第6話 決意

 水面を、光が移ろいゆく。

 かぐやの漆黒の眼が、桃太郎を見据える。真っ直ぐに、射抜くように。


「桃の中から、生まれた……お前が……」


 かぐやの眼差しに、驚きの色はなかった。ただ真意を確かめようと、凛と正面から桃太郎の表情を窺う。

 桃太郎は小さく頷いた。尚も見詰めてくるかぐやの眼に、僅かに気後れしてしまう。

 灯籠の火が、かぐやの姿を夜の闇に映し出す。昼の光の下よりも、ずっと美しく。かがよう幻のように。まるで生身の人とは思えぬまでに、桃源郷に棲む天上人が如く麗しい。水を吸った薄い衣は、天女の羽衣の如くかぐやのきめ細かな肌を飾る。


 目の前に居るのは女人ではない。自分と同じ、少年。

 判っている筈なのに、桃太郎の心は幾度でもかぐやに奪われる。



「何もない筈のうつほから、君も俺も生まれた。俺は、自分が何処から来たのか、どうしてうつほから生まれてきたのか知りたい」


 心が完全に浚われる前に、桃太郎は云った。

 その答えをかぐやは知っているのではないか。知っているのならば、それを教えて欲しい。自分よりも遥かに完璧な姿をしたかぐやならば、きっと全てを知っている筈。そんな勝手な期待すら抱いて。


 

「残念だけど、俺も知らない」


 かぐやが返した言葉は、あっさりと桃太郎の期待を砕いた。


「俺も、自分が竹から生まれてきたって初めてじいさんばあさんから聞かされた時は、嘘だろって信じられなかったし変な気分だったけど、……まあ生まれてきちまったもんは仕方ないかって割り切って生きてきた」

 

 さらりとかぐやが云う。

 恐らくは、そう割り切るまでにはずいぶんと葛藤があったのだろう。

 幾つの時に告げられたのだろうか。まだ幼い内であれば、それは酷な話だ。


 桃太郎は眼を落とし、黙り込んだ。

 落胆というよりも、かぐやがあまりに何でもないように云うので、自分は少々悩みすぎなのではないか。そんな風に感じたのだ。

 かぐやのように割り切って生活する。それが正しいのかもしれない。悩んでみたところで何の答えも得られないのであれば、考えるだけ損だ。

 女の胎内から生まれようがうつほから生まれようが、今の自分にはきちんとした肉体がある。人のなりはしているし、異形の者ではないのだから、悩む必要などない。

 人として、今まで通りに生きていけばよいのではないか。そう割り切ってしまえば、きっと楽になる。


 けれど……。


 このまま、何も知らなかった頃のように生きていけるのか。

 自分が何者なのか、何処からやって来て、何故うつほに宿ったのか。

 人のなりはしていようと、きっと自分は人ではない者なのだろう。


 命は男女が対になり生まれる。

 神話では、この国すらも男女の神が夫婦めおととなり生んだという。


 魂は黄泉から呼び戻され、女の胎内に宿る。女の胎内は黄泉へと通じる。あの細く暗いホトの先には、黄泉がある。

 そうやって命は、幾度となく巡る。それがことわり

 この国が生まれた時からの、永い永い決め事。


 その理を破り、うつほから生まれた者は……。




「もう一人、うつほから生まれた者が居る」


 夜の帳の隙間を、かぐやの声が抜けた。


「ここからずっと離れた村に、瓜から生まれた娘が居るって話だ」



 かぐやの足が水を掻く。その動きが、なめらかな音を奏でる。

 桃太郎は頭の芯から、意識が音の方へ吸い寄せられていくような感覚を覚えた。行ってはならないと知っていても、いざなわれていく。

 虫を誘う、蝋燭の火。いや、そんな恐ろしいものではない。もっと優しく、甘い毒。

 これが、かぐやという者の魅力。


 もう一人、うつほから生まれた者が居る。


 かぐやの言葉。

 そんな事すらもうどうでもいい程、かぐやの魅力に引き寄せられる。


 池から上がったかぐやは、桃太郎の正面に立った。水をたっぷりと吸った衣は肌に張りつき、その肢体をくっきりと浮かび上がらせていた。何も身につけていないよりは幾分ましだが、桃太郎には充分過ぎる程の毒だ。

 心臓の音が速くなる。頬が熱く火照っていくのが判った。

 視線が落ち着かず定まらない。こんな有り様では、かぐやに動揺がばれてしまう。取り繕おうとすればする程、心臓は激しく打ちつける。

 

 対するかぐやは毅然としていた。

 かぐやに見据えられた桃太郎は、まるで木偶の坊のようにおろおろ立ち尽くす。ほぼ歳は変わらぬ筈なのに、この差は何なのだろう。

 魅了する者と、魅了された者の差。

 そういう事なのだろうか。



「お前、その娘に会いに行くのか?」


 かぐやが訊ねた。

 美しい円を描く黒い眸に、また吸い寄せられていく。

 桃太郎は唇をぎゅっと結んだまま、こくりと頷いた。

 かぐやが僅かに眼を細め、口元を綻ばす。


「……まあ、じいさんばあさんには充分いい思いさせてやった事だし、いい加減俺の好きにさせてもらうか」


 独り言のようにかぐやが洩らした。そして、悪戯をしようとしている童のような眼で桃太郎を見る。先程までの妖艶な様とは一転して、少年そのものの眼差し。



「俺、お前と一緒にいく」


 かぐやの口から飛び出した思いもよらぬ言葉に、桃太郎は目眩に似た不可思議な感覚に襲われた。速さを増した心臓の鼓動に、意識が呑まれていく。頭の芯がぐらぐらしていた。初めて知る、高揚感。

 この成り行きを喜んでいる自分に、桃太郎はようやく気づいた。


 

 

 その晩のうちに、かぐやは桃太郎との旅路についた。

 勿論、育ての親である老夫婦に何も告げずに、かぐやが独断で決めた事。女のなりをさせられ、私利私欲の為にいいように扱われていたとはいえ、育ててもらった恩を感じていないわけではない。かぐやは短い手紙を一枚だけ残した。



 月からの迎えが参りました。かぐやは天へ帰ります。



 朝目覚めて手紙を見た老夫婦は、おろおろ取り乱す事だろう。胸に覚えた僅かな心苦しさは、十六年分の情の為か。けれど、がんじがらめの鎖から解放される清々しさの方が、それよりもずっと勝っていた。


 身支度を整えたかぐやは、きちんと男のなりをしていた。

 腰よりも長い髪をひとつに束ね、決して上等とは云えぬ古めかしい衣。


「じいさんのを一枚頂いてきた。俺のはみんな女物の着物ばかりだし、あんな格好させられる前の衣は全部小さくなっちまったからな」


 そう零して笑ったかぐやの表情は、微かに苦かった。


「この髪も、もう邪魔だな」


 かぐやは小さく呟く。まるで自らを促すように。

 かぐやは旅道具の中に忍ばせていた刃物を取り出すと、束ねた髪を荒っぽく掴み、ざくりと切り落とした。

 

 桃太郎は、思わずあっと声を洩らしそうになった。

 切断された髪が、かぐやの手の中でだらりと垂れ下がる。まるでその様は、命を断たれた生き物のようだった。

 かぐやは切り落とした髪の重さを確かめるように、首を軽く左右に振った。半分程の長さになった髪が、かぐやの動きに合わせて揺れる。

 なめらかな美しい黒髪。男のかぐやには、もう必要のないもの。

 けれど桃太郎は、酷くもったいないと思った。できればそのまま、かぐやを艶やかに飾りたてるものであって欲しかった。

 漆黒の光を宿した長い髪は、かぐやにこそ似合う極上の賜物。

 そんな事を云ったならば、かぐやは機嫌を損ねるだろうか。


 勿論、決して口になどできないのだけれど。

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