現代百物語 第29話 みっしり

河野章

第1話 現代百物 第29話 みっしり

「お前が最高に怖かった思い出って何?」

「はい?」

 何をいきなり、と谷本新也は酒を飲む手を止めた。

 いつもの高架下。一杯飲み屋でのことだった。

 友人でもあり新進気鋭の作家でもある藤崎柊輔を見返すと、藤崎は杯を傾けながら笑った。

「いや、単に興味っていうか……取材かな」

 自問するように少し酔っ払った藤崎が答える。

「怖かったこと……」

 あれやこれやと新也は思い出す。日常茶飯事すぎて覚えきれていない中で、ぽんっとひとつ思い浮かんだ過去の出来事があった。

 新也は顔をしかめた。

 一度思い浮かんでしまうと、それ以上に怖い思い出など無い気がした。

「あり、……ますけど。あんまり後味の良い話じゃないですよ。先輩が期待しているような話でもないですし」

 新也は忠告した。藤崎は眉を上げて意外そうな顔をした。

「珍しいな、お前がそう言うなんて」

 聞かせろよと、杯を満たされる。

 新也は少し迷ったが、結局は酔いにまかせて口を開いた。

「あれは、俺が小学4年生のときでした……」


 きっかけは忘れてしまいましたが、と新也は話した。

 新也は小学4年生だった。

 よく覚えているのは、4年生のときだけ途中で担任が変わったからだ。

 新也の通った小学校は藤崎とは校区が別だった。

 漢数字の三のように並んだ校舎が特徴的なマンモス校だった。

 1〜2年生が一番手前の校庭側の校舎を使用し、5〜6年生が真ん中、一番奥を四年生のクラスが、というふうにされていた、と新也は説明する。

 新也たち4年生のクラスがある3つ目の校舎の裏は山で、舎屋は常にジメジメと暗い印象だった。

 建築されたというのも一番古かったと言うから、児童達の間ではあの校舎だけは気味が悪いともっぱらの噂だった。

「新学期でした。担任の女性の先生に妙な影がついているのを見つけたんです」

「妙な影?」

 はい、と新也は頷く。

 それは最初、影の様なぼんやりとした存在だった。

 彼女の背後に一回り大きめの影がまとわりついている。それは日に日にくっきりとした人形になり、梅雨時期にははっきりとした男性の姿として新也には見えるようになっていた。

 紺と黒を混ぜたような濃いめのスーツ姿にネクタイ、黒い革靴。年齢は30前後と、担任と同じくらいだった。顔まではよく見えない。ただ、時折、影が何かを探すように首をかしげることがあった。その際には、黒目の無い白目だけの目がキョロキョロと動き回るのが見えた。

「それだけでも気味が悪かったですけど……」

 新也は続ける。

 梅雨時期の、ひんやりと空気が重い日だった。何日も続く雨で、教室の中は水で浸されたような湿気が充満していた。

 国語の授業だった。担任の教師が教科書を片手に生徒の間を歩き回り朗読をしていた。

 勿論影も彼女の後ろをついて歩く。

 そして、途中できょろきょろといつもの動きを始めた。

「そうしたら……僕のそばを通るときに、上から声がしたんです」

『見つけた』

 その声は確かにそう言った。ヘドロの粘つくような、くぐもった声だった。

 新也はぎゅっと目を閉じ気づかないふりをした。

 だが、駄目だったようだ。

「その日から、現れるようになったんです。その男が」

 思い出したくもない……と新也は杯を煽った。すぐに藤崎がその杯を満たす。

「現れるって……どこに?」

「箱の中に、です」

「箱?」

「箱です」

 思い返せば、小学校という場所ほど、箱が多い場所もない。

 下駄箱に掃除道具入れ、リュックをしまうロッカーに筆箱。算数の小道具が入っているお道具箱に裁縫箱、習字の入れ物。そしてランドセルに弁当箱。

「そういったところに、男がいました。箱で、蓋がしまるところならどこへでも。至るところに、原寸大の体を縮こませてギュウギュウに入っているんです」

「……」

 想像したのか、藤崎が少し身を引いた。

 酔いで少し思考の弱くなった新也は声を大きくした

「分かりますか?サイズは関係なしです!蓋を開けると、スーツ姿の男の体がみっしり詰まっ……っ!」

「しいっ」

 藤崎は慌てて新也の口元を押さえた。声が大きすぎる。

 もがもがと抗議をしていた新也だが、しばらくすると落ち着いたのか、藤崎の手を払った。深呼吸をする。

「兎に角、入れそうにもないところにまで男が体を折りたたんでみっしり詰まってるんです……何かの蓋を開ける度だったので、僕は怖くて怖くて。お弁当の時間が一番恐怖でした。お弁当の蓋を開けると、一面笑顔のあの男が白目を覗かせて……」

「もう良いって……」

 藤崎が観念したように両手を上げた。確かに不快だし、怖い。

 特に小学生からすれば30代など中年だろうから、何かを開けるたびに見ず知らずのおじさんがみっしりなどというのは苦痛以外の何ものでもなかっただろう。

「わかったよ。お前の一番怖かった経験」

「……まだですよ」

 不機嫌そうに、新也が酔った目で藤崎を眺めていた。

「まだ続きがあるのか」

 驚いて藤崎は促した。もうお腹はいっぱいなのにである。

「まだです……」

 担任の女性はそれからしばらくして、夏休みを前に体調不良だとかで学校を辞めた。

 それとともに、新也の周囲で男が現れることはなくなった。

 もうどの箱を開けても、男はいない。

「その当時の僕は、勿論学校の誰にも自分の体質を知られていませんでした。というか、自分でもよく分かってなかった頃……だったかもです」

「うん」

 藤崎は相槌を打つ。

「……男がみっしり詰まっているやつ、僕相当怖かったし驚いたんですよね。特に初回は……下駄箱を開けるとそこに男が体をくの字に折りたたんで詰まってました。まるで海苔巻きの断面みたいでした。そこで、『わあ!』って叫んじゃったんです。多くの級友がいる前で。……笑われましたよ」

「それは……」

 そこからだった。

 驚くまいと頑張るのだが、どうしても、何かを開けるたびに新也はびくっとする。

 級友が何もないのを見て笑う。そして些細な、最初はいじめとも呼べない……それが始まった。

 わあっと驚く新也の真似をする級友。ランドセルを開くのが怖いので、開けっ放しで登校する新也を真似る級友。新也が見えているものが分からずに、いきなり背後か『ばぁっ!』と驚かせてくる級友などが出てきた。

「いじめじゃないか」

 憤慨して藤崎が言った。新也は何となく、首を傾げた。

「そう、言って良いんだと最近は思えるようになりました。当時は自分が変だからだとしか……」

「お前が変だって……普通に見えないものを見ていたって、いじめる理由にはならないだろ」

 ふいっと藤崎が横を向く。腹を立ててくれているようだった。

 ありがとうございます、と新也は笑う。

「それで、ですね。……ある日、下駄箱でした。例の女性担任がいなくなった後で、その中にはもう何もいないはずでした。けど、僕がそこを開けようとすると背後からついてきていた級友たちがクスクス笑うんです。僕は開けるのを躊躇しました」

「……何が入ってた?」

 先が分かるかのように藤崎が促した。

「砂、でした。僕の上履きを覆い隠すようにみっしり。砂が、上から下までしっかり詰め込まれていて、僕はその中から上履きを掘り出しました」

「……」

 藤崎が、項垂れた新也に手を伸ばした。ほんの少し躊躇してから、ぽんっと頭にその手を乗せる。くしゃりと髪を掻き混ぜて、すぐに離す。

「そうか」

「はい……。怖かったです。悪意でも無い、……級友の無邪気さが」

 新也はぽつぽつと語った。

「その件は流石に、学校側に知られることになって……新しい担任がしっかりフォローしてくれました。僕へのいじめのようなものもすぐになくなって、バツが悪そうに何人かの級友が僕の家に謝りに来てくれました」

 新也は酒に目を落とした。

「これが、僕の一番怖かった思い出です」

「結局は人間か……」

 藤崎がしんみりと言った。

「弁当箱にみっしり詰まった男の人も相当怖かったですけどね」

「阿呆」

 付け加えて笑った新也に、ほろ苦く藤崎も笑った。



【end】

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