女神さまは引きこもりたい!

高巻 柚宇

第1話 ダンジョンてそもそも何?

「はぁ、はぁ……」


 荒い呼吸音が微かに木霊するのは太陽の光が全くといっていいほど入ってこない薄暗い洞窟のような場所。正確に言えばそこはダンジョンと呼ばれる場所である。


 ダンジョンは地上にできた洞窟から地下に向かって伸びているため奥に進めば進むほど太陽の光は当然ながら入ってこない。しかし荒い呼吸が聞こえるのはダンジョンの奥深くではなく、全体的に見れば入り口にほど近い第一層。


 第一層といっても地下十メートルほどの場所にあるため太陽の光が入ってこないのは変わりないが、それでも他の層に比べれば明るい方だ。それにダンジョンには日太陽の光が届かない代わりに自ら発光する不思議な花が咲いているため視界が確保できないということはまずない。


 そんなダンジョン第一層を息を荒げながら走り回るのは赤毛というには暗いが、黒髪というには明るすぎる茶色い髪の少年。少年の右手には遠目から見てもよく手入れがされている小さなナイフが握られており、少年はそのナイフをしっかりと握りしめながらしっかりとした足取りで地面を蹴っている。


 その少年だけに焦点を当てれば獲物を追う狩人にも見えなくないが、少年の五メートルほど後ろに視線を移すと少年が獲物を追っているのではなく、少年が追われる獲物になっていることが分かる。


 明るい茶髪の少年は今まさに自分を追いかける黒い毛並みのオオカミから逃げている真っ最中だった。その光景は狩人から逃げる狸のようであり、目撃したものは少年に小動物のような印象を抱くだろう。


 少年の名前はレクト・ラスカル。つい最近このダンジョンに挑み始めたビギナー冒険者の一人であり、ビギナーによくある典型的なピンチに陥った哀れな少年である。


「はぁ、はぁ……」


 ちらりと後ろを振り返って自らを追いかける二匹のオオカミとの距離を確認すると、レクトはすぐに進行方向に視線を戻して必死に足を回転させる。喉が焼けるように熱く、痰が絡んで呼吸がしにくくなるものお構いなしにレクトは走った。それはもう必死に走った。


 なぜならもし黒いオオカミたちに追いつかれてしまったらレクトの命はないから。


 狸のように逃げるレクトのことを追う二匹の黒いオオカミは普通のオオカミではない。ダンジョンに住み着く魔物の一種であり、その凶暴な牙と俊敏な足が特徴的な生物である。


 装備がしっかりとしたベテラン冒険者ならさほど苦になるようなレベルではないのだが、まだ戦いに慣れていないビギナー冒険者にとっては少し手強い相手だ。ただビギナーでも対処法を間違えなければ十分倒せるレベルである。ただし単体ならば。


 名前をセイブル・ウルフという魔物の最大の特徴は鋭い牙でも俊敏な足でもなく、周囲にいる仲間を集める遠吠えだ。群れを作るセイブル・ウルフだが狩猟時は基本的に単体で動き、獲物を見つけると遠吠えを使って仲間を呼び出す。


 そして何匹も仲間を呼んで群れを成すことで獲物をじりじりと追い詰めながら仕留めるのだ。群れを成したセイブル・ウルフはベテラン冒険者ににとっても手間取る敵であり、ビギナーが群れのセイブル・ウルフに狙われたらひとたまりもないだろう。


 そのためセイブル・ウルフに遭遇した時の定石は仲間を呼ばれる前に単体のセイブル・ウルフを仕留めること。その際、セイブル・ウルフの血液をある程度流すことが推奨される。鼻の良いセイブル・ウルフに同族の血の匂いを嗅ぎつけると脅威を感じて遠ざかる習性があるからだ。


 つまりビギナーでもセイブル・ウルフに遭遇した際に選択を間違えなければ十分生き残ることが可能である。


 ただ冒険者として経験の浅いレクトはたまたま遭遇してしまったセイブル・ウルフを前にして恐怖を感じて逃げ出してしまった。そうして今の状況に陥ったのだ。


 ナイフを片手に握りしめているが、それはもはや御守りでしかなかった。レクトは一心不乱に逃げて逃げて逃げ惑う。セイブル・ウルフの特性を知らないレクトはこのまま逃げ続ければ、いつか相手が諦めてくれるかもしれないという淡い期待を抱いているが、その期待とは裏腹に次々とセイブル・ウルフが集まってきて群れを成していく。


 セイブル・ウルフが集まれば集まるほど生存率は著しく低下していくが、ビギナー冒険者のレクトはそんなことを知らない。一方のセイブル・ウルフはレクトを弱らせるために泳がせながら追っていく。


 両者の間に保たれる絶妙な距離感が逃げる方に希望を持たせ続け、その体力をみるみると削っていく。群れを成すセイブル・ウルフは狩人の理想的な存在だった。


「わっ……」


 いつの間にか七体に増えているセイブル・ウルフは威嚇の意を含んだ鳴き声をレクトに浴びせる。その声に驚いたレクトは足をもつれさせ、その場に倒れこんでしまった。


 顔から転んだレクトだが、とっさに両手を使って衝撃を軽減したため顔に傷はない。ただ倒れた際の衝撃で膝や手のひらから出血してしまい、傷口からジンジンとした痛みがレクトに襲い掛かる。その痛みがレクトにまだ生きているということを強く実感させるが、レクトは立ち上がることができなかった。


 膝の痛みもそうだが、それ以上にセイブル・ウルフに囲まれたことに対する恐怖心で動けなかったのだ。


 グルルルル……


 地面に倒れこむレクトから漂う鮮血の匂いに敏感に反応したセイブル・ウルフがレクトを囲むように位置を変える。このままいけばレクトはセイブル・ウルフたちによって一斉に貪り食われるだろう。


 セイブル・ウルフの特性を知らなくとも本能的にその光景を予期したレクトはガタガタと死への恐怖に身を震わせる。その視線は右手に握られるよく手入れされたナイフに向いており、このナイフを使って自決すれば楽に死ねるのではないかといった考えが脳内を駆け巡る。


 貪り食われる痛みに耐えながら死ぬくらいなら、このナイフで一思いに自分の首を切った方が痛みも少ない。そう考えた刹那、レクトの右手は自然と自分の首元に向かっており、よく手入れされたナイフは自分の首筋に突き付けられている。


 ちょっと力を込めて手首を返せば頸動脈が切れて楽に死ねる。すでにレクトの脳内は死への恐怖から苦痛のない死を求めるものに変わっていた。じりじりと迫るセイブル・ウルフを視界の片隅にとらえながらレクトは右手をもう一度ぎゅっと握りしめる。そしていざ右手を返そうとしたその時だった。


「あら」


 レクトの耳に聞きなれない女性の声が届く。その声に驚いたのか、セイブル・ウルフたちは動きを止めて声のした方向へと振り返る。自決を覚悟したレクトも釣られて視線を移した。


 するとそこにいたのはダンジョンに入るには似つかわしいほど軽装な女性。というよりも纏っているのは装備が全くといっていいほどないドレスのようなフリルのついた服であり、ダンジョンよりも貴族の舞踏会の方がお似合いな服装だ。


 だが服装以上にその女性を高貴に見せるのは雪の世界を連想させるような白銀の長い髪と見るものを虜にする翡翠のような美しい瞳。その白い肌は絹よりもなめらかであり、女性の容姿はこの世のものでは表現できないほど美しかった。


 白銀の髪をした女性は地面に倒れこむレクトと一瞥すると微かに微笑みを浮かべて呟く。


「いいものを見つけたわ」


 それがレクトとルーシェルの最初の出会いだった。

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