第8話 女の陰

 三日月の晩に旅立ち、今宵は十五夜だった。

 その晩は、古寺のお堂で宿を借りた。

 開け放たれた縁側から、夜風と共に月の光が忍び込む。その白い光が、柱に凭れかかったかぐやの姿を照らしていた。

 かぐやは昼の光よりもずっと、夜の光が似合う。ひっそりとした光が映すかぐやの姿は、現世うつつよに存在する者とは思い難いまでに美しい。かぐやが居るそこだけが、異なる処であるかのように。

 幾度眼にしても、その度に桃太郎は不可思議な心持ちになる。


「なあ桃太郎、知ってるか。命ってのは、黄泉の國から生まれてくるんだとさ」


 月の光を宿した眼で夜の闇を見詰めたまま、かぐやが云った。


「黄泉の、國?」

「そうだ。死んだ者は黄泉へ行き、そこで別の命となり再びこの世に生まれる」


 黄泉。または、冥界と呼ばれる國。根の堅州國ねのかたすくに

 一度黄泉に落ち、黄泉に触れてしまえば、別のモノになる。どんなに同じように見えても、以前とは違うモノに。



「女ってのは、黄泉と繋がる陰を持っている。だから腹の中に命を宿す事ができる」

「黄泉に繋がる、陰……」


 呟いて、桃太郎は僅かに頬を染めた。

 かぐやも桃太郎も、まだ当然女というものを知らない。けれど多少の淫靡な知識ならばある。何処の世にも、そういった事を教えたがる大人は居るものだ。祭りの晩などはまさに無法地帯。酒の入った大人たちが節操なしに大いに語る。子がどうやって成されるのかくらいの知識は、二人共持ち合わせていた。当然、女の体の作りも。


 女のほと。黄泉と繋がる門。冥界への入り口。

 男と女が交われば、その門は開く。

 黄泉から戻された命は、再び肉体を成し産み落とされる。


 それがことわり



「俺たちは生まれる時、黄泉と繋がる陰を辿っていない。もしかすると俺たち、黄泉とは違う別の処から来たのかもな」


 振り向いたかぐやの眼が、真っ直ぐに桃太郎を射る。月の光を宿した黒い眼。うつつとは異なるものを映す、美しい硬玉こうぎょく


 お前は何処から来たのだ? そう問われているように感じた。


 かぐや、お前こそ何処から来た?

 黒い眼に捕らわれたままの桃太郎の心が、静かにかぐやに問い返した。





 瓜から生まれた娘は、この村に居る。


 翌日、辿り着いた村の老人からその言葉を聞く事ができたのは、もう日暮れも迫る頃だった。

 娘を瓜から掬い上げ育てた老夫婦は一年程前に二人共この世を去り、今はその娘だけがそこに棲んでいるという。

 老夫婦が揃って亡くなって以来、村の者との交流もほとんどなく、今娘がどうしているのかも誰一人知る者はいなかった。


 桃太郎とかぐやは、村人から教えられた、瓜から生まれた娘が棲むという村外れの家へと向かった。

 陽はゆっくりと傾き、二人の足元を低く照らし出す。道のあちらこちらには草がぼうぼうと荒れ放題に伸び、滅多に人が訪れない事を物語っていた。


 こんなに物悲しい処に、娘がたった一人で暮らしているのか。

 胸の真ん中に、もやもやと厭な感覚が迫ってくるのを桃太郎は感じた。まるで進んではならないと、本能が警告してくるような。


 予兆。

 その娘の元へ行ってはならない。


 その靄を、桃太郎は振り切った。

 何を怯えているのだ。そんなわけがない。

 うつほから生まれたというのならば、自分たちと同じ処から来た者だ。ここまで来て、会わずに帰れるわけがないじゃないか。

 もうすぐ、この辺りも闇がやってくる。その闇に対する恐れを、おかしな警告と勘違いしているだけだ。こんな辺鄙な場所で、闇に包まれる事に怯えているだけだ。


「なんか、厭な感じがするな」

 

 並んで歩くかぐやが、ぽつりと呟いた。



 目の前に荒れ果てた茅葺き屋根の家が現れたのは、その直後だった。

 夕暮れの赤みを帯びた光に照らされ黒く濃い影を映すその家は、もう棲む者を失い疾うに打ち捨てられたようにすら見えた。


 こんな処に、娘がたった一人で暮らしている……?

 

 酷く、痛々しい。そんな事は、あってはならない。

 桃太郎もかぐやも、そう思った。


 恐る恐る、家に足を近づける。ぼうぼうと伸び放題に伸びた草が、僅かに二人の邪魔をする。

 生きたモノの気配はない。本当に、こんな処に娘が……?


「ごめんください」


 声をかけたのは、かぐやだった。静まりかえった空気に、音の余韻すらあっという間に消え失せる。

 静か過ぎる。虫の声すら、此処ここにはない。

 一切の音がない。風すら吹かない。

 此処は本当に、現世うつつよだろうか。

 知らぬ間に、黄泉へと迷い込んだか。


 返事の返らぬ戸を、かぐやは押し開けた。僅かにくすんだ音がした。

 あちらとこちらを隔てる戸が、開かれてしまった。

 そんなおかしく不吉な感覚が、桃太郎を襲う。


 何も見えない。戸の内側には一切の光も射しておらず、闇ばかりが巣くっていた。

 夜の闇よりも、ずっと濃く。



「誰か居ないのか」


 再び呼び掛けたかぐやの声が、闇に呑まれていく。


 誰か……。

 この家に棲むのは、瓜から生まれたという娘だけ。


 するりと、空気が動いた。闇を泳ぐように、気配が近づく。

 

 突然闇から生えるように、その娘は現れた。

 小さな体躯。切り揃えられた、おかっぱ頭。小豆色の着物。


 二人の正面に、娘は居た。

 ふっくらとした頬に、小さな鼻梁。桜貝のような唇。


 二人と変わらぬ年頃である筈の瓜から生まれた娘は、酷く幼い顔をしていた。只その眼だけは、すっと切れ長で、妖しげな気配を秘めていた。

 じっと見詰めてはならない。そう警戒させるような、底知れぬモノを帯びて。


 この娘の眼は、きっとうつほの闇に似ている。

 桃太郎は何故か、そう感じた。



「おらに、用か?」


 娘は小さな唇を動かし、尋ねた。鈴のような声だった。

 娘は、微かに眼を細めた。唇の端が、くいっと持ち上がる。


 娘は、笑っていた。


 

 桃太郎もかぐやも、何故か次の言葉を失っていた。

 目の前に居るこれは、娘ではなく、蛇だ。そして自分たちは、蛇に呑まれようとしている生餌。


 その娘に会ってはならない。

 桃太郎の本能は、ずっとそう警告していた。その警告を無視し、自分は今娘と対峙している。


 この娘は間違いなく、人ならざるモノ。人のなりはしていても、その内に潜む本質は恐ろしいまでの深い闇。

 この娘も、うつほから生まれた。自分たちと同じ処から、来た。


 桃太郎は、かぐやが息を呑むのを感じた。かぐやは、何かを云おうとしている。



「……お前は、瓜から生まれた娘なのか?」


 かぐやの声は、僅かに上擦っていた。

 娘の口角が、はっきりと動いた。戯れを楽しむように、にっと笑う。


「そう。おらは瓜から生まれた」


 鈴の音のような声は、そう答えた。そしてまた、眼を細める。酷く愉快なものでも眺めるように。

 その眼を、二人に向けた。片方ずつの眼で、桃太郎とかぐやを捕らえるように見る。



「お前たちも、おらとおんなじ。うつほの先から来たんでしょ」


 頭の先から背に向けて、すうっと悪寒が降りた。

 これ以上は、無理だ。この娘は、いけない。


 そう悟った瞬間、桃太郎の手をかぐやが引いた。

 かぐやは無言で桃太郎の手を掴み、来た道を引き返し始めた。


「かぐや!」


 手を引かれながら桃太郎が後ろから呼び掛けようも、かぐやは振り向かない。只強引に桃太郎を連れ、来た道を戻っていく。

 すでに陽は落ち、見渡す限り闇が覆い始めていた。すっかり闇が巣くってしまえば、一寸先すら判らぬ有り様になる。


 かぐやはどうしてしまったのだろう。あの娘に厭なものを感じたからといって、逃げ帰るなどかぐやらしくもない。

 かぐやは強い。桃太郎よりも、ずっと強い。かぐやが臆病風に吹かれるなど、桃太郎には考えられない。


「かぐや、待って! 止まってよ!」


 桃太郎は、かぐやの手を振り切ろうとした。けれどかぐやの手は硬く結ばれた紐のように、桃太郎の手を掴んで離さない。かぐやはこのまま、村まで逃げ帰るつもりなのか。それでは、何も先に進まない。


 あの娘は何も告げずとも、桃太郎とかぐやが空から生まれたモノである事を知っていた。

 あの娘は、知っている。全てを。



「かぐや!」


 かぐやの力に反発して、桃太郎がその腕を引き返す。ようやく、かぐやが足を止めた。


「……戻ろう、かぐや」


 かぐやの背中に、説得するように桃太郎が云う。かぐやは何も応えない。振り向きすらせず、只じっと立ち尽くしている。

 桃太郎は初めて、かぐやに苛立ちを覚えた。


「かぐや! なあ、戻ろう!」


 かぐやの手を無理矢理振りはらい、その正面に回る。桃太郎よりも僅かに高い、かぐやの眼を睨みつける。


 刹那、桃太郎ははっとした。

 不可思議な違和感を覚えた。填まるべきものが、微量に欠けた部分のせいでぴたりと合わぬ時に感じるような、気持ちの悪さ。

  

 おかしい。何も感じない。

 一度重ね合わせたら最後。桃太郎を捕らえて離さない筈の、かぐやの眼。いつでも全身の血の流れが増し、呼吸すら乱される筈の、漆黒の眼。その何処までも沈み込むような黒い硬玉は、幾度でも桃太郎を魅了する。

 そのかぐやの眼に、風に揺れる葉の動き程も心が動かない。


 桃太郎は、更に覗き込むようにかぐやの両眼をじっと見詰めた。

 やはり、一切心が動かない。



「……お前、本当にかぐやか?」


 思わず、そんな言葉が口をつく。

 そんなわけがない。偽者にすり変わる、そんな隙などなかった。

 けれど、やはり違う。

 今目の前に居るのは、かぐやに似て全く異なる別のモノ。姿形は上手く似せても、その内に秘めたものまでは似せる事はできない。


 かぐやの形をしたモノは、何も答えず桃太郎を見ていた。

 黒い瞳は何も映さない、只のうつほのように。



 桃太郎は踵を返して娘の家へ駆け出した。

 厭な予感が、胸の内側を酷く圧迫した。本物のかぐやは、まだあの娘の処に居る。


 桃太郎はすっかり闇に閉ざされた道を、足をもたつかせつんのめりそうになりながら、無我夢中で走った。

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