十六の話
墨で染めたような夜空に、月が浮かんでいた。李花は白い息を吐きながら月を見つめてしまう。
月とはあんなにも明るく、溜息が出るほど美しいものなのか。
今まで空を見上げたことがあっただろうか。洗濯物を干したり取り込む以外に顔を上げたことがあっただろうか。
不意に目頭が熱くなり、視界の月が滲む。
自分ひとりだけ、こんなところまで来てしまった。まるで、ひとりだけ逃げるかのように。他にも感情を押し殺して働く人がいたのに、李花だけがそこから解放された。
裏切り者。そんな声が、耳の奥で響いた気がした。
ざり、と砂が鳴く。
李花は我に返って周囲を見回した。
路地の奥から足音が近づいてくる。地に足を踏み込めず、引きずるような音だ。
月明かりに照らされて、人の姿があらわになった。
坊主頭の老人だ。旅籠屋の主人が骨董品として取り寄せた達磨大師の絵を思わせる風貌である。
こんな真夜中に、なぜ。李花は疑問に思った矢先、だらりと垂れ下がった腕に目が行った。袖から血が滴り落ちる。
李花は思わず、ふみゃっ、と不抜けた声が出てしまい、老人が李花に目をやった。しかし、老人は歩みを止めずに過ぎ去ろうとする。
李花は唾をのみ、ほろっと言葉をこぼしてしまった。
「お待ち下さい」
脳裏に浮かんだのは、かつて旅籠屋で働いていた子ども。女将に折檻され、打ちどころが悪く腕の骨を折ってしまった子がいた。その上、ささくれ立った薪が刺さって出血し、傷口が化膿して熱を出した。それでも女将はその子を休ませず、乱暴に腕を固定して働かせた。いつしか、その子は姿を見せなくなった。李花は、遠目から見ることしかできなかった。胸を締めつける思いに蓋をして。
「怪我、していますよね」
老人は血の滴る腕を隠そうとする。李花は井戸の水を汲み、その腕に水をかけた。老人の着物にも水がかかってしまい、すみません、と小さく謝る。
座る場所もなく、立ったまま。血に染まった袖を素手で捲り上げると、やはり出血していた。李花は手ぬぐいを傷口に巻き、きつく締める。
老人は、わずかにうめき、それがきっかけになったように口を開く。
「お嬢ちゃんは、わしが怖くないのか」
咽喉が渇いたようなしわがれ声で問われ、李花は、わかりません、と答えた。
「今は、あなたの怪我が怖いです」
普通に暮らしていれば、滴るような出血も、夜半過ぎに怪我を負ったまま出歩くこともない。しかし、老人にはそうしなければならぬ理由があるのかもしれない。
誰かに追われているのか。李花がそう思ったとき、快闊な足音が耳に入った。
凍てつくように美しい月の下、李花は氷を投げつけられたように面を上げた。
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