第8話 鏡の魔術

 イズメイルは自分勝手で、感情の起伏が激しく、驚くほど身の程知らずな愚か者だが、決して悪辣ではない。悪く言えば軽率、よく言えば自分に素直なのだろう。彼は適当なこと――少なくとも本人はそう主張している――を言い、最後の最後で空約束をしたと言うが、それまで自分の話に耳を傾け、共に語り合ったあの時の誠実そうな眼差し、そして笑い合った言葉に嘘はなかったと、エウリアスは信じることができる。


 イズメイルは、自分の無責任さと誠意のなさを悔いて涙を流す程には善良なのだ。少なくとも、その時のエウリアスにはそう思えた。


「まあ、まずは、三年後お前がちゃんと宮廷魔術師として戻ってこれるかだけどな。お前は感情的すぎる。そんなんじゃ宮廷に戻ってこられてもいつか首を刎ねられるぞ」


 エウリアスがにやりと笑って言えば、イズメイルは顔を青ざめさせ、目を見開き口を戦慄かせながら頭を左右に振った。


「嫌なら三年の間に感情を自由に扱える術を身に付けておけ。後先考えずに怒ったり泣いたりするな」


 出会った当初といい今日といい、彼の行動と言動はあまりにも感情に身を任せすぎだ。宮廷では些細な隙が命取りになる。そのせいで父帝の怒りを買って処刑された家臣や魔術師は数知れない。イズメイルにはそのような末期を辿って欲しくなかった。


「俺は将軍になるために努力するから、お前も帝国一の魔術師になれるように努力しろ。そして、共に歴史に名を残す偉人になってやろう」


 イズメイルがこちらを静かに見つめていた。エウリアスは、急に気恥ずかしくなって目線をさ迷わせ、頬や額を掻く。


「まあ嫌なら別にいいけど。俺は俺で頑張るし。お前は好きなようにすればいいさ。でも、お前が一緒なら、その、嬉しいと思わないでもない……」


  くすりと笑う声が聞こえた。見れば、イズメイルがエメラルド色の目を細めながら泣き笑いのような表情でこちらを見ていた。


「お前、やっぱり馬鹿だね。でも嫌いじゃない」


 少なくとも自分の言葉を彼は拒否しなかった。それだけでエウリアスの心は晴れる。喜びと温もりがじんわり胸に広がり、思わず顔が綻んだ。


「そうだ、ちゃんとお礼言えてなかったけど、貴方のお陰で宮廷魔術師の道を絶たれずに済んだんだ。助けてくれてありがとう、エウリアス殿下」


 イズメイルに改まったように言われて、エウリアスはああそういえばと思い出す。


「別にかまわない。大したことしてないし、父上が決めたことだからな。それよりお前、俺のことはエウルって呼べ。殿下なんて堅苦しい呼び方するな」


 エウリアスがそう言うと、イズメイルは目を瞬かせた。ややあって躊躇いがちに「エウル」と呟かれたその言葉に、エウリアスは満足そうに笑みを浮かべる。他人にこの名を呼ばせたのは、母に次いで彼が二人目だった。友人となった少年に愛称で呼ばれるのは、こそばゆくも心地よく、嬉しいものだった。


「お前はなんて呼べばいい?」

「……イズ。家族や友人からはそう呼ばれていた」

「そうか、イズか。イズだな」


 二人の少年はにやにやと笑い合いながら固く手を握り合った。芽生え始めた友情を祝福するように、初夏の風が彼らの頬と髪を撫でていった。



 ***



 それからエウリアスは定期的にエゼルキウスの元へ通った。だいたいは週に一度で、時折週に二度。自身の日課をこなしつつ、暇が出来るとイズメイルに会いに行くのが習慣となっていた。そして、気が向けばイズメイルやエゼルキウスの一番弟子であるナシードと共に魔術の修行に参加するのだ。

 参加するといっても、エウリアスに魔力はないので魔術は使えない。だから、ナシードやイズメイルが魔術を使うのを観察し、エゼルキウスの講義に耳を傾ける。それだけでも、日々新しい発見を見出だせるのは面白いことだった。


 そして、意外だったのは、エゼルキウスが自身の邸宅で第四地区の子供たちを集め、週に何度か学校のようなものを開いていることだった。もちろん教師はエゼルキウスで、彼は少年たちに読み書きや礼儀作法、算術に弁論、天文学、そして時には哲学についても講義している。エゼルキウスが不在の折はナシードが代行し、また別の日には少女ばかりを集めて、エゼルキウスの孫娘であるパルミア――初めてここを訪れたときに出迎えてくれたあの少女だ――が裁縫や家事を指導している。


 彼らの学校は評判のようだった。魔術師としても教育者としても、エゼルキウスは人々に慕われているのだ。


 だが、エゼルキウスの指導は厳しいことでも有名だった。学校の教師としてはそうでもないのだが、魔術の師匠となると、彼の容赦のなさは一目瞭然だった。邸に怒鳴り声が響くことも珍しくはなく、その後は決まってイズメイルが悔し涙を流しながら中庭にうずくまっているのだ。ニクスールの言った"生半可な指導ではない"という言葉の意味を理解したエウリアスは、心胆を寒からしめられる思いでイズメイルを励ますことしか出来なかった。


 エウリアスが来訪すると、始めのうちはパルミアかエゼルキウス自身がエウリアスとニクスールを迎えていた。だが、いつの頃からかイズメイルが顔を出すようになり、やがては自分たちが来るのを予測していたように、扉の前で待っていることが多くなった。特に来訪の予定を伝えているわけではないのに、なぜ分かるのか不思議に思っていると、ある日イズメイルがその答えを教えてくれた。


 その日はエゼルキウスとパルミアが外出しており、ナシードが代わりに表で授業を行っているため、イズメイルは思う存分にエウリアスの相手が出来る貴重な一日だった。


「これのお陰だよ」


 そう言って中庭の長椅子に腰掛けながらイズメイルが示したのは、首から提げた手のひら大の鏡だった。楕円形をしていて、縁は植物を象った金の細工で飾られている。鏡の表面は磨き抜かれ、日の光を照り返して美しく輝いていた。


「……鏡術か!」


 エウリアスが閃いたように叫ぶと、イズメイルは驚いたように目を見開いた。


「知っているの?」

「ああ。本で読んだ。でも、実際に鏡術用の鏡を見たのは初めてだ」


 鏡を使って未来を占い、過去を視る鏡術。

 宮殿の図書館で魔術に関する資料を漁っていた時に、鏡術についても調べたので、ある程度の知識は持っている。鏡術は魔術をかじった人間であれば習得は容易いものの、追求していけば呪術や禁術にも通じる奥の深い魔術なのだ。


「これで俺たちが来るのを予測していたのか?」

「その通り。お前たちの来訪だけじゃなくて、お前が今日何を持ってきたかもちゃんと分かっている」


 イズメイルはそう言ってにやりと笑うと、エウリアスの前に手を出した。


「干し杏のお菓子、今日も持ってきてくれたんでしょう?」


 エウリアスは目を丸くして鏡とイズメイルの顔を何度も見比べた。そしてため息をつくとニクスールを呼び、彼に持たせていた小さな包みをイズメイルに手渡してやる。好物を手に入れた彼は嬉々としながら包みを開き、干し杏と胡桃の香ばしい焼き菓子に目を輝かせた。ふんわりと甘い香りを振り撒くそれをひとつつまんで口に入れ、イズメイルは幸せそうに目を細めながら微笑む。


「これ大好きなんだよね。市場にも売ってるけど、お前が持ってきてくれる宮殿のやつは格別だ」


 ひとつまたひとつと口に放り込み、あっという間に平らげてしまうと、もうなくなったのかと言わんばかりの表情で空になった包みを眺めている。その様子にエウリアスは呆れを隠せない。


「お前はひとつくらい俺にも分けてやろうとか考えないのか。全部ひとりで食いやがって」

「お前はいつでも食べられるからいいじゃないか」


 イズメイルはそう言うと、勢いよく長椅子から立ち上がり、手を翳しながら中庭から見える青空を仰ぎ見た。夏の目映い日差しに白金の髪が照り輝いている。雲ひとつない空を眺めながら、彼は左手で鏡を持ち上げ、顔に翳していた右手を鏡の上で規則的に動かす。低い声で紡がれる異国の呪文は歌うような不思議な響きを持っており、それに聞き惚れていると、鏡の表面が次第に泡立ち白い光を放ち始めた。イズメイルが鏡の中から何かを引っ張り出すような動きを見せると、灰色の雲のようなものが姿を現し、鏡に向かって激しい雨を降らせた。それを見届けたイズメイルが鏡の表面を撫でるように手を払うと、雨雲と雨は一瞬で消えてなくなり、鏡も何事もなかったかのように元に戻った。


「……この後雨が降るみたい」


 イズメイルはそう言うと、エウリアスを振り返ってにこりと笑った。


「鏡術といえば天候占いとも言われるくらい天気を調べるのによく使われるけど、実際に天気を調べる時は今みたいにやるんだ。雨が降る時はさっきみたいに鏡の上に雨雲と雨が現れる。調べたい時の空模様が鏡の魔術を通して具現化されるんだ。今日は夕方から雨が降るみたいだから早く帰った方がよさそうだね」

「へえ。凄いなぁ」


 宮廷や戦の場でも、魔術師による天候占いは重宝されるものだが、実際にその術を使う現場をエウリアスは見たことがなかった。初めて間近で目の当たりにした鏡の魔術は、彼の好奇心をいたく刺激した。


「他にはどんなことができるんだ? やってみせろ」


 イズメイルは再び鏡の上に手を翳し、呪文を唱える。光を発し始めた鏡は表面を波立たせ、様々な光景を写し出した。いささか緊張した面持ちで子供たちの前で講義を行い、好奇心旺盛な質問の数々にも嫌な顔ひとつ見せずに丁寧に答えてやるナシードの姿、寝込む病人を見舞いながら、傍らの妻であろう人物と真剣な面差しで話をするエゼルキウス、暇潰しに玄関広間のモザイクをつぶさに観察するニクスール。そして宮殿の様子や、遠く離れたプリュクサの草原地帯の風景。今現在各地で起こっていることが、この鏡の中で次々と現れては消えてゆく。エウリアスは夢中で鏡を覗き込んだ。小さな鏡の中に広がる世界にすっかり魅了されていた。



「鏡術っていうのは何でも見ることができるのか? 例えば、行ったことのない国のこととか、会ったことのない人とか、そういうのでもいいのか?」


 エウリアスはふと疑問に思ったことを聞いてみた。思う存分に術を披露したイズメイルが鏡を懐にしまいながら答える。


「何でもは無理だよ。鏡術で見ることができるのは自分が知っている場所と人についてだけ。見たい場所や人の正確な名前を知っていて、かつその姿形を明確に頭に思い浮かべることができないと術は発動しない」

「じゃあ、例えば、偶然見かけた女に恋をして、彼女が今何をしているか知りたくても、名前が分からなければ見られないのか?」

「そういうこと。でも、名前を知らなくても見る方法もある。相手の身体の一部を使うんだ」


 イズメイルが言うと、エウリアスはごくりと唾を飲み込んだ。人体の一部と聞くと、とてつもなくおぞましい生け贄の儀式ように思え、背筋に冷たいものが走る。


「身体の一部といっても、髪の毛とか爪とか、そういうのでかまわない。一番いいのは本人の皮膚なんだけどね。それを術を掛けるときに鏡に落とし込むんだ。要は相手の情報が必要なんだよ」

「……なんだか、呪術めいているな」

「元々、鏡術は三千年以上前に相手を呪い殺すための呪法として産み出されたんだ。次第に害のない占術として整えられていったんだけど、相手の身体を使うのは、鏡術が呪法だった頃の名残だよ。だから呪術めいているっていうのは間違いじゃないね。でも、そう都合よく相手の髪の毛とか手に入れられるとも限らないし、仮に手に入れても持ち主が違えば術は発動しない。それに、髪の毛とか爪を使うとなると呪文や手順もより複雑になる。普通の魔術師はこんな面倒な方法はまず使わないよ。余程の理由がない限りね」


 そう言って笑うと、イズメイルは長椅子から立ち上がる。その瞬間、玄関広間でわあっと子供の声が上がった。授業が終わったようだ。イズメイルは「後片付け手伝わないと」と言いながら、教室代わりの部屋に駆けていった。それと入れ替わるように、子供の波から逃れてきたニクスールがやってくる。


「……まったく、やかましい餓鬼どもめ……」


 ニクスールは小声で呟いたようだったが、エウリアスはしっかりと聞いてしまった。驚いて彼を見上げると、ニクスールは慌てて咳払いをしながら目を逸らした。


「失礼。今のはお忘れください」


 忘れられるわけがなかろうと半ば呆れつつ彼を一瞥して空を見上げる。快晴だった空には、確かにイズメイルが言った通り雲が出始めていた。

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