合うと人より少し遅れちゃうこともあるけど、それが自分のいいところなんだから、頑張りすぎないでね。たまには、栗饅頭を食べながら『ああ疲れた』って言えばいいんだからね」
「うん、分かった」
おばあちゃんが立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ行きますよ」
「おお、ごちそうさん」
道祖神さんが手を振ると、おばあちゃんはうなずきながらふわりふわりと歩き出す。
どこに行くの?
もう、行かなくちゃね。
だからどこに?
おばあちゃんは風に揺れる菜の花を優しくなでながら歩いていく。
ねえ、どこに行くの?
私もついていこうと思ったけど、足が動かない。
「目を開けるがよい」
はっとして、目を開けると、目の前にはショッピングモールの建物があって、私の膝の上には樋ノ口屋の紙袋がのっかっていた。
栗饅頭はそのままだった。
あれ?
まわりには誰もいなかった。
おばあちゃんも、道祖神さんもいなかった。
あれ、道祖神さん?
どこ?
ぶうんと蜂が耳をかすめていく。
思わず首をすくめた。
菜の花に蜂が飛び交う。
今のはいったい何だったんだろう。
不思議な体験からふと我に返ると、くしゃみが出た。
春の日差しが傾いてきて、少し体が冷えてしまっていた。
私は立ち上がって、石碑に向かって頭を下げた。
今度桜が咲いたら、またおまんじゅうを持ってここに来てみようと思った。
◇
四月に入って入学式を迎えた。
ちょうど桜も満開だった。
うちの庭も山盛りのパンジーと満開のチューリップが華やかだった。
おばあちゃんがいるような気がした。
私は何本かチューリップを切り花にして道祖神さんに会いに行った。
この前のお礼が言いたかったし、道祖神さんに興味をもったからだった。
神様と会えるなんて、ふつうはない。
石碑のある場所は桜の花が満開だった。
後ろの用水路の方まで伸びた枝一杯に咲き誇る桜からひらひらと花びらが舞っている。細い川が桜色に染まっている。
前回はまだ枝だけの姿だったから、これほど見事な景色になるとは思わなかった。
満開の枝が道祖神さんの石碑に柔らかな影を投げかけていて、岩に座ると心地よさそうだ。
「美しかろう?」
いつの間にか私の隣に道祖神のおじいさんが立っていた。
「はい」と私は木を見上げながら答えた。
「おまえのおばあさんは、雨の日になるとここの桜を眺めに来ておったぞ」
そうだったのか。
「今日はお花を持ってきました。おばあちゃんが植えたんです」
私は転がっている湯飲みにペットボトルの水を入れてチューリップを挿した。
茎は短めにしたけど、やっぱりバランスが悪い。
花を石碑に立てかけるようにして置いてみたらぐらぐらしなくなった。
道祖神さんは顎をなでながら眉を八の字にしてつぶやく。
「今日は栗饅頭はないのかの? わしゃあ、栗饅頭の方がいいんじゃがのう」
なによ、それ。
せっかくおばあちゃんのお花を持ってきてあげたのに。
「どうせ花より団子って言いたいんでしょ」
「いや、花よりおなごじゃ」
「キモッ」
「女扱いしてやってるんじゃ。ありがたく思え」
「あーもう、ゾワゾワする。もう二度と来ないから」
「そんなこと言っておるが、おまえさん、わしがイケメンだったらどうじゃ」
「鏡見せましょうか、神様のくせに自分の姿も分からないの?」
「おまえさんの見ている姿はわしの仮の姿じゃ」
あ、そうなのか。
元々岩の神様なんだし、人間の姿自体が仮の姿なのか。
「わしはイケメンでもガイコツでも、何にでもなれるぞ。なんなら、パンダにでもなろうかのう。抱っこしてすりすりしてもらうんじゃ」
どんな姿にしても、性格は変わらないんだろうな。
サイテーだな、この神様。
道祖神さんが私の顔をのぞき込む。
「じいさんの姿よりもイケメンの方が良かったか」
「あたしにだってイケメンのカレシくらいいますよ」
「ほう、そいつの名前は?」
「二次元くん」
「変わった名前じゃのう。どれどれ、検索してみるか」
おひげをなでながらスマホを取り出す道祖神さん。
「ちょ、なんでそんなもの持ってるんですか」
「神じゃからな」
「はいはい、カレシなんかいませんよ。全部乙女の妄想です」
「知っとるわい。神じゃからな」
ああそうでしょうとも、ホント、性格の悪い神様でございますよね。
道祖神さんが杖を振って岩を指す。
「ここに座って桜でも愛でていくがいい」
「じゃあ、遠慮なく」
私がドシンと腰掛けると、道祖神さんは鼻の下を伸ばして荒い息を吐いた。
「若いおなごの尻の感触はええのお」
げっ!
岩が依り代って、そういうことなの?
私は思わず跳び上がって逃げた。
「サイテー、サイアク。セクハラですよ!」
「セクハラ? 何のことだか分からん。時代遅れの道祖神じゃからな」
「スマホ持ってるくせに」
「ホッホッホ。バレたか。少しは賢くなったかのう」
何よ、せっかく会いに来てあげたのに。
もう、二度と来ないからね。
ショッピングモールに寄って樋ノ口屋の栗饅頭でも買っていこうかと思ったとき、おばあちゃんと手をつないだ幼稚園帰りの女の子とすれ違った。
肩掛け鞄の他に、チューリップ柄の手提げ鞄を引きずっている。
「ほら、おばあちゃん、チューリップが咲いてるよ」
「きれいだねえ。誰かがお供えしていったんだね」
「今日ね、幼稚園でチューリップの折り紙作ったんだよ。おうちに帰ったら一緒に作ろうよ。作り方ね、あたしが教えてあげるから」
二人の姿を見送ってから、私も胸を張って歩きだした。
涙をこぼさないように。
でも、それは悲しみではなかった。
とてもあたたかな涙だった。
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