二の話

 失礼致します。

 声を張ったはずなのに、か細く頼りなく、冷たい空気に溶けて流れてしまう。

 襖の向こうから、返事はない。

 李花は震えのおさまらぬ手で襖を開け、部屋に入った。

 頼りない灯にかろうじて照らされるのは、一組の布団と、そこに潜る人影。

 お待たせ致しました。

 布団の傍らに膝をつき、今一度、李花は声を絞り出す。

 返事の代わりに聞こえてきたのは、安らかな寝息だ。

 李花は安堵してしまった。発育の遅い胸に手を当て、呼吸を繰り返す。

 心の準備ができぬうちに犯されなくてよかった。しかし、この後はどうしよう。自分は色を売るためにここにいる。何もせずに寝所を出るわけにはゆかぬ。この人を起こし、を済ませてもらわなくてはならぬ。しかし、思うように声が出ない。指先が痺れ、息が苦しい。目がちかちかする。

 頬から顎へ、顎から薄い胸へ、涙が零れて伝い落つ。

 李花の小さな体が、横に傾いだ。



 掛布団が、はねけられる。

 傾いだ体は、倒れる前に支えられた。

 大きな体に引き寄せられ、抱きしめられる。

「怖かったね」

 耳元で囁くは、男の低い声。声音は低いが、柔らかく、耳に心地良い。

「怖くないよ。何もしない」

 背中を撫でられ、李花は息を吐いた。

 見えずとも、大きな手だと解った。

「ゆっくり、息を吸って。ゆっくり、息を吐いて。何も考えず、楽にして」

 言われるがまま、李花は息を吸い、息を吐く。

 どれくらい、そうしていただろうか。手の痺れが治まり、息も楽になり、涙もおさまる。

「そう。良い子だね」

 抱擁を解かれ、李花は顔を上げる。涙の乾いた頬を撫でられ、下ろした髪を指先で梳かれ、血の気が引く思いがした。

 目の前にいるのは、男。女のように髪は李花のような黒色ではなく、螺鈿細工のように煌めく不思議な色。声の雰囲気とは異なる、柔和な女顔。しかし、男なのだ。そして、李花の客。

 男は李花の髪をもてあそんだまま、整った眉をひそめる。

「きみ、もしかして、口が」

「きけます!」

 李花は弾かれたように、咽喉から声が出た。

 男は目を丸くし、慈しむように細める。

「名は」

 訊ねられ、李花は答える。

「李花と申します」

 一度開通した咽喉は、すんなり声を通した。

「齢は」

「十二でございます」

 物心ついたときからこの旅籠屋に住み込みで働き、一通りの礼儀作法は身につけた。はずだ。失礼のないように、訛りは出さぬように、お客様には絶対に逆らわないこと。今それが実践できているだろうか。

 李花は早鐘を打つ心臓しんのぞうに気づかれぬように、ゆっくり息をする。

「廊下で見かけた少女と話がしたい、と言っただけなのに、女将は何を勘違いされたか」

 男は歌うように言葉を紡ぐ。

「化粧をさせ、女郎のような格好なりをさせ、こんなにも怖がらせて」

 言葉を紡ぎながら、指は李花の髪を梳いて遊ぶ。

「失礼。職業柄、美しい髪を見ると、触れたくなる」

 何か話さなくては。

「お仕事は、髪結い、でございますか」

 李花が訊ねると、男は首を横に振った。

深埜しんのの里で、かんざしづくりを生業なりわいにしている」

 深埜の里、という地は、学のない李花でも聞いたことがある。城下町を川に囲まれた長閑のどかな里である、と。

未明びめい。俺の名だよ」

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