十五の話

 毎日毎日、疲れに気づかないほど働いた。給金を気にする余裕もないほど働いた。食べなくても極限まで働けると思っていた。

 歩いただけでこんなに疲れるとは思わなかった。

 まるで泥の中を進んでいるかように、足がだるく重い。

 李花は早い時間に布団に横になり、気絶するように眠った。

 次に目を覚ましたのは、真夜中だった。月明かりが障子の隙間から差し込む。

 もう少し寝ようと目を閉じた刹那、ぼそぼそと喋る声が聞こえた。

 思わず身を強張らせ、耳を澄ませると、隣の部屋から聞こえてくる。未明びめいと蓮伍の部屋からだ。

 李花は志蓬を起こさぬよう静かに壁に近づき、耳を澄ませる。

 にねんまえ、と聞こえた。未明の声だった。



「二年前、俺は洸都こうとの女と情を通じていた。岡場所にいたところを商家の主人が後添のちぞえにと見受けしたそうだが、すぐに主人が病気で亡くなり、女も家を追い出されてしまったらしい。そこはすでに跡継ぎが決まっていたから、女に用はなかったと思われたそうだ。俺が女に出会ったのは、その後だった」



 話し相手は、蓮伍のようだ。

 李花は薄い壁に頬を押し当てて話に引き込まれた。

 妻子に先立たれた、と未明は李花に明かしてくれた。詳しい内容を、蓮伍に話しているのだろう。



「その女は、腹に蜥蜴とかげの刺青があった。一度だけ、刺青のことを訊ねたことがある。しかし女は、何も知らない、と言った。親の顔も出自も知らなかったそうだ」



 隙間風が袖口に忍び込む。

 李花は、未成長の胸にぽっかりと穴が空く気がした。心臓しんのぞうが早鐘を打つ。

 薄い壁の向こうにいるのは、李花の知らない未明だ。穏やかで、たまに口が悪く喧嘩っぱやく、李花に優しくしてくれる、“未明おにいちゃん”ではない。李花よりも十年長く生きている人の、昼間は見せないかげりだ。



「女が身籠もったとき、この上なく嬉しかった。おそらく、人生で一番嬉しかった時期だ。身を固めようと決めて準備をしていた。それなのに」



 言葉の続きは、李花にも想像できた。

 ごめんなさい。李花は心の中で謝る。勝手に話を聞いてしまって、ごめんなさい。最後まで聞く勇気がなくて、ごめんなさい。

 李花は静かに立ち上がり、かわやへ向かった。

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